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デュアル・フィールド  作者: 太刀河ユイ(飛竜院在九)
第三章・怪盗ナイトレディとの因縁
13/17

待機時間と動き出す影

「すいません。以前ここでアルバイトをしていた水原雪絵です」


 そう受付嬢に切り出していった幼馴染の後ろ姿はとても頼もしいものだった。

 僕は少し離れたところで成り行きを見守っているしかできないが、ここは雪絵に任せておくのがいいだろう。してほしいことは既に伝えている。

 雪絵を待っていた事で少々時間が経ってしまったが、このビルに侵入する事ができた。先日より警備の人間が多かったように思える。

 入り口で春日井警部や見知った刑事に会わなかったのは運がよかった。

 少しすると、受付嬢は雪絵と後ろにいる僕をチラチラと見ながら電話をかけ始めた。ここからだとどういう会話をしているのかはわからないが、ややこしくなるといけないと言われ、僕は離れているように言われたのはほんの 数分前のことだ。

 電話は終わったようで雪絵は一礼して、エントランスにぼけーっと座っている僕の方に駆けてきた。


「どうだった?」

「オッケーだって。新しいアルバイトを募集する予定もあるそうだから、人集めしてくれるならこれから説明するってさ」


 おお、よかった。これで堂々とエレベーターに乗れる。


「去年同じように紹介してくれるバイト探してたよね」

「そうそう。感謝してよね? 部活も切り上げて来たんだから」


 金田コンツェルンの本社ビルには源次郎氏の傘下にある企業が数多く存在する。

 学生でもアルバイトができる企業もあり、雪絵は何件かそれを紹介してくれたのだ。

 元々は僕が進路を定めずにいた事から、何かしらに興味を抱かせようとしてくれた好意だったのだが、それがこんな形で役に立つとは思わなかった。


「でも、どうしてこういう企業にまで顔が利くの?」

「一年くらい前にバイトしてる時、急に人手が足りないって状況になってね。それで片っ端から友達にメール送ったのよ。その会社が今行こうとしてるとこ」

「なるほどね」


 雪絵様々だ。

 エレベーターに乗り込み、雪絵が降りる階のボタンを押すのを待つ。


「場所は二十階ね。私はすぐにアルバイトの紹介をしてもらうから」

「じゃ、僕はトイレに行ってくるよ」


 ナイトレディの予告時間までね。大体四時間程度だろうか。


「はあ。このバイトのあんたに紹介もするから、ちゃんと来てよね? 結構無理して押し込んでもらったんだから」

「わかった。僕からも誰かに声かけるようにしてみる」

「なら、良し。じゃ、お姉ちゃんと月島先輩によろしくね」


 二十階に到着した。雪絵はこれから人に会うが、僕は誰とも会う訳にはいかない。

 となると雪絵に宣言した通り、トイレの中にいるのがベストだろう。


「うん。それじゃあね」


 雪絵を見送って、手近にあるトイレを探す。


「あった」


 僕は今から四時間、ここで時間を潰す。

 予告時間になったらどこかに身をひそめて、現場の様子を探らなくてはならない。警察には見つからないようにしないと。

 だが、警備チームから外された葵さん、警察が動く事で厄介払いされた僕と涙子さんはビルには入れなかった。

 そこで雪絵に頼み込み、アルバイトの紹介に同行すると言う手を使ったのだ。同行するのは僕一人が限界だと言われたけど、葵さんは車から離れる気はなかった。

 涙子さんも行動は制限されるし、特に問題ない。

 今頃連れはどうしたと聞かれて「お腹が痛いと言ってトイレに」と答えている頃か。

 トイレに入り、一番奥の個室の扉を開ける。


「しばらくはここで座ってよう」


 葵さんと涙子さんはまだ車の中にいる。葵さんは今日非番らしいが、ナイトレディの警備から外されていたので涙子さんの頼みがなくてもあの駐車場で張っていた事だろう。

 時間になった後は、どこに身を隠そうか。

 三十六階は巨大金庫と制御室。三十七階は社長室がある。

 社長室は誰かしらいるだろうか。

 だとしたら、屋上に隠れているのが一番かな。いや、ビルの周りはヘリが旋回している。あまりいい手とは言えない。

 臨機応変に対応するしかないな。


「せっかく入り込めたのに……」


 面倒な事だ。

 と、忘れていた。

 葵さんから無線機を借りていたのだ。

 小型のもので、制服の胸ポケットに入れられるから目立たない。そこから一緒に入れていたイヤホンを取り出して、イヤホンと無線機の中間に付けられたマイクに向かって話しかける。


