九条真姫1
其の四 むらさきひめ
また、ひとつ。
声が、届きました
誰かの声が、わたしに届きました。
だから、
わたしは、歩いてきました。
これまで、何度すれ違ったのでしょうか。
今まで、どれほど会えなかったのでしょうか。
たとえば、放課後の教室で。
いつかは、寂れた夜の公園で。
ある時は、都会の喧騒の片隅で。
廃ビルに散らばった、ガラクタのとなりで。
何度も何度も繰り返し、
幾度も幾度も過ぎて来て、
ようやく、
「こんにちは、はじめまして」
わたしと彼女は出会ったのです。
「わたしの偽者……むらさきひめさん?」
「あなたは、ひどい人ね?」
彼女が、笑います。
「そうやって、自分勝手な善意を押し付ける」
彼女が、嘲ります。
「知ってる? そういうのを、独善者って言うのよ?」
年の頃は、わたしと同じくらいでしょうか。
長い黒髪に、ブレザーの制服。
真っ黒い外套をまとい、手には抜き身の大太刀。それも真っ黒。肩に止まる小さな鳥すらも、真っ黒。
紫色のわたしとは、全く違って、真っ黒い少女。
――それが、死姫と呼ばれる少女でした。
今となってはわたしと彼女、どちらが本物かわかりません。
ただ、少なくとも。始まりの物語は、彼女であったはずです。
灰色の空に、鉛色の川原。
そこにあるのは、それだけ。傘車さえ、ありはしない。
現実世界とは切り離された、異空間。
わたしと彼女のために、あつらえられた場所。
そんな世界で、わたしと彼女は向かい合っていました。
◇
「……はじめまして」
彼女の悪意を受け流して、わたしは静かに言葉を返します。
「むらさきひめ、という名前が不愉快だったら……九条真姫でもいいわ」
死姫は、小さく息を飲みました。
「驚いたわ」
それは、きっと本心だったのでしょう。その証拠に、死姫としての表情がその一瞬だけでも揺らいだのですから。
「あなた……まだ生前の名前を持っているのね」
「あなたは?」
問い返す。
「捨てたわ、そんなもの」
死姫は、笑いました。とても誇らしそうでした。
わたしには、それがとても哀しかった。
「……どうすれば、いいのかな」
それは、わたし自身への問いかけだったのかもしれません。
「あなたと、戦えばいいの?」
太刀の姿をした紫電を、ほんの少しだけ持ち上げます。
「そうね。きっとそうなるわね」
その笑い方に、わたしへの敵意がこもった。
「でも、その前に少し話さない? こうして逢えたのも、何かの縁だと思うから」
彼女が何を言っているのかは、わかるつもり。
「ねえ、あなたはどうして邪魔をするの?」
ただ、どう答えていいかわからなかったから、黙っている。
「みんな、死にたがっている。辛くて、苦しくて、哀しくて、死にたいって望んでいるのよ?」
彼女が手を振ると、そのとなりにぼうっと。空間がゆらいで、大きな木が現れました。
大きな大きな木が、一本。節くれだった大樹には、一枚の葉もありませんでした。
「本当は、ここに沢山の花が咲くはずだったの」
哀しそうに、残念そうに、それでいてどこか愉しそうに、彼女は言います。
「わたしの導いた魂が、この木に宿る。そうして、とても綺麗な花が咲き誇るはずだった」
「……!」
わたしは、幻を見ました。
その木に、花が咲き誇る光景。桜にも似た、血の滲んだ紅色の花を咲き誇らせた光景を。
その沢山は、そのひとつひとつは、きっと誰かの命。
吐き気がして、めまいがしました。
その隙をつかれて、
「それを邪魔するなんて、あなたは本当に、本当に……」
不意に、太刀が翻りました。
「ひどい人ね」
切っ先が届かなくても、裂けた空気が飛び掛ってきます。
ぎいん、と。
打ち払ったのは、紫電でした。
わたしをかばってくれたのが、彼でした。
「おい」
太刀に重なって、紫電の人型が浮かび上がります。彼の声は、少しだけ怒っていました。
「ずいぶん汚ねえ真似するじゃねえかよ」
「ほんの冗談よ」
死人花の幻は、消えています。
「はっ、笑えねえな」
殺気が、ふくれあがる。
「紫電」
それを、わたしは静かに諭します。
「ちっ」
舌打ちしながらも、姿を消してくれました。
「ずいぶんと主人想いなのね」
皮肉なのでしょうか。
わたしには、届きません。それが面白くなかったのか、苛立ちを見せてきます。
「むらさきひめさん、あなたはずいぶんと余裕があるのね?」
「そう見える?」
「ええ、見えるわ」
死姫は、大げさなほどに頭を振ります。
「そうやって、悠然と構えていて、救い主気取り? まったくもって腹ただしい」
どうしなのでしょう。
言葉そのものは、少しも痛くはない。
それなのに、
心は、こんなにも痛い。
死にたい、と彼らは言っている。
そう、死姫は言うけれども――
「わたしにはね。そうは、聞こえないの」
「え?」
彼女の表情が、怪訝そうにゆがみました。それでも、わたしは続けます。
「わたしに届くメールはね、わたしにはそう聞こえないの」
死にたい。
その言葉が、
どうしても、嘘だと聞こえてしまう。
「……はっ」
死姫は、鋭く笑います。嘲りと、憎しみを生み出して。
「は、あはははははははは! それは、ずいぶんとおかしいじゃない? それは、ずいぶんと狂っているわ。とんでもない独りよがりね? この偽善者が!」
さっきよりも、鋭い切っ先。今度は、紫電もかばわない。わたしが、それを拒んだから。
だから、空気を裂いて、わたしの頬も裂く。
そうして、彼女の痛みが伝わった。
少しだけ、伝わってきました。
「あなたは、死にたかったの?」
驚きは、ほんの一瞬。
すぐさま転じる、勝者の笑み。
「そうよ。その通りよ! あんな世界に生きているなんて、ごめん。楽しいことなんて、何もない! 誰も救ってくれない! 誰も、愛してくれない! そんな世界に、生きているなんて苦痛以外の何者でもなかったわ! それは、あなただって同じでしょう?」
わたしも、彼女と同じく、その一歩を踏み出してしまったから。
「あたしと同じくせに、違うふりをするなんて、どれだけ卑怯で薄汚いの?」
「あなたは、死んで満足したの?」
「そうよ。決まってるじゃない!」
「だったら」
わたしには、見えました。
「どうして、あなたもそんなに、鎖に縛られているの?」
見えて、しまいました。
今までの人達と同じく、死姫を縛る鎖が。
「何を、言っているの?」
「本当は」
『――あなたも、死にたくなんてなかったんじゃないの?』