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「それじゃあ行ってくる」
「いってらっしゃいませ、ルーカス様」
男にカバンを手渡し、そして深々と頭を下げる女とそれを当然のように受け取る男は夫婦である。
とある国ではそれは立派な夫婦の形ではあったが、この国では違った。
夫を見送ることはあっても、妻が夫の荷物を持つことなどない。特に彼らのような貴族であるならなおのことだ。なぜなら、それは使用人の仕事だからだ。
そんな不思議な行動を使用人は止めることはできない。
なぜならそれは当主であるルーカスが決めたことだからだ。
ルーカス=クロードとルナ=クロードはれっきとした夫婦ではあるが、この光景を見ればわかる通り普通の夫婦とは少し関係が違った。
夫婦であるはずの彼らは二つの寝室を使っている。ルナとルーカスが同じ布団で寝たことは一度もない。それどころか、ルナがルーカスの寝室に足を踏み入れたことは一度もなかった。もちろん初夜は迎えていない。
ルナは毎日決まった時刻になるとルーカスの部屋の戸を叩く。
毎日きっかり同じ時間、時計の針が180度開いた時に起こしにくるように夫であるルーカスから言われているからだ。
ルナはルーカスの指示に従い、指定された時刻の数分前に部屋の前に待機し、言われた通りの時間になったときに戸を叩くようにしている。
「おはようございます」
ルナは朝の挨拶と共にドアを三回叩く。すると、すぐに
「ああ」
という声が部屋の中から聞こえてくる。
そしてしばらくしてルーカスは部屋から出てくる。
そう、ルーカスはルナが起こしに行くころにはすでに起きていて、着替えまで完璧に済ませているのだ。
それでもルーカスはルナにこの役目を課した。
ルナはそれがなぜなのかわからなかった。
「おはよう」
部屋から出てきたルーカスに一礼し、ルーカスの後についていくルナ。
角を曲がる度にルナがついてきているか確認するルーカスにルナは申し訳ないとばかりにルーカスの歩調に合わせる。
デビュタントを迎えたばかりの少女と同じかそれよりも小柄なルナと、屈強な門番達と同じくらいの背丈のルーカスでは歩幅に2倍ほどの差がある。それをなんとかついていこうとルナは必死で足を動かした。シェフによって用意された朝食の席に着くころにはルナの額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
まるで機械のようにほとんど同じ時間に食事を終えるルーカスは、起きた時間から時計の長い方の針が少し進んだ頃に決まって席を立つ。
それはルーカスが屋敷を出発することの合図だ。
ルナはすでに準備してあるルーカスの荷物を持って、玄関へと先ほどと同じように早足で向かう。
夕刻になればルーカスは勤め先の城からこれまた同じ時間に帰宅をし、そしてルナに荷物を預ける。
ルーカスが決まった時間に帰宅しなかったことは、ルナと結婚してから片手の指で数えられるほどの回数しかない。
そして、そんなルーカスを出迎えるためにルナは毎日決まった時間に玄関へ向かうのだ。
こんな傍から見れば不思議な夫婦関係にルナは満足していた。
ルナはルーカスと共にいられるだけで満足なのだ。
それどころかルナはこれ以上望むことなどしてはいけないと考えていた。
◇◇◇
ルーカス=クロードは数か月ほど前まではルナの姉、エル=ランドールの婚約者であった。
ある日、ランドール家にルナあての王家主催のお茶会の招待状が届いた。
普段であればこのような公の、それも王家が主催の規模の大きい会はどんなに遅くとも1週間以上前までには届くはずの手紙であった。それがなぜかこの時は開催する日付の2日前に届くというのは異例のことが起きた。
しかし、数日前からルナは高熱を出し寝込んでいた。
王家からの公式の誘いを断るわけにもいかず、ランドール家はルナの代役として姉のエルを出席させることにした。
今回のお茶会は体の弱い第4王子の婚約者を探すためのお茶会であった。そのため、婚約者がいない貴族の令嬢を中心に手紙を送っていたのだ。
だから、婚約者がいて地位もそれほど高くはない姉のエルの元には招待状が送られてくることはなく、婚約者がいない妹のルナにだけ招待状は送られてきたのだ。
そしてエルと第4王子、マイク=ベネットは恋に落ちたのだ。