「ビル内に入れました。今は二十階のトイレにいます」

『うむ、ご苦労。しばらくはそこにいてくれ』


 雑音が多少入ってくるが、涙子さんの声はちゃんと聞こえる。


『まずは十時半過ぎまで待つ。それから君の行動を、こちらで指示する』

「十時半。終業の時間ですね?」

「ああ。ある程度、社員達が帰ったら中にいる連中の視界を覗く。警備員なら動かない連中が多いし、刑事なら視線の動き方ですぐわかる。ナイトレディ本人であれば、ビルで何かしらの行動を起こすはずだ」

「なるほど。でも、その方法ってかなり負担になりませんか? 波長の合わない人とそれをすると、頭が痛くなったり、ぼやけたりするんじゃ」

「負担にはなるが一番確実だ。それに何度か奴の視界を除いた事がある。奴の視界は他の者と比べれば頭痛はあるが、ハッキリ見えるんだ。君と葵ほどではないが、区別はできるはずだ」


 覗けばナイトレディとわかる。

 その覗き込んだ視界から場所を読み取って、僕が様子を見ればいいのか。

 涙子さんの能力は負担が大きいはずだ。ずっと視界をチェックしていることはできない。


「上手くいきますかね」

『君の方は動きにくいだろうな。いざと言う時は葵が突入する気でいるぞ。一応は止めるが、止められなければ始末書では済まないだろうな』

「……十時半まで大人しく待ちましょうか」

『ああ。私は休むとするよ、夜は相当疲れる事になるからな。葵、九時半頃に起こしてくれ』

『はいはーい』


 ご機嫌な葵さんの声が聞こえてきた。チームから外されたと言うのに、なぜここまで行動的になれるのかな。ナイトレディを追う理由は彼氏を取られたから、と冗談のような話だけど、もう意地になっているようにも思える。

