涙子が『見た』両端の字牌と……
まずは涙子さんから話してほしかったが、仕方ない。
「警部さん、今回の事件なんですけど」
「あー、その件な。お前ら二人を容疑者から外してたから、捜査が楽だったよ。あんがとなー」
春日井警部の睨みが消え、やる気のない声に気を取られた。おかげで聴き逃しそうになりそうだったが慌てて聞き返す。
「え、待ってください。楽だった?」
「捜査は一旦区切りだ。太田と海野、二人共天王子に恨みがありそうな事がわかったからな」
「警部。二人に恨みがありそうだった、というのは」
「だー、もう! ……動機だよ。海野は天王子にかなり借金してたみたいだし、太田に関してはお前らも知ってんだろ?」
「春日井警部は、ここが賭博の現場になっていた事を知っていたのか?」
「それだけじゃねーよ。太田の友人がその賭けに負けた借金したってのもな。ったく、大学生が馬鹿な遊び覚えやがって……で、その友人の敵を取る為に殺したんじゃねぇかってな。まあ、最初はお前んとこの探偵事務所に相談しようと思ったらしいが、賭博なら警察の方がいいって言ったんだろ?」
「ああ。私から父さんに紹介しようと思ったが、その方がいいと思ったがな」
「普段から警察に任せてくれりゃ良いんだがな」
春日井警部は小さな溜息をついたところで、僕は言葉を割り込ませた。
「あの、太田さんは犯人じゃないと思います」
春日井警部の鋭い視線が再び僕に向いた。思わず逸らしてしまったが、言わなければならないことがある。
「まず天王子さんの死因なんですけど、毒殺でしたよね?」
「なーんでお前がそんな事まで知ってるんだ?」
「相棒の耳が良いので」
「……それで?」
「亡くなる直前に天王子さんが行っていたのは、脇に置いてあったウーロン茶を一気に飲み干し、海野さんに今月の予定を確認して牌を切った。その際の打牌は五索でした」
「お前、捨て牌まで覚えてるのかよ」
「相棒の記憶力がいいので」
「……それで?」
「直後、海野さんがツモってほぼノータイムで『中』を切りました。直後にポンの声が上がり、天王子さんがその牌を受け取って脇に寄せた。そして、天王子さんは自分の親指の腹を唇に当てたり、爪を噛んでいました」
「癖か。珍しくもないが、麻雀中にしてほしいものじゃねぇな」
「今日は非番ですけど、太田さんはここのアルバイトもしていたので天王子さんのその癖を注意していました。天王子さんは素直にその注意を聞き入れてすぐに手を離したんですが」
「その直後に苦しみ出した、と」
「はい」
「ん……」
春日井警部が何やら掌を傾け、数拍空けてから何やら手を右に左に動き、最後に右手の指が唇に辿りつく。
もしかして、天王子さんの亡くなる直前の動きを再現しているんだろうか。
「春日井警部は、ああやって脳内で人を動かしているんだ。あれは彼の癖だよ、あの動きが終わったら、続きを話してやってくれ」
終わる前に話しだすと怒るぞ、と付け足して涙子さんはまた僕の斜め後ろの位置に戻る。
「被害者が飲み物を口にしたのはその時だけか?」
「ど、どうだったかな」
「おいおいおいおい……」
「そ、そこまで覚えていませんって!」
「飲んでいなかったはずだぞ。コップはガラス製で、お茶を汲んでくれた太田君は氷を入れてくれていたようだから、飲めば音が鳴るはずだ」
「待て。太田が飲み物を全員に配ったのかよ。一人一人が自分で汲んで来たんじゃないのか?」
「ああ。太田君が犯人であるなら、越えなくてはならない関門がある」
「関門だと?」
「涙子さん以外は、全員ウーロン茶の頼んだんです。僕と海野さんと天王子さん、そして自分の分の計四つです。この中に一つだけ毒を入れるとしても、どうやってそれを天王子さんに渡すんですか?」
