涙子の趣味
そして、着替えるから玄関で待っていてくれと言われてから五分が経過した。
その間に黒いファイルの中身をシュレッダーで処分しておいたが、よく考えなくてもあんなものを持ち出してよかったんだろうか。
着替えか。さすがに男の僕では涙子さんの着替えを手伝う訳にいかないし、何より涙子さんが待っていろと言ったのだから、その通りにするべきだろう。
覗き?
いやいや、バレるに決まっているだろ。万が一にも、覗いている最中に僕と視界を共有されでもしたら言い逃れできない。
大人しく、この玄関で待っていよう……。
アルバイト中に洗濯や食事の用意、掃除に書類整理と、いろいろな事をやってきた。僕が来てから家政婦さんは休暇を取っているらしく、結果的に僕がいろいろと立ち回ることになった。
両親の出張が多い事から最低限の家事を覚えていたのが役に立ったかな。
「すまない、待たせたな」
奥の部屋から涙子さんが出てきた。着替え終わったらしい。
暗かった廊下から涙子さんの姿が浮かび上がる。
白い洋服に身を包んで、ゆっくりと玄関へ歩み寄ってきた。なんというか、いかにもお嬢様と言った感じの雰囲気だ。上下共にほとんどが白一色で、ハンドバッグは青、一体どこに出掛ける気なんだろう。どことなく、実年齢より少女っぽい印象を受けてしまう。
「どうした?」
「い、いえ。少し洋服のイメージが、想像と違ったと言うか、想像通りと言うか……」
「ん?」
こんな豪邸に住んでいる所からして涙子さんはお嬢様。そんなイメージでもおかしくない。勝手なイメージを押しつけているのかも知れないけど。人形みたいだな、という印象を受けた。
でも、推理している時の涙子さんのイメージとは真逆と言うか、ギャップのようなものを感じざるを得なかった。
「な、なんでもないです」
服、自分で選んでいるのかな。……こういうかわいいのが趣味、とか?
「ルークの散歩は帰ってからですかね」
「ああ。今から行く所はたとえ盲導犬であっても入れそうにないからな。あとできちんと散歩させなくては、ルークに拗ねられてしまう」
そのルークは玄関で座り込み、僕らを見送ろうとしているようだ。
「ルーク。留守を頼むぞ」
ルークは吠えもせず、ただ尻尾を振っていた。
「行きましょうか」
「ああ。すまないが、腕を組ませてくれるか?」
「え、ええ!?」
「何を驚いている。エスコートしてくれるのだろう?」
「あ。えっと、そうですよね。ルークもいないし」
彼女の前に二の腕を差し出し、掴ませる。
「できるだけ歩幅合わせるので、早かったら言ってください」
「ああ、そうさせてもらうよ」
こうやって目の見えない人と一緒に歩くのは初めての経験だ。
「あっ、そこ段差ありますよ」
「ありがとう」
その段差を杖で突き、場所を確かめながら歩を進める。
「常時、能力が使える訳ではないんですか?」
「そうだな。使っている最中は頭痛がある。特に波長の合わない人間と視界を共有する場合、物を見るどころではない」
「波長の合わない人間、ですか」
「この力は誰に対しても安定して使える訳ではないのだ。私が君と視界を共有している間は、鮮明に映る。それこそ、君よりも細かい字が見えるかもな。二人で今度視力検査でもしてみるか?」
「ま、まあ……機会があれば。でも、なぜ僕とでは鮮明に映るんでしょうか」
「たまたま波長が合ったのだろう。例えるなら、テレビのチャンネルだ。送信する側と、受信する側の周波数が違えば、映像も乱れてしまったり、別のものが映ってしまう。私が今まで出会った中で波長の合う人間は、君と葵だけだよ」
「なるほど。じゃあ波長合わない人間では、視界が乱れて頭痛もひどいんですか?」