 僕なら、ナイトレディがビルから逃げ出した所を車で追って捕まえるが、近場の駐車場にいるならそれも計算通りなのだろう。

張り込みには不向きな気もするが、もし春日井警部に見つかった時の事を考えればなんてことはないか。


「――――――――」


 休むと言った涙子さんは、小さく鼻歌を歌っていた。僕には聞こえないような小さな歌。聞き覚えがないのに、なぜだか耳に馴染んで来た。


「いい曲ですね」

「昔から父さんがよく子守唄変わりに歌っていてくれたんだ。うるさかったか?」

「いいえ。続けてください、なんだか……落ち着きます」

「そうか。では、私が眠くなるまで、歌わせてもらおう」


 それから三時間と少し。涙子さんの鼻歌、その後は小さな寝息を聞きつつ、予告状の内容やビルの警備について考えていた。

 長いようで短い時間が過ぎて、現在時刻は十時二十六分。


『起きているか?』


 予告の時間にはまだ早いが、不意に涙子さんから話しかけられた。


「はい」

『社員達が帰り始めた。この位置から視界共有を試みる。まずは君の位置を確認させてくれないか』

「わかりました。まだ二十階の男性用トイレにいます」

『は、良いと言うまで掌を眺めていたくれ。わかりやすくしておきたい』


 右の掌を広げて約八秒間待機。

 ん、と静かな咳払いが聞こえた。


『手を動かしてみてくれ』


 グー、パーと掌の開閉を繰り返す。


『む、そこか。では、そこを基準に奴を探してみよう』

「この力の範囲って、結構広いですね」

『遠ければその分、靄がかかったようになるがな』

「靄ですか。この距離だと僕の視界の場合、どれくらい鮮明に映るんですか?」

『多少見えづらくなる程度だ。限度は精々半径三キロと言ったところだ』


 だったら、能力的に相性の良いと言っていた僕以外を探すのは骨が折れるのではないか。

 僕以外は靄がかかるから、それでハズレだと把握できるとして。でも、ナイトレディの視界を覗く場合、頭痛はあるがハッキリ見えると言っていた。それで判断するのかな。


『……つぅっ』


 突然、涙子さんが苦しげな声をあげた。


「ど、どうしました?」

『なんでもない。頭痛だ』

「ナイトレディですか?」

『……いや、違うな。靄が濃い。もう少しハッキリと見えるはずだ。単純に波長の合わない人間と視界が被っただけだよ』


 やはりこの方法はかなり負担になっているようだ。

 なんとかしてあげたいけど、僕はまだ待機だ。涙子さんは僕を起点として、ビル内の人間に能力を行使している。

 今僕が動く訳にはいかない。それにこんなトイレの中で何ができると言うんだ。

 その後、何度か頭痛に悩まされる声を聞きながら、涙子さんの報告を待った。

 沈黙が破られたのは、それから十五分後の事だ。


『ようやく見つけたぞ』


 でかした涙子! と葵さんの声が聞こえてきた。マイクは涙子さんが持っているはずだが、それを感じさせないほど声が近い。よほど興奮しているんだろう。


『対象は現在二十五階の南階段をゆっくり昇っている』

「追いますか?」

『ああ。ただ、接触はするなよ。今後声を出す応答は極力禁止だ。気付かれてもつまらないからな。肯定は一度、否定は二度、イヤホンを指で叩いて答えてくれ。疑問がある場合は三回だ、発言許可を求める場合も同回数叩いてくれ』


 了解。と声を出しそうになるが、ここは今言われた事を実践しよう。

 耳に装着しているイヤホンを一度だけ指で弾いてみる。


『うむ』


 涙子さんの短い返事を聞いて、僕は長い間いたトイレの個室からようやく抜け出た。

 数時間トイレの中に籠っていたせいか、体が鉛のように重く感じる。腕を伸ばしたり、足を曲げたりして軽い準備体操をした後で、音を立てないようにトイレから出た。

 ビルの明かりは消えており、窓からの光も月明かりのみ。

 廊下も真っ暗で何も見えない。


『すまないな、薫。本当は誘導してやりたいんだが、私は奴を見失わない為にも視界を覗き続けることにする。そこから左に行けば階段があるはずだ。そこが今、奴が昇っている階段だ。現在二十六階だが、足音には気を付けてくれよ』


 また軽くイヤホンを一回叩き、周囲を確認する。左か。面倒な事に明かりを付ける訳にはいかない。目が慣れてから進みたかったが、月明かりを頼りに階段まで向かおう。

 階段に到着した時点で、涙子さんからナイトレディが三十階に到達したと連絡があった。

 現在時刻は十時半。


『……おかしい』


 呟かれたのは、迷いの見える涙子さんの不安に満ちた一言だ。

 予告まで十五分もあるのに、移動を始めている彼女には疑問が残る。だが、別に今移動したからと言ってすぐに盗み出すこともないはずだ。

 三回。疑問もしくは発言許可をもらう為に叩くイヤホンの回数だ。


『周りに誰かいるか?』


 二回。これは否定、誰もいないって事だ。


『許可しよう』


 まるで軍隊だな……。


「えと、移動してから現場にいる警備に変装するんじゃありませんか?」

『その可能性が高い。あらかじめ潜り込んでいてもおかしくはないが、その分リスクも高いからな。現に、以前その方法で潜り込んだ奴は春日井警部と葵、そして私に見破られている』

「あ、あの変装を見破れたんですか?」

『……長ったらしい合言葉を考えていたな。原稿用紙一枚は軽く埋まるものだ。それに着替えるなら一度トイレにでも入るだろう。そうなれば袋のネズミだ』


 なら、今回もそれを用意しているかもしれない。

 だが、もしもトイレに入ったとしても捕まえるのは僕なのだ。不安だよ。


『奴は現在三十二階だ。金庫まであと四階だが、君はあとどれくらいだ?』


 そろそろ声を出すのを躊躇ってくるな。足音を立てないように急いで階段を上るのは難しい。警察やナイトレディに感付かれたら面倒だ。相手よりも早く昇っているはずだし。

 今は二十七階か。金庫のある階まであと九階。なら、九回イヤホンを叩いて応答する。


『よし。追い付いたら、ナイトレディの二階下で待機だ。三十四階からは警備の関係で電気が付いているらしい。物陰に隠れながら進んでくれ』


 こうやってコッソリと潜入していると、段ボールがほしくなるな。

 決してふざけているわけではない。あれは先駆者の考案した潜入道具だ。

 階段にいると身を隠す場所が少ないな。だから余裕を見て二階下で待機させるのだろうけど。僕の役目は様子見なわけだし、無理に近づくこともないか。


『目標が三十五階で止まった。君は一旦、三十三階で待機だ』


 おっと、進みすぎるところだった。

 音を立てないようにこの場で留まろう。三十四階より上は電気が付いているんだっけ。上を確認してみると、確かに少しばかり明るくなっているようだ。

 あの辺から警察も見張りについていそうだ。ナイトレディがこの先に進んでも、これ以上は近づけそうにない。


『さて、予告時間まであと二十五分と言ったところだ』


 なぜナイトレディはこんなに早く現場に来たんだろう?

