とある後日談~後段
『大丈夫、心配しないで』
なつかしい、あの声。
その声は、紛れもない。
あの日、俺を救ってくれた少女の声。
紫姫の声に、間違いなかった。
「……え? ちょっと、おい?」
俺はますます混乱してしまう。
どうして、智成の電話から紫姫の声が聞こえてくるんだ? そもそも、助けを求めていたのに、どうなっているんだ?
状況が飲み込めず、右往左往する俺に――
『今から、彼を助けに行くわ』
静かな声が、そう宣言する。その力強さに、俺は冷静になってしまった。彼女の言葉なら、信じられる。そう思った。
『あとで、また連絡するから』
そう言って、通話が切れた。
「どうなったの?」
おずおずと訊いてくる先輩に、
「ああ、紫姫から電話があった」
「は?」
わけがわからない、と言った顔になる先輩。俺も同じだった。
けれども、
「紫姫が大丈夫って言ってるんだ。とりあえず、信じようぜ」
◇
三十分くらいが過ぎた。
もう一度、スマホが鳴った。
二杯目の紅茶を飲みほした俺は、通話を取る。
『もしもし』
紫姫の声だった。
さっきのノイズはなく、声は普通に聞こえてきた。
(しかし、紫姫から電話か)
怪異を前に、袴姿で日本刀を構えていた――あの光景を思い出すと、妙な気分になった。
紫姫は、あれからの顛末を説明してくれた。
智成は、しきメールに手を出してしまった。三回までやってしまい、そこで踏みとどまった。けれども、怪異は来てしまった。
「運が悪かったのか」
俺は、つぶやく。
しきメールは、言うなれば自分を呪う儀式だ。途中までおこなったことで、よくないものを呼び寄せてしまい、それに智成は連れて行かれかけたのだと言う。けれど、紫姫が間に合った。そう思えば、不幸中の幸いだったのかもしれない。
「助けてくれて、ありがとうな」
『……いいえ』
「それと、三年前もありがとうな。ずっとお礼を言いたかったんだ」
『そう』
通話の向こうで、小さく息を飲む音がした。紫姫は、どんな顔をしているのだろう。想像しかできなかった。
でも、これで少しは気が済んだ。
『じゃあ、切るね』
「――あ、ちょっと待ってくれ」
俺は慌てて、引き留める。そうして、身を乗り出している先輩にスマホを手渡した。
「もしもし」
先輩が代わり、そうして――
それから、十分後。
玄関のチャイムが鳴った。
◇
ドアを開けると、セーラー服姿の少女が立っていた。となりには、背の高い男と、パーカー姿の背の低い少年。男は時代劇みたいな恰好で――俺の記憶通りだった。
紫姫と、紫電、そして紫路という名前のはずだった。
「よう、待ってたよ」
「……お邪魔します」
紫姫は頭を下げて、靴を脱いで上がってきた。丁寧に、靴をそろえる。紫電は草履で、紫路はスニーカー。紫姫に続いて、履物を脱いで上がってくる光景には――少し、奇妙なものを感じた。その存在に反して、現実的な行動には、こそばゆさのような感覚を覚える。
――絵を、描きたい。
それが、先輩の紫姫への提案だった。
紫姫は数秒ほど沈黙してから、困惑したように訊き返してきたらしい。
『……絵?』
「初めてだから……そういうこと、言われたの」
紫姫は、まだ戸惑っているようだ。怪異と言うか、幽霊みたいな存在なのに、その仕草は普通の女の子みたいだった。
「まあ、いいじゃないの」
にこにこ笑うのは、男の子――紫路だ。
紫電も頷いている。
「いやあ、割と長く生きているけれど――俺も、絵を描いてもらうなんて初めてだぜ」
満更でもなさそうだった。
「こっちへ、お願いね」
部屋へ案内する先輩に、紫姫は確認するように言った。
「……その、さっきも言ったけれど、あまり長くは無理だよ」
「わかってる」
先輩は、答える。
ヒトと、そうでない存在。あまり触れ合うのは、好ましくない。お互いの世界は、隔たっていてこそ、あるべきカタチだということだ。
少し寂しいと思った。
けれど、仕方ない。
この短い時間は、ある意味では幸運じみた例外なのだろう。
十分くらいだっただろう。
先輩は、とんでもない速さで三人を書き上げた。黒書きの一色で、色をつける余裕なんてなかったけれども――横から覗いた完成度は、すごいの一言だった。
やっぱり、先輩には才能があるんだな。
以前もそう言ったことがあるけれど、自分程度はいくらでもいる、って返されたけど。
書きあがった一枚を手渡されて、紫姫は訊き返してきた。
「……いいの?」
受け取ってもいいのかという確認だ。せっかくの作品、残しておかなくてもいいのかと――まあ、俺も思った。
けれど。
「大丈夫」
先輩は、こともなげに言ってのけた。
「今、ようく三人を見たから。半日内なら、もう一度描ける」
やっぱり天才だと、俺は思った。
そうして、俺達と紫姫達は別れる。
もう二度と会うことはないだろう。
でも、それでいいんだ。
「あの男の子……あとは、お願いね」
「大丈夫、任せておいてくれ」
智成の命は紫姫が救ったけれども、それで終わりじゃない。
かつての俺や先輩がそうであったように、しきメールに手を伸ばすことになったきっかけの現状は、変わっていないはずだ。
拾った命で、これから生きていかなくてはならない。
それは、俺達自身の問題なのだ。
◇
静かな夜の街を、わたしは歩いていました。
先ほど渡された絵を、まじまじと見てしまいます。わたしと紫電と紫路。少し緊張したわたしの左右に、笑顔のふたりが並んでいます。
とてもとても、温かい絵。描いてくれたあの女の子の想いが、本当に染み渡っていました。
少し泣きそうになるわたしの頭に――紫電がその大きな手を乗せました。
「よかったな、主殿」
「……うん」
わたしは、素直に頷きました。
助けてくれて、ありがとう。
今こうして生きていられて、感謝している。
哲也君と夏希さん――ふたりの言葉は、本当に本当に、嬉しかった。
『あなたは、ひどい人ね?』
そう言って、笑っていた彼女。
長い黒髪で、ブレザー姿。真っ黒い外套に、真っ黒い太刀。もうひとりの――『死姫』が突き付けてきた、その言葉。
みんな、死にたがっている。
辛くて、苦しくて、哀しくて。
わたしは、そんな彼らを救っている。
なのに、貴方は――そうやって、自分勝手な善意を押し付ける。
少し前に対峙した、あの子。
その時に交わしたやりとりは、わたしの心に痛みとなって突き刺さっていました。
――それが、ほんの少しだけ救われました。
全部が全部、正しいとは思いません。わたしの行動が、ただの余計だったこともあるかもしれません。
助けるのは、一瞬だけで。
その先の人生までは――背負えない。
自分勝手で、自己中心的な救い方。
死にたい。
それが、当人にとって正しいこともあったのかもしれません。
それでも――
またいつか、声が届く。悲痛な想いの感情が、わたしに届いてしまう。
その時は、またきっと。