マイクは第4王子で王位継承権が低いこと、また彼の身体が弱いことから政権争いには遠い存在とみなされていた。そしてマイクがエルとの婚姻を熱望したことから、伯爵家という王族とは程遠い爵位を持ちながらエル=ランドールとマイク=ベネットは婚約をした。
その時、わずか半年後に結婚式を挙げる予定が迫っていたルーカスとの婚約を破棄して……。
◇◇◇
ルーカス様はお姉様のことを愛していた。それは、ルーカス様に恋い焦がれていた私がすぐに気付いたことだった。
初めはほとんど変わらなかった表情がここ数年で和らいでいた。
特にこの1年は、私と話すときは若干こわばっている顔もお姉様と話すときは優しい表情をしていた。
ルーカス様は宰相という仕事柄、主君である王子とその妻となるお姉様の結婚式には参加しなければならなかった。
だが、その結婚式でルーカス様を見かけることはなかった。
たとえ相手が王子だとしても愛している人が他人に取られるところなど見たくもなかったのだろう。
ルナは自分が姉ではないことをひどく悔しく思った。
姉であれば彼を手に入れることが出来たのに――と。
そして、ルナは行動を起こした。
仕事熱心なルーカスならきっとこんな日も仕事をしているのだろうと思い、ルーカスの仕事部屋、宰相室に単身で乗り込んだ。
いきなり訪れたルナに目を丸くするルーカスにルナは大きく息を吸い込んでから、自分の意見を述べた。
「ルーカス様、姉の代わりに私と結婚してはいただけないでしょうか。長女ではありませんが、私もれっきとしたランドール家の娘。当家とのつながりならば私と結婚したとしても得られます」
ルーカスが欲しいのはランドール家とのつながりではないことぐらいわかっていた。それでも、ルナにはルーカスを手に入れるためのこれ以上の言葉は思いつかなかった。
「しかし……」
「ルーカス様がランドール家とのつながりを得たいのと同様に当家もあなたとのつながりが欲しいのです」
ランドール家がルーカス様とのつながりを手放したくないのは本当のことだ。だが、ルーカス様本人とのつながりを欲しているのは私だ。
「……」
「お考えになっていただけないでしょうか」
何とか落ち着いているように取り繕って出た言葉。
それはあたかもルーカスにも利益があるかのような言い方であった。
宰相になる前ならまだしも、宰相であるルーカスが、ランドール家のようなただの伯爵家とのつながりがそこまで大切なものとは思えない。
結婚する相手が愛しているお姉様ならそれは大切なものではあるが、私はお姉様ではない。
それに、今回の婚約破棄はランドール家からの一方的なものだった。
ルーカス様には何の落ち度もない。
現宰相のルーカス様ならば、公爵家の令嬢と結婚することもできるだろう。
その方が私なんかと結婚するよりよっぽどいい。
愛した女とは結婚できない代わりに彼は強力な後ろ盾を手にすることが出来る。
それは貴族の、政治の中ではとても大切なものであることは政治には詳しくない私でも知っているようなことだった。
だから、自分で言ったことではあるが断られると思った。それが当たり前だと。
「わかった。互いの家のためにあなたと結婚しよう」
ルーカスはひどく淡白な声で承諾した。まるで何かの契約をしたかのように。
宰相のルーカス様ならば私と結婚したとしてもあまり利益がないことなんてわかっているだろう。
それでも、結婚を承諾してくれたのだ。
全ては当家とのつながり、お姉様とのつながりが欲しいために。
そこから、半年が経って私はルーカス様と結婚をした。
ルーカス様が身に纏うのはお姉様との結婚式に着る予定だった真っ白いタキシード。
そして私はルーカス様のタキシードにあったデザインの、本来ならばお姉様が着る予定だったものを急遽私に合うように手直しをしたウエディングドレスを身に纏って式を挙げた。
そして私はお姉様の代替品としてルーカス様の妻、ルナ=クロードになりました。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、ルーカス様」
今日もいつもと変わらず同じ時刻に帰ってきたルーカス。
そして、ルーカスからいつものように荷物を受け取るルナ。
いつもと違うことといえば今日は二人の結婚記念日だということ。
だがそんなことはルーカス様には関係ないことなのだろう。
私はお姉様の代替品――彼が愛したお姉様ではないのだから。