「そんなもん、自分で手渡せばいいだろう」
「だが、もしもすぐに手を伸ばされたらどうする? それを想定しない彼ではないよ。それに、置いてから毒を飲み物に混ぜる事も厳しい。彼の席は天王子のちょうど向かい側だったのだからな」
「なるほど。さっき、全員分のコップの中身を調べてもらったんだが、そろそろ結果も出てるだろ。おーい、卓上のコップの中身どうだった!」
警部が鑑識を向かって叫んだ所を見てみると、ちょうど別の刑事達が鑑識から何かの紙を受け取っていた。
「はい! 今上がってきました」
「よし、見せろ」
春日井警部は部下から受け取ったメモに目を通すと、目を細めた後で見向きもしなかった刑事の顔を凝視していた。
その刑事の表情はどこか困ったような表情で、まるで警部に助けを求めてきたような顔。
「って、おいおい。まじかこれ」
「はい」
「とにかく、海野と太田の二人から目を離すな。俺はこっちの二人と話す事がある」
「わかりました!」
警部の一言で反転し、後ろの刑事達と合流しに駆けて行ったが、その警部は少し頭を抱えているようだった。
「太田のコップの中身から、毒物が検出されたらしいぞ」
「何?」
「えっ……」
太田さんの飲み物から?
「これでも太田の野郎が犯人でないと言えるか? コップを置く場所を見ろ。右手側に置いてある。右手側には小娘、お前がいるだろ。飲み物で毒を洗い落としたんだとしたら一番楽だ。タイミングは、そこの高校生が遺体に近づいた時ってとこか? どうせその時は太田に目が行ってなかったんだろ?」
「そうなると、どうやって天王子に毒も盛ったのか、だな」
「なんだ、さっきの様子からしてどうやって毒を持ったかは見当が付いてるのかと思ったんだが」
「付いているさ。なっ?」
「え? え、ええ!」
答えを涙子さんに合わせ、再び警部を見据える。
「でも、その方法は太田さんにはできないんです」
「と言う事は、海野か」
「はい。聞いてくれますか? 僕達の推理」
「俺達もそっちの方が怪しいと踏んでたからな。事件を振り返るついでに聞いてやるよ、お前らの推理をよ」
「では、次は私から話そう」
人差し指を立てて唇に当てると、涙子さんは自分達が麻雀をしていた卓へ誘導してほしいと言い出した。
「こっちです」
「オイ! その辺は割れたガラスが落ちてんだから、踏まないようにしろよ」
「では、迂回しよう。薫君、誘導してくれ」
「は、はい」
涙子さんの腕を取り、ゆっくりとした足取りで天王子さんの席から一定の配置で散らばったガラス片を避けつつ、海野さんの席にまで二人を連れてきた。
「海野さんの手牌を見てくれ。警部、麻雀は?」
「わかるよ。たまに打ってるからな」
「では警部、今から牌を私の言う通りに動かしてくれ」
「仕方ねぇな……もう写真も撮ってあるから大丈夫だとは思うが」
天王子さんの鳴いた『中』と海野さんの捨てた『西』を手元に戻し、海野さんの手元に十五枚の牌が並んだ。
「これで?」
「その二牌は、彼が最新二巡で捨てた牌だよ。その時、私がダブルリーチをかけていた」
「西と中ねぇ……っておい、どっちもこの手に絡んでないか?」
「ああ。右端に中が一枚と左端に西が一枚……おかしくないか?」
「え。おかしい、か?」
「警部はどうかわからないが、牌を自分のわかりやすいように並べるリーパイを行う場合、字牌は片方に寄せる人が多い。だが、海野さんはなぜか両端にバラけているだろ」
「ただの気まぐれじゃないか? それか、次に捨てる牌を決めていたか……あっ! おい、こいつの風は?」
警部が何かに気付いたように叫んだが、涙子さんは反比例して冷静だ。首を横に静かに振り、こういった。