 まだ盗みに入った訳でもないから、何か別の理由があるんだろうか。先に済ませる用事でもあったのか?

 上の様子を探りながら、考えを巡らせる。

 二階上にはナイトレディがいるはずだが、まったく気配が掴めない。さすが怪盗と言えばいいんだろうか。

 さらに上は、警備網が敷かれているはずだ。人が多いし、電気もついている。なんとなくだけど、気配みたいなものを掴める。

 突然、バツンと言う大きな音が鳴ったような気がした。

 どこから?

 暗闇の中で音の鳴った場所を探していると、上が騒がしくなっていた事に気付いた。

 まさかとは思ったが、その予感が的中した。

 停電だ。自分のいた場所が元から暗かったせいで、上が停電したと気付くのに時間がかかった。警備の都合で付けられていた終業したビルの電気が消えている。

 いや、消されていると言うのが正しいのか?


『薫、聞こえているか?』


 不意に聞こえる涙子さんの声に思考を遮られた。外からでもこの停電に気付けたんだろう。冷静な声の中に焦りのようなものがある気がする。

コツン、とイヤホンを叩く。

 すると、返事は小さな吐息であった。


『よかった。意図的かどうかはわからんが、ただの停電みたいだな。電気系統全般がダメになったのかと、焦ったよ』

『ツッキー、どうする?』

『今ナイトレディから弾かれた。どうやら、停電と制限時間が被ってしまったらしい。あとツッキーはやめろ』


 制限時間?


『この能力は連続使用が限られている、と言う話はしたか? まあ、今は急ぎだ、割愛しよう。ナイトレディは停電と同時に走り出してしまって、視界の共有もその瞬間に切れてしまった。位置を補足できない。……慎重になりすぎたな』


 僕がナイトレディを視認できれば、それを伝える事で涙子さんの視界を確保できる。でも、二階下の位置では難しいだろう。警備に気付かれず、それをやるのも厳しい。


『ここからは君の自由だが、奴を追うか?』


 自分で判断しろ、って事か。

 とにかく意志を伝えないと。迷わず、僕はイヤホンを一度だけ叩く。


『わかった。あと少しで電気も復旧するだろう。金庫は三階上だが、近づきすぎるなよ』


 一度。肯定のノックを入れて、上の様子を伺う。


「金庫室前に集まれ! ナイトレディを中に入れるな!」

「おい、むやみに持ち場を離れるんじゃない!」


 バタバタとけたたましい足音と声が聞こえる。この階より上の階には警備がいたようだが、それが続々と金庫のある三十六階に集まっているようだ。


『人が密集しすぎているな。視点を合わせづらい。奴の居場所を再び補足するのは難しいな。薫、上が騒がしいようだし、少しくらいなら声を出してもいいぞ』

「は、はい」

『目視でナイトレディの変装を暴くのは難しい。今は明かりもない状態だ。三十六階に隠れられそうな場所があるといいんだが、まずはそこに向かってくれ。そこからは一階移動する毎に四回ノックしてくれ』


