月島夫妻と副作用
怪盗ナイトレディ。
それが私に付けられた新しい名前だ。
十年前、最初に自分の娘の未来と眼を奪い、この悪名だけが広まっていった。
嗜む程度に行っていたフェンシングの大会で得た名声。
趣味の作曲が上手く型にハマり勝ち得た富。
それらすべてが、一瞬で私の掌から砂のように零れ落ちていった感覚は今でも忘れられそうにない。
「ようやく、この一手が打てるのね」
悪くない気分だ。いや、この為だけに今日まで怪盗を続けてきた。私の好きな麻雀と言うゲームでは、自分の手を崩してまで相手に上がらせない事がある。
この十年と言う一局でしてきた行為を無駄にはしたくない。ここからが本当の勝負なんだ。
「空ちゃん」
「相変わらず、その呼び方なのね」
皮肉を含めず、この人はまだ『以前の名前』で呼んでくれている。
月島夜空。学生時代はフェンシング、その後は作曲家として大成したはずだった三十代前半。結婚して、子供を産んで、育てて、勝手に家を出て行った私をまだこの人はこんな風に呼んでくれる。
「いつでも空ちゃんは空ちゃんだからね。」
数年ぶりに顔を合わせた『旦那』に肩を貸し、三十七階の廊下を歩いている。
視界を共有している最中は自分の目の前は見えない。当たり前の事だ。視覚以外の感覚は共有できないゆえ、私がこの人を誘導している。
「君が出した予告状の意味、涙子はわからなかったようだよ」
「そう。なら、いいのよ。それで……」
自分の今の顔は見られたくない。それに今この人の顔を見たら、申し訳なくて絶対に泣いてしまいかねない。
だが、それは心配ないだろう。今旦那の視界は『春日井警部』のもので埋まっている。
「おっと、誰か僕の視界を覗いてきた」
「お父さん?」
「かもしれない。部屋の前に付いたら弾くよ」
「もう到着してるわよ、あなた」
三十六階の金庫室脇から始まった楽しいデートも終了。
旦那――月島京介は覗いていた視界を『覗いているノイズ』を排除してから、元の自分の視界を取り戻した。
「うん。なら、もういいよ。ありがとう。しばらくしたら、僕も部屋に入る」
私から腕を放して短く礼を言う旦那。この笑顔に何度救われ、呆れさせられた事だろう。
「相変わらず器用ね。この力って、そんなに上手く扱えるものなの?」
「元から力を持っている僕と、君のように他人の眼球を用いて能力を行使するのとでは、スペックに差が出るのは当たり前だよ」
「さすが警察にも認められている探偵さんね」
「それで、予告時間は?」
「四分前」
「ちょっと早かったね」
「いいのよ。ちょっと話もあるし、遅いくらいだわ」
「そっか」
「ありがとう。感謝するわ」
「協力するのは今回だけだよ?」
「あらあら。それは残念」
短いやり取りの中で、理解者の存在が私の背中を押してくれているのを感じた。
ドアノブに手をかけると、私の表情は真剣なものに変わったように思う。緊張で顔が強張っている。
「僕がいるよ」
「ん」
隣から聞こえてくる声は昔と変わらない優しい声だ。
下唇を噛んで、揺らいだ心を落ち着かせた。
崩した役は元に戻せない。あの子の目は治らない。あの頃の幸せに未練があるわけじゃないけど、あの決断に後悔した事はなかった。
「開けるよ? 京ちゃん」
「うん。いってらっしゃい」
踵を返し、杖を前にして盲人のように立ち去って行った。視界共有中は自分の視界を得られず、前が見えない。故に普段は涙子から杖を借りるらしいが、今日は私が渡したものだ。
一つだけ、簡単な仕掛けを施してから、私は社長室の扉を開けた。
一瞬だった。
月明かりで照らされていた社長室は瞬く間に爆発音と共に白い煙に包まれた。
最初は入口の扉がひとりでに閉まり、僕と源次郎さんがそちらを向いた時だ。
煙が舞い、まだ部屋を覆わぬうちにナイトレディが動き出した。涙子さんより身長は高いが、その小さな体は源次郎さんの頭二つ分は低い。
ナイトレディの急な接近に反応したのは源次郎さん本人が最初ではあった。それでも煙に紛れたナイトレディには遅れを取ったように見えた。
煙が充満しきった部屋は、源次郎さんの体が隠れる頃には僕にも周囲が見えなくなっていた。
「ごめんね、お父さん。今日はこれで帰るわー!」
「くっ、待て!」
この間、煙で二人が何をしたのかはまったく見えなかった。
「くそっ、あいつ……!」
だが、部屋の入口で源次郎さんを挑発するかのように叫んだナイトレディの片手には、先ほどまで源次郎さんが持っていたはずの瓶が握られていた。
あの煙の中でナイトレディは源次郎さんから瓶を奪い取ったらしい。
さすが怪盗と言いたいところだが、これは僕が間に入らなくてもよかったようだ。
だが、ナイトレディを追おうとした源次郎さんの前に京介さんが立ちふさがる。
「さて、お義父さん。今回ナイトレディが盗んだものは表沙汰にはできないものです。僕にも、あなたにも」
「このまま奴を逃がすつもりか」
「ええ。ただ……追うフリはしないといけません」
「ああ、そうだろう。探偵の君が奴と協力しているなどと世間に知れたら事だからな?」
「それは別にいいんですけどね。共犯者として生きるなら、いっそ空ちゃんと同じ道に進みますよ」
そうしたら怒るだろうな、涙子さん。
「薫君。……『ナイトレディ』を追って」
「ぼ、僕がですか?」
「僕が追うと瓶が気になって加減しちゃうし、お義父さんには追わせたくない。涙子も来ているなら、合流して、涙子の目の入った瓶を確保してくれないかな?」
そうか。このままナイトレディに持っていかれる訳にもいかないのか。
確かにナイトレディが今後源次郎さんに狙われる事を考えたら、京介さんが回収した方がいいんだろう。ナイトレディはこのまま涙子さんの目を持って退散するのか?
