しきめーる4
「やれやれ、めんどくせーな」
溜め息をつきながら、青年が僕のわきを過ぎていく。
彼女と並んで、僕の前に立った。
「シロ」
「はいはい」
何時の間にか、僕のとなりに来ていた少年。彼が、彼女の振り向かないままの言葉に答える。
「彼を、お願い」
「りょーかい」
場違いに、陽気に返事を返す少年。
「で?」
青年が、彼女に声をかける。
「また、いつもの通りか?」
「ええ」
その小さな背中が頷く。
「わたしが、理解するまでは手を出さないで」
「ったく、毎度ながらめんどくせーな。力押しで、片付けちまえばいいのにさ」
「主義じゃないの」
「はいはい、仰せのままに。主殿」
僕には飲み込めない会話を交わすふたり。状況は、僕を置き去りにして進んでいく。
「あなた……何?」
真っ赤な瞳の少女が、今ようやく気付いたとばかりに彼女に意識を向けた。ぞっとするような、氷の声だった。
「わたしは、彼を迎えに来たの。邪魔をしないでもらえるかしら?」
「悪いけれど」
彼女は、悠然と踏み出しながら、
「――邪魔をするわ」
静かな声で、そう宣言した。
その時、彼女の小さなはずの背中がとても大きく見えた。
彼女は、僕を護ろうとしているんだって。
それだけは、わかってしまった。
ふたりの少女が、対峙する。
赤い瞳の少女の手に、何かが現れた。
まるで手品師か何かみたいに、両手の間をばらばらと浮遊する何枚ものカード。
「刻まれなさい!」
少女が叫んで、手をかざす。
四方八方から、カードが彼女――死姫に襲いかかる。
「…………」
死姫はただ、立ち尽くすだけ。彼女を包み込むカードが、鋭い刃みたいに切り刻んでいく。
当然のように、けれども、彼女の存在を思えば意外に思ったほうがいいのか。
彼女の手足を切り裂いて、赤いものが飛び散った。
ひとしきり彼女のまわりを渦巻いて、カードは少女の手元に戻っていく。その帰り際、カードの絵柄がふと視界をよぎった。スペードのエース。それは、トランプだった。
「何のつもり?」
五十三枚の刃を手に、少女が口を開く。
僕も、同じ気持ちだった。
どうして、死姫はそのカードの渦をよけようともしなかったのだろうか。
まるで、わざわざ攻撃を受けたようにも見えた。
裂かれたセーラー服と、身体の傷が立ちどころに消えていく。
飛び散った血も、霞みの如くかき消えてしまっていた。
「…………」
少女の問いには答えず、たたずむ死姫。
少女は鼻を鳴らして、今一度トランプを放つ。
また、同じ。
トランプは死姫を切り裂いて、持ち主の元に戻る。
受けた傷も、またすぐに消える。
切り裂いて、戻る。
傷は、癒えていく。
そんなことを二度、三度と繰り返した。
「あなた、何がしたいわけ?」
何をするでもなく、死姫はただ攻撃を受けるだけ。少女の声に、苛立ちが浮かんだ。
「どうして……!」
たまらずに、僕も声を上げていた。傍らの少年……シロと、目の前に立つ青年に呼びかける。
「ねえ……あの子、このままじゃやられちゃうんじゃないのか? どうして、黙って見ているんだよ!」
傷らしい傷はなくても……すぐに癒えてしまうから。
僕には、少しずつでも彼女が弱っていくように見えた。だから、そんな彼女を前に何もしようとしないふたりに声を荒げてしまう。
「ああ?」
青年が振り返る。
彼は僕をまじまじと見てから、意地悪く笑った。
「だったら、おまえがどうにかしたらどうだよ?」
「……!」
「主殿がかわいそうだと思うならな」
「…………」
僕は、うなだれる。
ふん、と鼻を鳴らす声が耳に届いた。視界の脇に入ったシロは、にこにこと笑うだけ。僕は、ぎりっと歯を噛んだ。
そうして。
また、彼女が攻撃を放つ気配を感じる。
放たれたカードが、死姫に向かう。また、彼女を切り裂く。
その傷はすぐになくなっても、きっと痛いはずだ。あれだけ切られて、何ともないはずがないじゃないか。
それは、僕のせいなのか?
僕が、呼んだから? 死姫と赤い瞳の少女。どちらを呼んだのか。状況すらも、よくわからない。
でも、死姫がそんな目にあっているのは、少なくとも僕に責任があるように思えてならなかった。僕のせいだと思えてしまった。
(僕の、せいなのか?)
僕が、悪いのか?