 この騒ぎに乗じて階段を上がり、三十六階へ向かう事にした。

 涙子さんはまだナイトレディの位置を確認できていないようだ。前のように変装されていれば、僕には区別ができないかもしれない。

 できれば辿り着く前に見つけてほしかったけど、そう上手くはいかないようだ。

 三十五階に到達し、物々しい空気が直に伝わってくる。


「…………」


 今度は叩くのではなく軽く触れる程度で四回、イヤホンにノックする。


『薫? すまない、あいつはまだ見つけられそうにない。三十六階には警備もいるが、今は暗闇で動きも鈍い。近づいてから身を隠すなら今だ。隠れられそうな場所はあるか?』


 隠れられそうな場所。となると三十六階のトイレが理想か。一階下のトイレに隠れてもいざと言う時に動けないし。

動けたところで僕が何かする訳でもないんだけど。

三十六階と三十五階の間にある踊り場から様子を伺ってみると、暗がりに扉が見える。数時間前にも見たトイレの扉だ。

 扉は都合の良い事に階段のちょうど向かいにある。これなら階段を昇ってすぐに隠れられる。

 金庫室は階段からある程度離れているけど、階段付近に見張りがいないのは不気味だ。


「涙子さん、階段付近に見張りはいますか?」

『ある程度の視界は覗いてみたが、見張りらしき人物はいない。ナイトレディに突破された後だからな。そこにいた見張りは追いかけに行ったのだろう。一応、慎重に動いてくれ』


 問題はなさそうだ。なさすぎて、不気味に思える。

 だが、本来侵入を防ぐべき相手は、既にここを通り過ぎたナイトレディだ。追いかけに行ったとしても、不思議な事じゃない。


『ひとまず、トイレで待機だ。それ以上進むと見つかるぞ』


 了解と、イヤホンを一度ノックした後、踊り場を抜けて階段を上がる。

左右の確認してみるが、やはり人影はない。

 音を立てないようにトイレの扉を開けて、身を隠す。一層深い暗闇が僕を出迎えた。

 遠くから警備の声が聞こえるが、この空間の静寂がイヤホンから伝わるノイズを強調させる。

 カチッ、と乾いた音がイヤホン越しに聞こえてきた。音と同時に起きた現象のおかげで原因はすぐにわかった。電気が付く予兆。

 そして、すぐ真横から水の流れる音が聞こえた。


「あー、やっと停電直ったのかよ」

「……ッ!」


 まずい、誰かいる!?

 別の個室に隠れようと動き出す僕の足音は、電子音の後に流れ出した水音と男の声にかき消された。


「あー、生き返るわー。っと、早く戻らねぇと」


 音を立てないように。音を立てないように。

 ただそれだけを意識して、トイレの個室に入り込む。鍵はかけなかった。それだけでも音が鳴るリスクがある。


「オイ! いつまでトイレに籠ってんだ!」


 廊下から怒鳴り声に驚き、声が出そうになった。鼻から静かに息を逃がして、自分の心臓の音にだけ集中する。深呼吸、落ち着け。うん。


「うるっせぇなー……停電でウォシュレットが付かなかったんだ。仕方ないだろう」

「今仕事中だぞ! そんなことより、てめぇがトイレで踏ん張ってる間にナイトレディが通り過ぎやがったぞ!」

「やばっ」

「だから、早く来い! あっちはひでぇことになってんだ!」


 個室とトイレの扉が乱暴に開け放たれ、リノリウムを叩く二組の足音が離れていく。

 急いでいたのか、トイレの電気は付けっぱなしだ。電気が付いているとまだ誰かいるんじゃないかと思ってしまうが、人の気配はしない。


「ふぅ……」


 安堵の声が漏れる。気が抜けてしまった。もしまだ近くに人がいれば確実に見つかるくらいの音量で、僕は深く呼吸した。


『無事か?』


 涙子さんだ。今の状況を無線で聞いていた上での言葉だろうか。


(る、涙子さん! 誰もいないって言ったじゃないですか!)