「彼の風は西で、その牌は自分の風だったが、二巡前に私が通した安全牌なんだ」
「あー、なるほどな」
「えっと、麻雀がよくわからない僕にわかりやすく解説をお願いします」
二人は理解しているようだけど……。
「麻雀は同じ牌を二つか三つ揃える事で、意味を為すんだ。だが、それを崩すメリットが一つだけある」
「それは?」
「さっき、自分の捨て牌に対して『ロン』と言われた場合、そのまま相手の得点になると言ったな。それはその牌で相手の手が完成した場合に限られる。逆にそうでないなら、その牌は絶対に『ロン』と言われない安全な牌と言う事だ」
「つまり海野さんは二枚揃っていた『西』を崩して、涙子さんのリーチを避けた?」
「正解だ。だが、それなら次の手で疑問が残る。海野さんはなぜか次に『中』を切ったんだ。その切った理由だが……」
クイッと指で合図され、涙子さんに顔を近づける。
「………………――と、言う事だ」
「なるほど、そういう事だったんですね」
「おい相談タイムか? そろそろ毒を盛った方法を教えてほしいんだが、わかってないなら」
「いえ、春日井警部。もうお時間は取らせませんよ。ね、涙子さん」
「ああ」
「なに?」
「海野さんと太田さんを呼んでください。僕と涙子さんが順を追ってご説明します」
海野さんと太田さんをこちらに呼び込み、太田さんの飲み物から毒物が検出された事を伝えると、二人共驚いたような表情を見せた。
海野さんが犯人であるならば、これは演技なんだろうけど、どこか引っ掛かる……。
「あの、どういう事ですか! 僕の飲み物から毒物が出たって!」
太田さんだ。
「やっぱり、僕が疑われているんですか?」
「いや、君は天王子さんの向かい側。そこからでは席を立たない限り彼の顔にも手が届かない」
「おいおいおい、涙子ちゃん! まさか俺が疑われてるんスか?」
「消去法でいえば、あなたが一番怪しい」
あまりにハッキリとした物言いに、海野さんは押し黙る。
「では、一つ聴きたい事がある。これは天王子さんが亡くなる二巡前のあなたの手牌だ。西が二枚、中が一枚ある」
「それがどうした?」
「あなたは私のダブリーに対して、一見安全牌がほぼなかったはずだ。だから、自風である西を切ったのだろう? これなら一度の危険で二度手を回す事ができる」
「…………」
海野さんは黙ったままだが、涙子さんの合図があった。フッと指を振り、麻雀牌を切るような仕草。
「っと、海野さん。ここであなたが西を切った。そして……」
海野さんの手牌から一枚のみとなった西を左端へと持っていく。
「ありがとう薫君。海野さん、あなたの手牌は『西』が左端にあった。これは間違いありませんね? 春日井警部にも手牌は見せているし、写真も既に撮ってあります。なぜ『西』を左端へ移したのか、それは先ほど絶対安全とは言えなかった『西』を一度切って、もう一枚の『西』に価値を見出したからだ。安全牌を作り出した故、あなたはこいつを左端にキープした」
「…………」
「だが、次のあなたの番……あなたが切ったのは『西』ではなく『中』だ。これはまだ河……すべてのプレイヤーの捨て牌になく、あなた自身二枚しか見えていない牌だった。私がこの牌で待っている可能性だってあったのに」
「海野さん。涙子さんの言うように、なぜこの牌を切ったのですか? その理由、教えていただけませんか?」
「そ、そりゃあ……」
「本人は答えないようだな。ならば私が答えよう。コンビ打ちしていたんだよ」
「それは天王子と、か?」
「ああ。警部の耳にも入っていると思うが、海野と天王子はこの麻雀荘と賭けの場所として利用していたようだ」