僕の、せいで。
僕が、彼女を今苦しめているのだろうか。
「く……」
僕は、咄嗟に飛び出してしまった。
「そ、おおおっ!」
ふたりが息を飲むけれど、そんなものは耳に遠い。僕は両腕を交差させて、それを盾みたいにして飛び込んでいく。
「え?」
驚きの声を漏らす死姫。どこかきょとんとした顔が、不思議なほど印象的だった。
構わず、僕は突っ込んでいく。
自分でも、よくわからなかった。怖くなかったわけじゃない。
怖くて、足がすくんで、今にもへたり込んでしまいそうで――それでも、どうしてか、そのままではいたくなかったんだ!
「うわあああっ!」
情けない、ほとんど悲鳴を上げて、死姫とトランプの間に割り込む。
死姫に届くはずの刃が、僕に触れる、僕を切り裂く――そう思った、その刹那。
突風が、吹きぬけた。鼓膜を震わして、辺りの空気をゆるがせて、凶悪なトランプがぱらぱらと舞った。
「ふう」
僕の前に、立つのは小柄な人影……シロだった。その背中に、うっすらと何かが見える。透き通った白い翼。まるで、天使みたいだった。
「危ないところだったね、お兄ちゃん?」
柔らかく微笑むシロ。その翼が、すうっと消える。僕は思わず目をこすった。今のは、幻だったのだろうか。
「あなた達……」
静かな声に、苛立ちを含んだ声が耳に届く。死姫が、僕―いや、僕達を睨んでいた。
「わりーわりー」
僕のとなりで、軽い声が謝った。
「いや、ほんの冗談のつもりだったんだぜ?」
青年は僕を見て、薄く笑う。その手にあるのは、一枚のトランプ。シロが逃した一枚だったのかもしれない。
たった一枚でも、きっと僕には致命的になりかねない一枚、人差し指と中指で挟んだそれを投げ捨てる。そうすると、下に落ちる前に彼女の元へと飛んでいった。
「まさか、本気にするとは思わなかった」
助けようとして、結局助けられてしまった自分。シロと、多分目の前の青年にも。何て情けなくて、かっこ悪いんだろうか。思わずうつむく僕に、続ける。
「しかしよ……根性あるじゃねーか」
「え?」
僕は、思わず顔を上げる。笑っていた。僕をバカにした笑顔ではなくて、もっと別の何かで。
にやりと歯を剥いて、彼は笑っていた。
だから、戸惑う。
「そうだね」
シロも、頷く。
「……だけど、僕は」
結局、何もできなかった。
ただ、助けられただけじゃないか。
それよりも、かえって。死姫にとっては、ただ邪魔になっただけなのかもしれない。ちっともかっこなんてついてない。ただただ情けないだけじゃないか。
「結果は、そうでも」
彼女の言葉が、続く。
「あなたのしたことは、素晴らしいと思うわ」
「……え?」
僕は、彼女を見た。その氷みたいな無表情が、少しだけ微笑んでみえたのは気のせい……じゃないのだろうか。
相変わらず、素っ気無い声だったけれど、
「わたしを、助けようとしてくれたんでしょ? こういった場合、そういった行動を取れるヒトは本当に少ない。だから、そのことは誇っていいと思うわ」
僕への肯定。
ほんの少し優しい言葉を僕に残して、彼女はまた背を向けた。
そうして、赤い瞳の少女へと向き直る。
「主殿」
「もう少しだから、待っていて」
何やら言いかけた彼の言葉を、死姫は遮った。
「何が、もう少しなの?」
手元にトランプを戻した少女が、不機嫌そうに唸る。こちらに背中を向ける、死姫の表情はわからない。
涼やかに言う、死姫。
「その程度じゃ、わたしには利かないわ」
「……なん、ですって?」
少女の声に、鋭いものが混じった。
「聞こえなかった?」
死姫は言う。ほんの少し、笑いをふくんだ声だった。
「もっと、本気でやりなさいって言っているの。彼を、連れて行きたいんでしょ?」
彼、と。
死姫が言った途端、彼女が僕を見た。その赤い目に見つめられて、また背筋が凍りつく
ふと、その視界を遮るものがあった。
白い翼。シロの背中から、また生える翼が、彼女の姿を隠してくれたんだ。震えが、僕の身体から消える。
「あの……」
「不用意に、彼女の目を見ない方がいいよ? 邪視だからね」
「……じゃ、し?」
「呪いのこもった視線だね。耐性のない人間は、それだけで生命力を削るよ」
何となくだけど、わかった。そうして、彼が僕を守ってくれたこともわかったから。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
シロは、にこやかに微笑む。また翼が消える。僕は、彼女の紅い瞳を見ないように注意しながら、ふたりを見守った。