「ああ。それに軽い頭痛とは言え、君や葵との視界共有を連続的に使用するのは苦痛だな。さすがにプールの事件の時は非常に疲れたよ」
「珍しいと言うか、意外ですね。涙子さんが弱音言うなんて」
「私だって、弱音や愚痴も言うさ。私は小説に出て来るような盲目の探偵とは違う。指先の触覚、嗅覚、聴覚、味覚も、鍛えてはいるがそれほど突出していないと思う」
「そんな、謙遜する事ないと思いますよ。それに視覚を補えるものだってあるじゃないですか」
「この能力か? だが、メリットばかりではないさ。この力は確かに便利だが、悪用しようと思えばいくらでもできる。乱用するべきものではない」
能力の悪用、か。
「涙子さんは、しませんよね」
「ああ。君なら何に使う? この力を」
「いやいやいや! そんな」
「はっはっはっ、そういう君だからこそ、波長が合ったのかもしれないな。さあ、引き続きエスコートを頼むよ」
涙子さんは組んだ腕に力を入れ直し、袖を直した。
それほど密着されていないとは言え、女性と腕を絡ませていると言うシチュエーションが信じられない。学校の奴に見られる事があれば、たぶん噂になるだろうな。
「しかし、助かったよ。父さんは最近、警察との共同捜査で留守にしているから、私はなかなか出掛けられなかったんだ」
「ルークを連れていけない所へ、ですか」
「ああ。もっとも、今日はそこで依頼人と会う約束もしている」
「依頼人?」
「ああ。私の大学の後輩でな。この先の麻雀荘でバイトをしていて、そこが賭博の現場になっているらしい」
「賭博。でも、それって普通に警察沙汰なんじゃ……」
「現行犯でなければ難しいし、何より賭博の現場となれば店にとっても、噂などが流れて特はない。こっそりと事件を解決したいと言う思いで、先日私と父さんに相談してきたのだ。そう、ちょうど君がいない時間帯にな」
「そうだったんですか」
ん? でも、待てよ……。
「忙しいとはいえ、京助さんはこの依頼に関わらないんですか? 賭博とは言え、危険がない以来とは思えません」
「あー……この分野に関しては私にしかできないのだよ」
「分野?」
「父さんはそれが大の苦手でな。まずは私が確認と言う意味で行くだけだ」
「……なるほど」
涙子さんに細かい道順と住所を教えられ、その場所に到着するまでは二十分を要した。
そこで僕達があんな事件に巻き込まれるなど、夢にも思わなかった。
◆
「それで、涙子さん? なんで卓を囲んで打ち始めているんです? 今日は……」
カチッ、と何かを弾く音が聞こえる。
なぜだろう、と目を手で覆っている今の僕にはそれしか聞こえない。
「いいじゃないか。趣味なんだから。それに、依頼人とはここで待ち合せているんだしな」
「三筒!」
「おっ、海野さん。それだよ、ロン」
バタッ、と涙子さんが自分の持つ十三枚の麻雀牌をいっぺんに倒し、他の三人に公開する。
「涙子ちゃん、結構強いッスね……」
ロンと言われた海野さんが頭を抱える。ああ、涙子さんが勝ったんだね。麻雀は少ししかわかんないや……。
「海野ォ。今日はツイちょるんやなかったんか?」
「涙子ちゃんが来るまでッスよ!」
「先輩、相変わらず容赦ないですねぇ……あ、裏乗りましたよ」
「ひええええええ! 跳ねちまったじゃねぇでスか!」
牌をひっくり返しただけで盛り上がり始め、すっかり僕は肩の力が抜けてしまった。
「さて、オーラスですね」
「涙子っちゃんの親やな」
「はぁ……くわばらくわばら」
ここは『銀ノ河』と言う麻雀荘。涙子さんも休日はよくここに足を運んでいるらしい。
麻雀か。簡単なルール程度は理解しているけど、ここにいるメンバーと行うのは躊躇う。今は涙子さんの付き添いとして少し離れた所から様子を見ている。ここに来る直前、このメンバーの三人を見ているようにと言われた。