「なっ!」
涙子さんの言葉に海野さんは一瞬戸惑いを見せ、フッと顔を伏せてしまった。
「なんでそんな事がわかるんだ……?」
「二人共、最後に合図を交わしましたよね」
「合図?」
「海野さんが牌を切る時、天王子さんがこんな事を言ったんですよ。えっと……」
「今月の二十日、予定あいちょるか、だったな」
「その台詞で、捨ててほしい牌を伝えたって事か?」
「はい。この台詞に対して海野さんは『中』を捨てました。今月の二十日……ギリギリ中旬です」
「そ、そんなの偶然だ! そ、それにそんな真似、何でもない場でやる意味がないだろう!」
「そう。やるなら賭けをしている相手に……何がなんでも勝ちたい時。または、相棒に頼まれた際ではないでしょうか?」
「相棒に頼まれたぁ?」
と、ここで警部が眉間にシワをよせる。
「二人は麻雀がひと段落した時、休憩時間にトイレを立ちました。その時の会話はわかりませんが、頼まれたのだったらそのタイミングでしょう」
「だ、だから俺は頼まれてなんかいやせんよ……」
「本当か? あの不自然な牌の捨て方はなんだ。あれは俺も疑問に思うぞ。あんたは次に捨てるはずだった『西』を右端に寄せたものの、あの高校生が言うように天王子からの合図で『中』を捨てたっていうのがシックリくるんだがなぁ」
「俺が天王子さんと組んでいて、それで天王子さんが亡くなったのと何の関係があるんスか! そっちが話しているのを聞きましたよ! 毒殺なんでしょう?!」
毒殺。
使用されたのはアコニチンらしいけど、毒を盛ったタイミングがあそこしかないとしたら?
「あの、麻雀牌から毒は出なかったんですか?」
「…………」
警部に問いかけると、ゆっくりと鼻から息を吐き出しゆっくり肩を上下させた。
「……お前らの言う『中』から毒物の反応が出たんだ」
「警部も人が悪いな、なぜそれを黙っていたんだ?」
「これを教える義理はないだろ。お前ら一般人に」
「うーむ、それを言われると弱いな」
「涙子さん、そこは否定しないんですね」
「事実だからな」
「で、海野さん。事件が起きてからトイレには行きましたか?」
「い、いや……行っていやせんけど」
「んじゃ、指に毒物が付着していないか調べたいんですが、よろしいですか?」
「ちょっ、それって……」
「天王子が拾った『中』から出た毒物だ。あんたの指についてるはずだろう」
「だが警部、ちょっと待ってくれ」
「なんだよ」
「海野さんの指には毒はついていないはずだ。既に洗い落とされているはずだ。太田のコップの中身にも毒物が入っていたのだろう?」
「そういや、そうだな……」
「あの……ちょっといいですか」
太田さんだ。
「海野さんですけど、天王子さんが倒れてから彼は僕のコップには触れられないと思うんです」
「なにぃ?」
「天王子さんが倒れた、薫君が駆け寄った。海野さんはその場から動かず、死亡を確認したところで涙子さんの指示で遺体から離れたんです。現場保存の為に」
「……おい!」
春日井警部は振り向き、集まっていた刑事達に声をかけた。
「この中の五人は、この卓に近づいたか?」
「いえ、遠目で見ていましたが……そんな素振りはありませんでした」
「おいおいおい……」
警部が頭を掌で覆うが、指と指の合間から鋭い眼光が僕に向けられる。
「薫君。ちょっといいか」
「は、はい」
「海野が犯人だとすると、麻雀牌によって毒殺する事は可能だ。天王子さんは心臓が弱かったおかげで通常よりも少ない量でも毒殺できる。だが、問題は自分についた毒の処理だ」
「お茶で洗い流したのだとすると……自分のコップを使用するのが妥当ですよね」
