とある後日談~前段
目を覚ました俺は、となりのベッドを見る。
誰も寝ていない。
同居人は、とっくに起きているようだった。
高校を卒業した俺は大学進学にあたって、家を出た。
それから、知人のマンションの一室に住まわせてもらうことになった。
その知人とは、高校の先輩。とあるきっかけで、仲良くなった。
「ふああー」
俺は伸びをして、ベッドから降りる。
部屋を出て、手狭なリビングを抜けて、となりの部屋へ。
同居人は、そこにいた。
「おはよう」
「ん、起きたの」
素っ気なく返事を返すだけで――彼女は、振り返らないままだった。キャンバスに、夢中になって筆を走らせている。
そこに描かれているのは、可愛らしい少女。
長い黒髪、紫っぽい袴姿。
刀を握らせるかどうかは、迷っているようで、軽く下書きだけ描いてある。
死姫。
いや、紫姫。
そう呼ばれていた。三年前に出会った少女。あの世に連れて行かれるはずの俺を助けた、怪異の少女。その姿が、彼女によって描かれていた。
ちょうど二年前。
俺が高校二年生で、先輩が三年生。放課後の美術室で、その時も、彼女は『紫姫』の絵を描いていた。
それが、きっかけだった。
俺が先輩と知り合い、仲良くなったのは。
不思議な縁。
それとも、必然だったのか。
俺も先輩も、出会っていた。
しきメールという都市伝説に関わり、殺されかかって、救われていた。
◇
「なあ、哲也」
彼女――伊藤夏希先輩が、口を開く.
「紫姫は、どんな髪飾りをつけていたっけ?」
「髪飾り?」
俺は首を傾げた。
「そんなの、つけてたっけ?」
「つけてたよ」
「そうかなー」
先輩は言い張るけれど、俺はうろ覚えだ。もう三年も前なのだ。そこまで詳しく覚えてはいない。
まあ、俺とほとんど同じ時期に出会っていて、ここまでの再現度で『紫姫』を描ける彼女は――天才なんだと思う。
そんな先輩は、今は美大生だ。
「ああ、くそ」
苛立ち気味に、肩までかかる髪を掻きむしる。
早起きしたわけでは、ないようだ。
徹夜していたらしく――もともと鋭い目つきには、くまが出来ていて、ちょっと凶悪だ。
服装も、色気もへったくれもない、シンプルな黒いスエットの上下。先輩は、あまりおしゃれとかには興味ないのだ。
割と美人なのに、本当に勿体ない。
「もう一回会えないかなー」
ぼやく先輩に、
「しきメール、またやってみたらどうですかね」
俺は言ってみた。
「いや、無理でしょ」
俺に振り向いて、すげなく言い切る。
「あれって、自殺願望ないと成り立たないじゃん。今のうちらじゃ、無理だよ」
「そうですね」
同意する。
俺も先輩も、当時は死にたいと思っていた。それだけ、心が病んでいた。でも、今は違う。
だから、もう無理だろう。
もう、紫姫に逢うことはできない。
「それって、残念だよな」
俺はつぶやいた。
「…………」
先輩は、言葉の先を待つ。
「今は、それなりに楽しくやってる」
俺も先輩も、命を救われただけで、その時の現状が全て解決したわけではなかった。
ただ、なくすはずだった命を拾った。
紫姫が助けにこなかったら、しきメールによって呼んでしまった怪異に、間違いなく殺されていたはずだ。
せっかく生き延びた。
おかげで、気の持ちようも変わった。あれからそれなりに考えて、行動して、どうにかやってきた。
今は色々と、何とか折り合いをつけられている。
生きていられて、満更もないなって――ふたりして、そう思えている。
「助けてもらって、感謝してるってお礼を言いたいけどな」
それができないのは、少し哀しい。
「まあ、もう二度と会わない……いや、会えないってことが、一番の感謝になるのかもね」
先輩が言う。
確かに、そうかもしれない。