メンバーを集めたのは涙子さんだ。名前も記さなかった依頼人から、この三人を麻雀に誘ってくれと書かれていたらしい。
まず一人目。先ほど涙子さんに振り込んだ、つまり自分の捨てた牌で涙子さんの手を完成させてしまったのが、海野渉さん。涙子さんの正面に座っている。
下関弁だろうか。方言で喋っている海野さんの失態をつついていたのが、天王子実さん。涙子さんから見れば右隣に座っている人だ。
涙子さんを先輩と呼び、他の二人には敬語で話しているのが太田陽介さん。涙子さんの左隣で、天王子さんの正面に座っている。太田さんはここのアルバイトで、掃除や数合わせで卓に入ったりもするとの事。この人が依頼人で、涙子さんと同じ大学の後輩。さっき軽く話しただけだけど、涙子さんとは麻雀仲間らしい。
涙子さんが言うには、賭博に関わった人間がいるらしい。
依頼人は無理矢理賭けをさせられた現場を目撃し、店の雰囲気がこれ以上悪くなるのを阻止したいとの事だが、顔はよく見えなかったと書かれていた。本当はこの人から話を聞きたいけど、賭博に関わった人間がいるならまずはその人の観察だ、と言いだし、涙子さんはこのメンバーを集めて卓を囲んだのだ。
「ツモ。メンタンピン三色、ドライチ!」
「あー……」
涙子さん以外の三人が一気に項垂れてしまう。
「はっはっは、すまないな。みんな」
楽しんでいますねぇ、涙子さん。とっても調査中とは思えません。
っとと、僕はあの二人の監視だ。
天王子さんと海野さん。どちらが主犯なのか、どちらが関係ない人物なのかを確かめたいが、僕は下手に口を出せない。
壁際の椅子に腰かけているし、ここからなら手牌は涙子さんのものしか見えないけど、他の人の手牌を見て、僕が何らかの方法で僕が涙子さんにそれを伝えているのではないか、と思われてしまうかもしれないからね。
そんな事をしても何の得にもならないけど、配慮は必要だよね……。余計な事して絡まれたくないし、調査の邪魔もしたくない。
今は対局中と言うこともあって、視界共有を使用する事はまずなさそうだ。
この能力は、悪用しようと思えばいくらでも悪用できる。
麻雀がいい例かもしれないな。
麻雀は順番に牌を引き、手持ちの牌を捨てて進行するゲームだ。その捨てた牌で自分が上がれる場合に「ロン」と発声し、牌を倒す。それができればその相手から直接に点数を巻きあげる事ができ、逆に言われてしまった側は点数を持って行かれる。
視界共有能力で相手の牌を覗く事もできる為、最低でもこの「ロン」を避ける事が出来る。美味く誘導すれば、狙った相手から点を巻きあげる事もできるだろう。もちろんこれは反則だが、彼女はそれをしていない。
それに、彼女は僕と葵さん以外が相手だと「視界」が乱れ、激しい「頭痛」にも襲われるし、ここで能力を使う必要もない。
波長の合わない相手との視界共有は、我慢できるような痛みや、牌の特徴を理解していれば大まかには把握できるのかもしれないけど、このなんでもない対局にそこまではしないはずだ。
「おっ……海野の箱やな」
どうやら決着が着いたようだ。麻雀は誰かが点を払えなくなった時点、マイナスになった時点で終了する。どうやら海野さんの持ち点が底を尽きたようだ。
卓に歩み寄ってみると、涙子さんの持っている点数は始めた時の倍以上に増えていた。
「次もこのメンバーで打ちたいんだが、構わないか?」
「えーよ。で、ここらで休憩にしてえーか? ちっと小便行かせてくれや」
「あ、俺も行くやす」
「どうぞ」
「ああ。私も構わない」
「そこの兄ィちゃん。その次入るかい?」
「い、いえ。今日は涙子さんの付き添いで来ているので」