彼女は、もう僕には注意を払わなかった。
「いいわ」
紡がれる声が、周囲を振るわせる。
「本気で、やってあげる」
明らかな敵意と、憎しみをこめた声。まるで、それそのものが形になったような声。
応えるように、トランプが彼女の周囲を回り始まる。青い色だったトランプが、色を変えていく。
毒々しい真っ赤色。
まるで、血のような色へと、変わっていく。
トランプは、彼女がかざす右手に集まっていく。収束する、真っ赤な刃の渦。まるで燃え盛る炎にも見えた。
「後悔するといいわ!」
彼女は、それを死姫に向かって投げつける。放たれた五十三枚の刃が、一直線に死姫に向かっていく。
「……!」
思わず声を上げかける僕に、青年が肩越しに振り返った。その瞳が、心配するな、と言っている。
けれども。
カードが、死姫の小さな身体に次から次へと突き刺さる。彼女は、それでもたたずむだけ。
後から後から突き立ってくる刃を、まるで受け止めるみたいに。
ザク、ザク、ザク、ザク……と突き刺さっていく。
「あ……ああ」
声を上げない彼女の変わりに、僕が声を漏らす。見ているだけで、耐えれらない。どうして、
死姫も、他のふたりも―
「ねえっ!」
思わず叫んで、何か言葉を続けようとした―時だった。
五十二枚目のトランプが突き立って、今まさに、五十三枚目が死姫の身体に届こうといった瞬間に、
「――シデン!」
彼女が、その名前を叫んだ。
「おうさ!」
応えて、彼が吼える。飛び上がる青年―シデンの、はるか宙に舞った長身が、突風を巻き起こして弾け飛ぶ。
その身体が、細かなかけら―まるで無数の花びらみたいになって、渦巻いた。
薄紫の、花吹雪。それは、死姫へと向かっていく。
死姫に襲いかかっていたカードを吹き散らして、その身体を覆い尽くした。そのつま先から頭まで、全身を覆い隠す。
花びらが、形を変えていく。彼女の身体に張り付いて、その姿が変わっていく。
そうして。
服装を変えた死姫――いや、紫姫が、そこにいた。
紫色の袴姿。
その手には、抜き身の日本刀。
つややかな黒髪を、なびかせて。
威風堂々、悠然と。
たたずんでいた。
「それでは」
紫姫は、自分の背丈くらいはある長さの刀を軽々と片手で持ち上げ、その切っ先を少女に突きつけた。
「――終わりに、しましょうか」
「く……」
一瞬、呆然としていた少女が我に返る。その手を動かすと、周囲に散らばっていたトランプが浮き上がり、また手元に戻っていく。
「かっこつけないでよ!」
今再び、トランプを投げつける。さっきまでは無防備の紫姫を切り裂いて、薙ぎ払った刃の群れ。けれども、今度は。
紫姫が刀を振るうだけで、あっさりと消え去ってしまった。五十三枚全部が、まるでただの幻みたいに。
「もう、無駄……」
刀を下げて、
「――」
その唇が、何かをつぶやいた。僕の耳には意味を持って届かなかったけれども、少女にはわかったみたいで――息を飲む様子がはっきりとわかった。
「……何?」
初めて、その少女に動揺が走った。紫姫が一歩進み出ると、おびえたように後退る。
「思い出さない?」
紫姫が、そっと口を開く。
「あなたの名前……あなたが、人間だった頃の名前だよ」
彼女を、いたわるように。
僕には、そう聞こえた。
「そんなの、知らないわ!」
叫ぶ少女、その手に再び生まれる凶器札。
「消えなさいよおっ!」
投げつけるものの、またもあっさりと振り払われる。
「……そ、んな」
「彼を連れて行ったところで、あなたは満たされない。もう現世をさ迷うのはやめなさい。自分の名前を思い出して『――』として、黄泉路の旅へと、発ちなさい……」
「う……うるさい! うるさい! うるさい!」
髪を振り乱して、名前の知らない少女は絶叫した。
「うるさい! ウルサイ、 ウルサイ……!」その顔を、くしゃくしゃにゆがめて――
「消えろ! 消えろ! 消えろーっ!」
のけぞって、声を振り絞る。長い黒髪が真っ赤に染まって、まるで生きているみたいに蠢き始めた。
その瞳がますます赤く染まり、口が耳まで裂けていく。腕が、ぐううっと伸びて、細かった肩が盛り上がって、二倍以上に膨れ上がる。
「……!」
少女は、人間の姿を捨てていく。より化け物じみていくその姿に、思わず息を飲む僕。けれども、紫姫も、シロも平然としていて――いや、紫姫は、
「…………」
多分、ほんの小さな溜め息をついた。
哀れむように、きっと。とても哀しそうに。
「ぐあああああああああ!」