 もう泣きそうな声で訴えた。もちろん小声で。


『す、すまん。まさか中にいるとは思わなかったんだ……。ナイトレディがそこを通り過ぎたのは確認していたからな……』


 なんていうか、涙子さんはこう詰めが甘い部分がある。目が見えない分、集中力がすごく研ぎ澄まされている。

 だが、その集中力の死角は涙子さんのミスであったり、失念だったり、こう言った情報の死角から顕著に表れる。

手遅れになるパターンもあり得る。

 そこは僕がサポートするべきなのだろうけど、今回のはさすがに危なかった。


『薫くーん、だいじょうぶー? ついに涙子のドジが出たわね』

『ほ、本当にすまない。以後、気を付ける……』

「い、いえ。僕もサポートします」


 葵さんに驚きはない。たまにこういう事があるという事なんだろうか。元相棒であるだけあって、慣れているようだ。さっきの台詞は他人事のように聞こえたけど。


『ナイトレディを見つけた。そのまま黙って聞いてくれていい』

「…………」

『靄がかかっているが、ある程度ハッキリ見える視界だ。これは私の血の繋がりのある者だが、金庫の前に立っている』

「変装しているんでしょうか」

『恐らくな。父さんは源次郎氏と一緒にいたようだし』

「気になっていたんですけど……」

『ん?』


 呼び方、だ。


「本人の前ではお祖父様、いない時では源次郎氏と。まるで他人みたいな言い方ですよね」

『ああ、自分でも不思議だがな。なんとなくだよ』

「そう、ですか」

『それよりもナイトレディだ。もう金庫前にいると言うことは、いつでも盗める段階にいるのかもしれない』

「予告時間まであと七分。ここでナイトレディの正体を暴けないでしょうか」

『と、言われてもな。君は完全な部外者だ。私も父さんからは厄介払いされてしまっているのを忘れたか?』

「う……」

『今君が出て行って、私の言葉を代弁させたとしよう。すぐさま春日井警部辺りが突っかかってきて、その隙に獲物が盗まれてしまうかもな』


 それはまずい。でも、どうにかならないかな。その為に来ているのに。


『盗まれた後は奴の逃走経路を確認してくれればいい。そうしたら、葵が車を飛ばす』

「わかりました。僕がまた動き出すのは、予告時間の直後ですね?」

『あ、ああ……』

「涙子さん?」

『いや、どこか落ち着かなくてな』

「さっきトイレの警備員を見逃した事なら、気にしていませんけど……」

『そうじゃない。今覗いているこの視界に、違和感があるような気がする』

「違和感?」

『変装しているからか、いや、それだけではな……つぅ!』

「……!?」


 痛みを連想させる涙子さんの小さな悲鳴。先ほどのものと比べても大きなものだ。


『力の使い過ぎたな。薫、今視界から弾かれた。私もそろそろ限界らしい。ナイトレディの探索はあと一回、チャンスがあるかどうかと言う所だろう』

「あと、一回」

『君と葵になら、あと連続十分でできるんだがな』

「それほど他の人への視界共有はリスクがあるんですね」

『家族であってもな。それに同じ能力を持つ人間なら尚更だ。ナイトレディのように私の眼球で能力を得ているのであっても、父さんのような本来の能力者でもな』


 視界共有能力を持っている者同士で力を使うと、リスクは跳ね上がるのか。

 だから、僕や葵さんのような人が相棒に選ばれるんだろう。


『父さんも、ナイトレディ……あの人が元相棒だったらしい』

『元相棒、ね。離婚はしてないって言うのに』

『ああ……。ん?』

「どうしました?」

『さっき弾かれた時も、違和感があったのだ。どうせ力の使い過ぎで、バテてしまったんだろうと思ってな。私は片目しかないから、父さんよりも遥かに力が弱い』

「その違和感って」

『弾かれる時は覗かれている側の意思、又は制限時間が関わってくる。さっきの弾かれ方は制限時間と言うより……』

「覗かれている側の意思? 意図的に弾かれたって事ですか?」

『それはありえない。ナイトレディは私の眼球で限定的に視界共有が行えるだけだ。完全にこの力を掌握できている訳では……』


 言葉に詰まる。

 涙子さんが感じた弾かれた際の違和感。

 本来の能力者と、限定的な能力者の違い。

 当てはまらなかったピース。


『薫君、今から社長室に行けるか?』

「警備が金庫室に行っているなら、大丈夫だと思います」

『問題ないだろう』

「でも、なんで社長室に?」

『訳はあとで説明する。ただ、あの予告状にまんまと踊らされたとだけ言っておく』

「え? それって」

『この答えを私は想像もしていなかった。こんな簡単な答えに気付かないとはな、どういうつもりかはわからないが』

「えーと、僕もよくわからないんですけど」

『また上の階に行ってほしい。社長室だ。今度は会話が聴けるくらいに近くにな』

「だ、大丈夫ですか」

『当然、危険だ。私もそちらに行きたいが……』

『あー、私がなんとかするわよ。いろいろ慣れてるし』

『……葵』

『今の相棒は薫君でも、あんたは私にとってかわいい後輩なんだからね? ちょっとくらいワガママ言いなさい』

『恩に着る。では、薫。先に行っていてくれ。無茶はするなよ』

「はい、上で待っています」

『ああ。これから移動だ、通信は切ろう。重ねるが、無茶はするなよ』

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