天王子さんから声をかけられとっさに断った。
「そっか。んじゃ、またあとでな」
天王子さんと海野さんは、二人で奥のトイレに向かって行き、卓には僕と 涙子さん、依頼人の太田さんだけとなる。
「太田君。この手紙、君が出したものだな?」
涙子さんだ。懐に潜ませていた依頼人の手紙を提示し、太田さんに問う。
「そうです。あの二人の悪事を暴いてほしくて」
「しかし、私も言うのもなんだが、こういった案件は警察に持って行くのがいいのではないか?」
「ここ、ただでさえ人の出入りが悪いんですよ。これ以上、規定外のレートで賭けをされているなんて噂が広まったら……今じゃ暴力団の溜まり場なんて言ってる人もいて。あまり大事にはしたくないんです」
「被害者はいるのか?」
「ええ、何名か。借金の返済を賭けていたりしたんだとか……その中に、大学の友達も」
「まるで漫画の世界ですね。結構街中なのに」
「オーナーはその事を知っているのか?」
「悪い噂が流れている程度は知っていると思いますけど、やって来るお客さんには関わらない人なので……」
「関わらない?」
「結構お歳なんですよ。だからアルバイトが多いんです」
「なるほどな」
「相談しようか迷ったんですけど、大事になると一般の方が来づらくなりますから」
「そうですか。賭博に関わっているのは、あの二人で間違いないんですよね?」
「ああ。そういえば、君も探偵なのかい?」
「えっと、僕は涙子さんの助手と言うか……」
「いや、その逆だよ」
「……逆?」
「彼も葵の知り合いでな。先日、公共プールで殺人事件があっただろう? それを解決したのが彼なんだ」
「そうなんだ、頼もしいです。って、先輩、相変わらず葵先輩には『先輩』って付けないんですね」
「あんたに先輩って言われるとむず痒い、だそうだ」
事件については間違ってはいないんだけど、あれは涙子さんの助言があったからこそ解決できた事件だ。と言っても、涙子さんが解決したと言うよりは自然かもしれない。彼女はあの時、あそこにはおらず、僕と電話で話していただけだ。
でも、涙子さんの性格なら「自分が解決した」とでも言いそうだ。思ったよりも目立ちたくない性質なのか、それとも何か理由があるのだろうか。
「私は彼から情報の整理を頼まれているだけだよ。だが、この事件は……」
「やっぱり、警察に言った方がいいでしょうか?」
「私はその方がいいと思うぞ。……所詮、私はまだ素人探偵だ。それに盲目では、この一件は荷が重いかもしれんな。彼も探偵と言えど、高校生だ、巻き込まれてもいない事件に首を突っ込む事はしないだろう。なっ?」
座ったまま、僕の脇腹を肘で突いて来る。話を合わせろと言う事だろう。
「そうですね、はははっ……」
「す、すいません。俺は先輩の家が探偵だって言うので、つい……」
「いや、いいよ。それにいくらなんでも我々のような学生に対して賭博の話は持ちかけてこないだろう。それでは追求もできん。やはりこの案件は、父さんか警察に持って行ってくれ」
「わかりました。本当にすいませんでした、こんな依頼してしまって」
「いいのだよ。私も、久しぶりに君と打てて楽しかったが……やけに自信がついているな」
「あ……えっと、わかりますか?」
「ああ。いつも慎重に打ちすぎていた君が、今日はよく危ない牌を切っている。だが、一度しか振り込んでいない。なかなか読みが上手くなったと思うよ」
「一度、先輩に振り込んでしまいましたけどね」
結局、賭博の件は確認だけで終わりそうだな。あの二人も賭博に関わっているようには思えないと言うか、この麻雀荘に溶け込んでいる。
今日は涙子さんの付き添いだけで終わりそうだと思った所で、トイレに立った天王子さんと海野さんが戻ってきた。