また紫姫に会うってことは、死にたくなるってことだ。そうじゃなきゃ、会えない。だからこそ、会えるってことは――そういうことだ。
きっと哀しむに違いない。
そうなっては、本末転倒だ。
「そーだよな」
俺は、先輩の言葉に同意した。そうして、ふと思ったことを口にする。
「そっか。だから、先輩は紫姫の絵を描こうってこだわるんだな?」
「……は?」
先輩は、意外そうな顔をした。
「いや、この絵……大学の課題とかでしょ? コンクールがどうとか言ってたし。もし受賞とかすれば、目立つじゃん。もしかしたら、紫姫の目に止まるかもしれないし――って」
きょとんした表情の先輩に、俺は言葉を切った。
「先輩?」
「そうか」
何だか、納得したように目を見開いていた。
「そういう考えも、あったな」
「……違うの?」
てっきりそうだと思ったのに、違ったらしい。
「いや……特に、そんな考えもなかったけど。それも、ありだな」
にやっと歯を見せる先輩に、
「課題は、いいんですか?」
俺は肩を落とした。
「まあ、まだ余裕あるしな」
と、先輩。
「何かもやもやしてて、思わず描いてたんだけど――哲也のアイデアはありだ。悪くない。いや、それでいこう」
楽しそうに言っていたけれど、困惑したような顔になる。
「でも、そうなると弱ったな」
「何がです?」
「いや……紫姫だけじゃなかっただろ?」
「え?」
「あたし達を助けたのは――他にもいたじゃないか。ふたり」
「あー、いましたね」
思い出す。
背の高い男と、ちっこい子供。男は、時代劇みたいな格好していて――子供の方は、現代的な服装だった。それくらしいか、覚えていない。言っては悪いが、紫姫ほどの印象はなかった。
「そうなると、あのふたりも描かないとな、やべえ、思い出せない」
頭を抱える先輩。
俺も、適当な言葉が見つからなかった。俺は先輩以上に、思い出せないのだから。
◇
とりあえず、朝ごはんにすることにした。
先輩が腹が減ったと言うのだ。
「哲也、何か作ってくれ」
「今日は、先輩が当番じゃなかったでしたっけ?」
呆れる俺に、先輩は臆面もなく言ってきた。
「頼む」
食事当番は、交代制のはずだったのだが、俺が任されることが多い。というか、先輩は本当にずぼらで――家事自体、俺がやることが多かった。まあ、マンションに住まわせてもらっているのだから文句も言えない。
部屋代は、先輩がもっている。
正確に言えば、先輩の親だ。俺が出しているのは、食費の足しくらいで――微々たるもの。俺はもっと出しますとは言っているけれども、先輩曰く『家事ほとんどやってもらっているし』で、受け取ってもらえない。
自覚はあるようだ。
「あー、面倒なんでシリアルでいいですか?」
それなら牛乳かけて、お手軽だ。
「白い飯と味噌汁がいい」
俺の彼女は、我がままだ。
「しゃあないですね」
俺は冷蔵庫をあさる。
鮭の切り身があった。これを焼けばいい。ご飯は、昨晩の残りがラップしてあるのでレンジでチン。味噌汁は、インスタントで我慢してもらおう。
悪いけれど、今日は午前から講義があるのだ。今から、本格的に料理をやっている余裕はなかった。
「さっきの続きなんですけど――」
向かい合ってご飯を食べながら、俺は口を開いた。
「もし、他の誰かが、しきメールをやったとして、そこにいたらまた紫姫と出会えるんですかね?」
「……おとりってこと?」
先輩は、目を細めた。あまり面白くなさそうだった。
「それ、本気で言ってる?」
「いや、過程の話ですよ」
あくまで、純然たる可能性の話。
実際に、そんなことは望んでいない。
もし。
しきメールに手を伸ばす誰かがいたとしたら、全力で止めるに決まっている。
だからこそ、もう――
きっと、俺も先輩も紫姫と仲間達に出会うことはないのだろう。
それで、いいのだろう。少し寂しいけれども、それが正しいのだ。