そうなると、京介さんは結局ナイトレディを追う事になる。
「は、はい!」
「させんぞ!」
源次郎さんの巨体が僕を覆おうとする。
だが、幸いにもナイトレディが残した白煙がまだ充満している。
瞬時に体を縮め、水原姉妹に鍛えられた反射神経の赴くままに煙へ身を潜める。
「はぁ、はぁ。くっ、ど、どこだ……?」
源次郎さんはこちらを見失っている。どうしてか、息切れしているようにも見える。この煙のせい、という事はないだろう。
「無茶はしないほうがいいですよ。頭と両目が痛むんじゃないですか?」
「だ、黙れ!」
「……眩暈も起こしてるじゃないですか。あなたの視界、かなり歪んでいますよ」
能力の副作用、という奴か。
正式な力の持ち主でない源次郎さんは、それ相応にリスクが高いのかもしれない。
「さっ、行って。薫君」
「でも、京介さんは?」
「ここでお義父さんを止める。副作用は一定時間経ってから症状が出る事が多いから、そろそろピークになると思うよ。もう足だってフラついているはずだ。……お義父さんには、副作用を抑える薬も打たないといけないし。ナイトレディも、副作用の出る時間を計算して煙幕を張ったんだろう。まったく、この計算深さには恐れ入るよ」
「わかりました」
「うん。さっき小声でコッソリと『父さんをお願い』って頼まれちゃったからね。僕はこっちを見張っているよ。君も気を付けてね」
「気を付けてって、言うと?」
「……涙子と葵は本気で空ちゃんを捕まえようとするはずだ。警察が絡むと面倒になるから、その前に上手く瓶を取り返してね? その後、できればナイトレディも逮捕してほしい。涙子の目を取り戻す為に協力はしたけど、逃げられちゃったからね」
「はい。京介さんも、お気をつけて」
「うん」
京介さんに見送られて、外に出る。煙で覆われていた部屋に比べると空気が美味い。
さて、ナイトレディはどっちに行ったのか。
『薫、聞こえるか』
ちょうどいいところにイヤホンから頼もしい声が聞こえてきた。
「涙子さん! 今、ナイトレディを追ってます」
『ああ。君の視界から見ていたよ。状況がよくわからないが、ナイトレディは逃げたのか?』
「はい。いろいろややこしい事になっていまして……」
「あの三人の因縁は、この際後だ。だが、どんな事情であれ、ナイトレディと盗まれた物の確保が先だな」
盗まれた物、か。
あの時はこっちのマイクは切っていたはずだから、あの瓶の中身が涙子さん自身の眼だとは知らないはずだ。
……話さないと、ダメだよな。
「あの、涙子さん。実は盗まれた物なんですけど」
『我が子のアイ。だろ?』
「え、知っていたんですか?」
『葵が、金庫が開けられたと言ってな。状況を知るためにこちらから君のマイクを遠隔操作でオンにさせてもらった。あの女が何か仕掛けたのか、爆発音の後に調子が悪くなったが……それまでの会話はしっかり聴いていた』
聞いていたのか。まったく気付かなかった。
「あの」
『君の推理をこのイヤホンとマイク越しに聴くまで、私は否定し続けてきた。決して解けない事はないような暗号だったのにも関わらず、私はその答えに辿り着けなかった。いや、辿り着こうとしなかったんだな。馬鹿だな、私は。親の心、子知らずと言う奴か』
消え入りそうな涙子さんの声に、いつもの自信は感じられない。
どこか寂しそうな声だ。京介さんもナイトレディと言う名の夜空さんも、 あの事をずっと隠していたんだろう。
言えれば、涙子さんが実の母親を憎む事もなかったんだろうに。
『だが、どんな事情であれ、あの女は文字通り目の敵だ。数々の窃盗の罪が消えた訳じゃない。それに捕まえてからでも、話はできる』
「……では、追いますか?」
『ああ、当然だ。私達もすぐに行く。この金庫は開きそうにないからな。葵、いいよな?』
『いいよー! 警部達にはもう少しそこにいてもらいましょ!』
後ろから「おい待て葵!」「何がどうなっているんだ!」などと声が聞こえた気がする。
閉じ込められず金庫の外にいた警察官達の声か。金庫の扉を開けようとしていたんだろう。
そんな声もすぐ聞こえなくなり、すぐに行くと言われた直後に通信は途切れてしまった。