「それをしなかったのはなぜだろうな。……仮に太田が犯人だとすると、ターゲットが正面ゆえに毒殺は難しい。だが、毒を洗い流すのは簡単だ」
「今更相談か? 探偵ごっこは終わりのようだな。あとはこっちで調べるぞ。下がってろ」
くそっ、何か見逃してる……。なんだ? 簡単な事件だったはずなのに、どこか歯車が噛み合わないような気がする。
「警部。一つだけ教えてほしいのだが」
人差し指を立てた涙子さんは、不敵に微笑みそれだけ口にした。
「なんだ?」
「太田君のコップには、彼の指紋しかなかったよな?」
「ああ。そりゃそうだろう。そこの太田って奴が全員分の飲み物を配ったんならな。ちなみに言うと、海野さんのコップには、自身と太田の指紋が付いていたぞ」
あっ。
「ふっ、なるほど……そういうことか」
「あ?」
涙子さんも気付いたのだろうか。
「太田君」
「なんですか、先輩」
「君は事件が発生した後で、自分の席にあったコップを触ったか?」
僕が口を開くより早く、涙子さんはその質問を投げかけていた。
「はい。緊張すると喉が乾いてしまうので……もちろん、触っても中身は飲んでいません。人が目の前で亡くなったのに、何かを口にするなんてできませんからね」
「おい、何の話をしているんだ?」
「コップが入れ替えられていたんですよ」
「はっ? コップが?」
海野さんが卓を一瞥し、僕らに視線を戻す。
「海野さんと太田君のコップだ。この二つを入れ替えたんだよ」
「全員のコップには太田君の指紋がある。これを利用したんです。まず、毒殺犯は被害者の合図を聞き、渡す牌に毒を塗った。それも会話の一瞬の間に……それも、被害者の心臓が弱い事を知っていたからだ。少量の毒を口に運ばせ、天王子さんは絶命する」
「て、天王子さんの心臓が弱いからって……そんな不確実な賭けなんか……」
「いや、少量でも殺す自信があったはずですよ。何せ使う毒が毒ですからね」
「アコニチンだったよな、警部?」
「あ、ああ。って、なんでお前らが知ってんだよ!」
「倒れた天王子さんの様子を察して涙子さんが僕に脈を測らせる……それと同時に海野さん、あなたは自分のコップに指を入れ、毒を洗い落した」
「お、おい待てよ! さっきコップを入れ替えたとか話してたよな! あれは……」
激昂している海野さんの叫びに怯みはしたが、まだだ。まだ黙れない。
「もちろん、入れ替えられたのはこの後です」
「な、なに? はっ、残念だったな。俺はコップなんか入れ替えてないぜ! それに毒はどうした。塗る前の毒はどうしてたって言うんだよ!」
「ここ、賭博に使われる予定だったんですよね」
「依頼人の密告によれば、な」
賭博。ならどこかに……。
「卓の裏を」
「はい」
卓の下を屈んで覗きこむが、そこには何もありはしない。
「おい? なんかあったのか?」
「い、いえ」
「では、ノックしてみろ」
言われた通り、まずは中央部をコンコンと二回叩いてみる。
「次は海野さんの席の真下だ」
海野さんの位置を確認しつつ、座った時に手元にくる箇所を覗いてみる。
「そこは点棒入れだ。麻雀の点数を表す点棒をしまってあるんだが」
コンコン、と叩いては見るものの、特に何かわかるような事もない。
「……ッ! 薫君、もう一度そこを!」
「は、はい」
コンコン。
卓は全体的に木で作られている為、ベニヤを叩くような音だけど、あれ?
「…………」
また叩いてみると、微かに中央で叩いた時を音が違う。何かこう、中に空洞があるような。
「点棒を入れる引き出しなんだから、中に空洞くらいあるだろうけど」
「開けてみてくれ」
言われた通り、卓の引き出しを開けて覗きこむ。中には種類ごとに区分けされた点棒が収められていた。
「底の方に何かないか?」
底?