俺と彼女達では、あるべき世界が違う。
そもそも出会うべきではないのだ。
――そう思いながら、俺は程よく焼けた鮭の切り身を、一口放り込んだ。
◇
「うー、やっと終わったぜ」
「長いよなー」
講義を終えた俺は、背伸びをする。並んで座っていた同性の友人が、同意してきた。
高校までに比べると、ひとつの授業時間が約二倍。本当に、長く感じられる。
「なあ、哲也。今日は、午後は講義あるのか?」
「ん、いや。今日はバイトなんだ」
「そっかー、メシだけでも一緒しようぜ」
「いいぜ」
ちょうど昼時だ。午後にも講義が入っている友人と、学食に向かう。他愛もない話をしながら、一緒にメシを喰う。
そんな時間も、あの時に死んでいたら、ありえなかったんだ。
時々、思い出したように感謝をする。
「じゃあな、哲也」
「おう、講義。頑張れよ」
「ああ、めんどくせーけどな」
挨拶を交わして、友人と別れた。大学を出たあたりで、バイブ設定のスマホが震えた。
確認すると、メッセージが来ていた。
相手は、弟だ。
「…………」
弟は、時折こうやって連絡をくれる。
家を出た俺だけど、別に弟と仲が悪いわけでもない。ただ、ぎこちないだけだ。両親とも不仲というわけでもないけれど、どこか余所余所しい関係が続いている。
弟は、それをどうにかしたいのだろう。
それは、わからくもないけれど――
(面倒、なんだよな)
別に、両親が嫌いとうわけでもない。
一時期は、しきメールに手を出すくらいに病んでしまった。そのきっかけだったけれども、今になっては折り合いもついている。
親だって、人間だ。完璧というわけじゃない。
少しは大人になった今なら、割り切れる。
割り切った。
――それでも、構ってくれる家族がいるだけいいんじゃない?
そうぼやいたら、先輩に言われた。
先輩は、高校生の時からほとんど独り暮らしだったらしい。
お金には不自由せず、けれど、両親からはお金しか与えられなかった。家族で過ごした思い出は、ほとんどない。俺の家庭以上に仕事に忙しい両親は、先輩を自立した子供だと褒めていたらしいけれど――
「……仕方ないな」
俺は先輩の言葉を思い出して、ため息をついた。
とりあえず、来週くらいには実家に顔を出すつもりだ。そんな旨の返事を返すことにした。
さて、今日はバイトのシフトが入っている。
さっさと向かうことした。
◇
「よう、お疲れ」
「……どうも」
夕方過ぎになって、休憩室でバイト仲間と顔を合わせた。
漫画雑誌を読んでいた俺は顔を上げて、声をかける。高校の制服姿で出勤してきたのは――最近、俺が気になっている新人だ。
半月ほど前から、働いている。
『最近、気になる後輩ができてさー』
少し前に、先輩にそんなことを話した。向かい合って夕ご飯を食べていた彼女は、明らかに不機嫌そうな顔になったことを思い出す。
「……それ、女の子じゃないよね?」
「え? 違う違う」
誤解させてしまったので、慌てて訂正した。
「なら、いいけどさ」
高校二年生の男だ。眼鏡をかけた真面目そうな男子で、仕事ぶりも問題ないんだけど――妙に気にかかる。
何となく暗いというか、影を背負っている雰囲気。
――今も、こうして同じものを感じるのだ。
「……何ですか?」
まじまじと見つめてしまったのか、新人――智成が怪訝そうな表情になった。まあ、男にじっと見られていい気分もしないだろう。
「あ、いや――」
別に、と流そうとして、
思い当った。
唐突に。
ちょうど今朝、先輩と話していた話題がタイミングになったのかもしれない。
それは、当てずっぽうな憶測だった。
根拠もへったくれもない。
ただの勘。それとも、感じ取ったのだろうか。
「なあ、智成」
――おまえ、しきメールって知ってる?