「すまねぇな嬢ちゃん達。お待たせ」
「さて、飲み物を注いで、さっそく始めるか」
「あ、飲み物は僕が全員分持ってきますよ。何がいいですか?」
太田さんが席を立ち、店のカウンターを指差した。非番と言えども、メンバー全員の飲み物を持ってくると言った気は回すらしい。
「俺はウーロン茶で。夕方からまた打つ約束しとるからの」
「じゃあ、俺も同じものいただくッス」
「私は紅茶で頼む」
「ミルクとレモン、どちらで?」
「ミルクで」
「はい。えっと、付き添いの方もどうぞ」
「え、いいんですか?」
「一応、入場の際に場所代はもらっているので、飲まないと損ですよ」
「じゃあ、僕もウーロン茶で」
全員分の注文を聞いて、太田さんはカウンターまで向かって行った。
太田さんの足音が遠ざかったのを確認して、涙子さんは卓に手を付いて、こう言ったのだ。
「ところで天王子さん、夕方まで打つんですか?」
「あ? あー、そうだよ。それがどうしたんだい、嬢ちゃん」
「いや、少し気になったものだから。一日中いるのは珍しくないくらいに、この麻雀荘にはよく来るかなと、ね」
「いや、今日はやる事がのうなってな」
「本来の約束は夕方だったんだけど、天王子さんとここに来ただけッスよ。そうッスよね」
二人は顔を見合わせると、天王子は「おう」とだけ返事をした。目の見えない涙子さん相手にした返事なので気を抜いたのだろうか、その返答には明らかに含みがあった。
恐らく、夕方に会うその人物が賭博の相手だろう。
帰る際に葵さんに教える事になるんだろうか。これだけの情報で警察が動いてくれるとは思えないけど、涙子さんが僕の目を通して火ノ川さんの遺体を見た時、涙子さんの電話を受けた葵さんが駆け付けたくれたのだ。頼りきりにするのも少し心が痛むが……。
「そうか。夕方に戦うその相手は、強いのか?」
「んー、どうかなー」
海野が腕を組み、顔を逸らした所で、太田さんが全員分の飲み物を持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
涙子さんにミルクティーが受け取り、そして残った僕と海野さん、天王子さんのウーロン茶は既にトレイに三つのウーロン茶が乗せられている。
「ん? あれ、太田さんの分は?」
「俺のお茶はあっちにあるから大丈夫だよ。他の人も全員ウーロン茶ですよね」
「はい。ありがとうございます」
「すまねぇな」
「どもッス」
僕、天王子さん、海野さんと飲み物を受け取った。僕は飲み物だけを持って、再び卓の後ろにある椅子に腰を下ろした。
ウーロン茶の入っているコップを傾けると、いくつか入っている氷がガラスにぶつかってやや高い小さな音を立てる。どうせ休憩が終われば、この四人は麻雀を打ち始めるだろうし、僕はゆっくりと見学していよう。
「なあ、タバコ吸ってもいいかいね?」
「いいですよ。あ、すいません、僕にも一本いただけますか?」
「ん? 君、タバコを吸うのか?」
「ええ、一応二十歳なので。それに今日は非番ですから」
「ほらよ」
天王子さんは箱から二本のタバコを取り出し、太田さんに手渡した。
「ありがとうございます」
「でも天王子さん、心臓が悪くしているのに、タバコってのはどうなんスか」
「堅い事言うなって。さっき薬飲んだのを見てたろ。大丈夫だよ」
「心臓?」
「おう。ちょっと弱ってきちょるらしいんよ。薬も持ち歩けって言われちょるし」
「なるほど。タバコはいいかもしれないが、酒はやめておいた方がいいかもしれないな」
「それは医者にも言われたわい。あーあー、酒飲みてぇなぁ」
酒は我慢しているんだな。心臓を悪くしているなら、確かにお酒はご法度だと思うけど。