変貌を遂げた少女が、その姿に相応しい絶叫を上げた。もはや少女のものではなく、けだものじみた叫び声。
そのつりあがった瞳で憎々しげに、紫姫を睨みつける。
対照的に。
「孕んだ泥を、吐き出して……」
紫姫は、詠うように言葉を紡ぎ始める。
「……纏った衣を、脱ぎ捨てて」
両手に握った刀で、静かに弧を描きながら。
「黒く染まった諸手を漱ぎて」
ゆっくりと、歩み出す。
「ああああっ!」
少女が、紫姫に飛びかかった。
その両手には、鋭い鉤爪が生えそろっている。紫姫の細い身体なんて、あっさりと切り裂かれてしまいそうだった。
けれども、紫姫は歩みを止めようとはしない。
今度は、僕も黙って見守っていた。彼女のあまりにも落ち着き払った様子と、その不可思議な光景が、僕から不安の全てを奪い去っていたから―
「骸は、土に還りなさい」
紫姫の周囲に、再び無数の花びらが現れて、静かに舞い始める。
「御霊は、天に昇りなさい」
花びらは、その刀身に絡み付いて、その刃を薄紫色に染めていく。
「そうして、流転の水中に」
その鉤爪が届く刹那に、紫姫は刀を振り下ろした。
花びらが舞った。
一面に、舞い踊る花びらが、少女の異形を覆い隠す。まるで、優しく包み込むみたいに――
「その名を抱いて、発ちなさい……」
振り下ろした刀を、振り切った。
◇
世界が、色を取り戻す。
先ほどまでの夜の公園に、僕は立ち尽くしていた。
こちらに背を向けていた、彼女が振り返る。その姿はセーラー服に戻っていた。
その肩に止まる、白い一匹の小鳥。時代がかった袴姿だったシデンは、今はスーツ姿で彼女のとなりに立っている。
僕のそばにいたシロの姿も、化け物となった少女の姿はどこにもなかった。
「……あ、あの」
何か言おうとして、けれどもなんて口にすればいいかわからなかった。何せ、状況は僕を置き去りにして進んでいって、結局何ひとつわからないままだったのだから。
「君は……いったい、何者なの?」
「シキ、と呼ばれるわ」
彼女が答える。
「メールがつながったのは、君……なんだよね?」
「ええ」
「だったら、僕を迎えに来てくれたんじゃないの?」
そう、僕はそのためにメールを送った。そのはずだったんだ。
「違う」
僕の言葉を、彼女――紫姫は否定する。
「だったら、どうして……何で、君につながったのさ?」
わけがわからない。
僕は死にたかったから、だから、彼女につながったんじゃないのだろうか。でも、だったら、さっきの赤い目をした少女は、
「多分、あなたの心がわたしに共感したんでしょうね」
彼女はスカートのポケットに手を入れる。
取り出したのは、薄紫色の携帯電話だった。
「あなたの聞いた話の真偽とか、詳しいことはわからない」
それは、シキメールと呼ばれる噂話。
「…………」
「ただ、わたしという存在とつながって道ができた。そこに、先ほどのような存在も呼び寄せてしまった」
「さっき……」
先ほどの少女の姿を思い出して、少しだけ恐怖がよみがえった。
「多分、あなたに近い思いで命を絶ったヒト。その無念のせいで成仏できず現世をさ迷って、同じ気持ちを持つあなたを引きずりこもうとしたのね」
何となく、わかってきた。だけど、僕にとって一番大事なことはまだ確認できていない。
「……君は、君は、僕を連れて行ってくれないの?」
この場所から、遠い世界へ連れて行ってはくれないのだろうか。
「連れて行って欲しいの?」
問い返してくる。
「そうだよ!」
「どうして?」
「嫌なんだよ! もう、こんな世界にはいたくないんだよ!」
落ち着き払った彼女の声が苛立たしかった。僕は、さっきも言った言葉を、悲鳴のような声で繰り返す。
「だって、みんな優しくないんだ! みんな、僕を傷付けるんだよ! だから、連れて行ってよ! ここから……こんな場所から、お願い……!」
そこで、僕は言葉を切った。
何時の間にか、すぐ間近に彼女の顔があったからだ。鼻先と鼻先が触れ合う距離で、その大きな瞳が僕を覗き込んでいる。
吐息と吐息が、交じり合うほどに近い。
――ほんのかすかに、甘い香りがした。
「え? ……あ」
不意をつかれて、僕はうろたえる。整った顔立ち。透けるような白い肌。つややかな黒い髪。まるで、精巧な人形のような紫姫の姿に――
くらくらと眩暈がする。
気が付くと、彼女は僕の胸にそっと片手を当てていた。多分、心臓の位置に。
力が、抜けていく。
強烈な睡魔にも似た感覚。意識が、真っ白に塗りつぶされていく。
「……おやすみなさい」
彼女の声が、僕の耳元で囁いた……。