点棒で隠れて見えなかったが、三つの区画に分かれた引き出しの真ん中に違和感を覚えた。
「底には何もないですけど……真ん中が他の場所より浅いんです」
「二重底になっているはずだ」
「何!? おい、ちょっと退け。俺がやる」
と、春日井警部が割り込み、僕の代わりに小さな引き出しを漁り出す。ここで卓にしがみつく事もないだろうと素直に退いた。その際に海野さんの顔を伺ってみたが、押し黙っている。
「おい小娘、何もないぞ」
「何?」
「いや、二重底はあったんだがな。中は空だ。一応調べさせよう。おい鑑識!」
警部が手招き、一人鑑識がやってくる。
「捜査中に二重底は見つからなかったのか?」
「す、すいません。取っ手もかなり分かりにくかったので……」
「底は点棒で見えなかったし、仕方がない。それに調べるとすれば、先ほどまで海野さんがいた所から近い卓だと思わないか?」
「……なっ!」
警部はその言葉に身を翻し、海野さんを睨みつけた。視線を逸らされてしまったが、警部はすぐさま駆け出し別の卓に向かう。
ガタガタと音を立てながら、点棒を収納する引き出しを漁り、そして……。
「あったぞ! 小瓶だ!」
警部の白い手袋の中には、確かに小瓶が収まっていた。
中には粉のようなものが入っている。
「海野さん。あんた、麻雀中に手袋はしてないよな?」
その小瓶が毒物を入れていた物なら、拭き取っていないのであれば指紋は出ないはずだ。
「し、していない」
「この卓は先日入れたばかりなのでそんな小瓶入れられる人はかなり限定されると思います」
「確かか? はい、僕が三日前に運んだので」
「ほう。三日前か」
「そうですよ、先輩。それが何か?」
「いや、なんでもないよ。だが、その二重底、そんなに小さな引き出しで手袋もなしに指紋を付けないように開けるのは至難の技だ。警部、そこの指紋を取った方がいいのでは?」
「お前に言われるまでもねーが、こいつが自白させた方が早いと思うぜ」
俯いたままの海野さんは、震えながらも顔を上げた。
「じゃ、じゃあコップの件はどうなんだ? 毒はこの、太田ってバイトのコップから出たんだろ!? 俺にすり替える隙はなかったはずだ!」
そうだ。それこそ、この事件の一番の謎だった。それも、さっきのあの人の発言ですべて理解できるようになった。すべてのピースが組み上がったんだ。
「ああ。あなたにすり替える隙はなかった。あなたには、な」
涙子さんが言う。
人差し指が海野さんに向き、強調された「あなた」という言葉。
それと同時に僕は、その人めがけて走り出した。
次に指差される人物を知っていたから。
「な、太田くん」
しっかりと、僕は彼の右腕を掴む。すると、太田さんは驚いた風に掴まれた腕を見据えた。
「え……何のことです、か?」
「君なんだろう? 自分と犯人である海野さんのコップをすり替えたのは」
「はっ!? お、おい。小娘! こいつ、共犯なのか?」
「共犯ではないさ。これはただの捜査の撹乱。私達を試していただけにすぎない。薫君、そいつの腕を離すなよ」
「じょ、冗談はよしてくださいよ、月島先輩」
「ふふ、それだよ」
「え?」
「月島先輩、と言ったな。太田君、君はなかなかどうして礼儀正しい人間だったが……先輩であった葵の命令には絶対的だったよな」
「え、ええ。覚えていますよ。当時僕は一年で、葵先輩は四年生でしたから」
「その三つ年上の彼女が君にした命令を覚えているか?」
視線。太田さんの視線が、涙子さんに浴びせられる。が、彼女は一方通行のその視線をすべて自分の中に通していた。
「随分と前ですからね……覚えていませんよ」
「いや、覚えているはずだ。君が三日前に送ってくれた父へのバースデーカード。別に私への手紙もあったな……確か、ツッキー先輩と書かれていたはずだが」
ツッキー先輩。と、涙子さんが口にした途端、僕の掴んでいた腕がピクリと揺れた。
「貴様は、誰だ?」
普段とは違う。ドスの効いた涙子さんの声に肩が震えた。
そして、長い沈黙が流れる。そして、太田さんの掴んでいない左手が唇に伸び、覆われた。