「っと、お嬢ちゃんはタバコ大丈夫かいね?」
「私も別に構わない。手間をかけさせているからな」
手間とは恐らく、彼女が参加する場合は他の人達は自分の打牌を発言して涙子さんに伝えている事だろう。天王子さん、海野さん、太田さんの三人全員で、だ。
これで涙子さんが初めて牌に反応できるのだが、一局一局誰がどの牌を捨てたのかを覚え切れるのだろうか。案外、指先の感覚と記憶力を鍛える為に麻雀を始めたのかも知れない。
ちなみに涙子さんが盲目の打ち手だと言うのは、この麻雀荘では有名のようだ。海野さんと天王子さんは、彼女の名前を聴いて少しばかり驚いていたようだが、もしかしたら、探偵だと言う事が知られているのかもしれない。それだと調査どころではないから、やっぱりこの賭博に関わっている二人を捕まえるのは警察の仕事になるか。
その後、すぐに二回目のゲームが始まった。開始早々、涙子さんは手を一度も入れ替える事なく「リーチ」と言い放ち、持ち点千点を表す点棒を三人の前に突き出した。
「ダブリーかいね!」
「先輩、相変わらずですねー……」
その後、三人は数度の間、躊躇しつつも牌を卓に流し、涙子さんの顔色を伺っていた。彼女の目は見えないのだが、自分が発する牌の種類に反応され、牌を倒される事を恐れていた。
その声は震えるも、なかなか涙子さんの望む牌が来ないようだと、そう感じていた十巡目。
「あかん。もう安全牌のうなったっちゃ。二索ッ」
「西で」
「んー、九萬」
「……」
涙子さん本人の発声はない。それが余計に緊張感を煽る。だが、それはもう数巡前の話。今は涙子さんが欲する牌に見放されたか、という空気が漂っていた。
この涙子さんが作り出した地雷原を、三人が無事歩いている間にここが地雷原であると忘れつつある。油断すれば足元を掬われる状況には変わらない。その状況に緊張を抱いてはいたのか分からないが、飲み物に一番多く手が伸びていたのは、一番気の強そうな天王子さんだ。
脇に置いていたウーロン茶を飲み干し、こう声を上げる。
「そういやー、海野。今月の二十日、予定あいちょるか? 五索ッ」
「はい。空いていやスよ。『中』……!」
「お、それポンや」
海野さんの捨てた牌を取り、自分の手牌にある同じものを二つ、自分の右側に寄せた。
「さーって、何を切るか……」
天王子さんの指が唇に伸びる。爪を噛んでいるようだが、癖かな……?
「あ、天王子さん。あまり言いたくないんですけど、そう言う事は……」
非番とは言いつつも、アルバイトである太田さんから注意されると、ハッと気付いたように天王子さんが指を放す。
「あー、すまんの。ついな、つ、い……」
異変。
「ぐッ!」
それは急に顔をこわばらせた天王子さんが、何かを訴えかけるように卓のメンバーを一瞥した所から始まり、首元を抑えつけながら、体が揺れ始めた。
「……ッ!?」
とっさに体が動いた僕だったが、目の見えない涙子さんは何も把握できていないようだった。
気付けば何の予備動作もなく、ドタンッ、と床に強く倒れた。続くように天王子さんの指に引っ掛かった空のガラスコップが原型を留めず、すべて床に四散した。
「薫君!」
「は、はい!」
涙子さんの合図ですかさず天王子さんに近づき、様子を伺う。手は首元、もう声をあげてはいない。苦しんでいたのは、つい数秒前の事だ。
なるべくガラス片を踏まないようにしながら、天王子さんの首元に手を伸ばした。
抑えられていた首元から力なく離れていた両の手は、僕の指を簡単に通してくれた。
故に、すぐ答えは出てきた。
「……亡くなっています」
最初の低く重い音に続き、ガラスのコップが割れた高い音が織り成す不協和音と静寂の後、僕と月島涙子さんの第二の事件が幕を開けた。