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デュアル・フィールド  作者: 太刀河ユイ(飛竜院在九)
第一章・揺れる遺体と公共プール
1/17

一ヶ月前の事件(発見)

『ごめんね……』


 この人は、誰に謝っているんだろう。

 僕……じゃない。

 僕はこの人を知らない。

 この人もきっと、僕の事を知らない。

 それだけはわかった。


『やめて――!』


 子供の声だ。近い。

 近い? いや、これは……。


『やぁ……っ!』


 すぐ近くで声が聞こえるのは、自分が喋っているから?

 この体と声は明らかに女の子のものだ。夢の中で僕が自問自答を繰り返す内、近くでする声はだんだん高くなり、悲壮さを増していく。


『動かないで! あなたの為なの!』

『やめてよお母さん、こわいよぉ……!』


 泣きじゃくる子供の声で思考が阻まれる。

 夢にしては妙にハッキリとしていた。まるで、思い出したくないトラウマを見ているようだった。


『ひっ!』


 体が跳ねそうになる。だが、それはできなかった。

 自分の体が抑えつけられているらしい。相手は女性と言えど大人だ。片手でも充分に抑えられてしまう大人と子供の力関係。

 すると余った片手が、少しずつ顔に伸びてきた。

『な、にするのっ……! やめてっ、やめてやめてやめてやめてやめてやめてぇっ!』


 伸びてきた手はピタリと、左目の視界を覆った。


『あなたの、為なの』


 ……。

 意識が覚醒して、全身に力が戻る。それと同じくして、とっさに体を跳ね起こした。

 慌てて左目を抑える。

 リアルだった、抑えつけられた体、ピトリと触れた冷たい手。

 そして、最後に感じた左目の強烈な痛み。


(変な夢というか……気持ちの良い夢じゃなかったな)


 目覚めたのは、バスの中だった。


「やばっ! 降りないと!」


 悪夢から覚め、ちょうどそこは目的地のすぐ傍だった。

 慌てて近くにある停車ブザーを鳴らす。自分がここで降りる事を知らせるものだが、他にここで降りる者がいなかったせいか、目的地直前になってブザーがバス内に鳴り響く。

 当然、バスは止まってはくれた。……少し急ブレーキ気味に。

 申し訳ないと思いつつも、急ぎ足でカバンを担いでバスの前方へ進む。

 運転手や他の客から無言の圧力をもらいながら、料金を支払い、急いでバスを降りた。視線が少し痛かったが、誰からもお咎めをもらわなかったので、僕はそっと胸をなで下ろした。悪いのは自分だし、絡まれたら反論できないからね。

 ただ、それの代償として、


「おっそーい!」


 こっちの幼馴染みから熱烈な歓迎をされてしまった。

 思わず肩を窄ませる。耳に掌を当てようとしたが、ここまでするとさらに反感をもらいかねないので、ギリギリのところで留まった。

 水原雪絵。すぐそこにある温水プールでのアルバイトを紹介してくれた関係で、働きだして七日目の僕の様子を見に来ると言っていたが、まさか本人より早く来るなんて聞いてないぞ。

 しかも休日だと言うのに学生服で、だ。

 休日であるにも関わらず制服を着込んでいるこの幼馴染みは、まるで真面目が服を着て歩いているような奴だ。昔から「本ばかり読んでないで体も動かしたら?」とか口うるさくてうっとおしく思えてしまう事もある。

 今現在は春休み。明ければめでたく進級し、高校三年になる。


「始業四十分前なんだけど……」

「一緒に挨拶行こうって言わなかったっけ? もう少し早く来てくれてもいいじゃない」

「挨拶ってオーナーに?」

「そうよ。まあいいか」


 僕が雪絵にアルバイトを紹介してくれるのは、これが初めてじゃない。

高校三年になると言うのに、僕は未だに自分の行く先を決めかねていた。

進学や就職。どっちつかずの考えがここ数カ月、頭の中で堂々巡りを繰り返している。そんな僕を見かねてか、しばらく前から雪絵はこうしてアルバイトを紹介しては世話を焼いてくれた。

 顔が広い雪絵のおかげで、いろいろな経験ができたし、効率のいいバイトにもありつけている。

 ……どちらかと言うと、春休みである今は目標探しと言うより稼ぎ時と認識している。これを他の人に言うといろいろと面倒だから口には出さないようにしよう。


「ここには慣れた?」

「おかげさまで」

「じゃ、私オーナーに挨拶してくるから」

「うん。あ、でもまだ来てないと思うよ」

「そうなの? じゃあ事務室の前で待ってようかな。あんたも休み時間に来てよね」


 だが、今回紹介してくれたアルバイトに関しては感謝したい。

時給もいいし、運動部に所属していない僕にとっても身体的精神的に辛くもなく、無理せずに働いていける。家からさほど遠くないのも嬉しいところだ。


「今日なんだけど、火ノ川さんに会える?」

「火ノ川さんとはいつも始業三十分前に会って、雑談してる。今日はオーナーに呼び出されているから、やめておこうかなと思ったんだけど、何か用なの?」


 その、雪絵の遠い親戚である火ノ川さんがこの施設の警備員である事もあり、ここに馴染むのも時間はかからなかった。雪絵と雪絵の姉と僕でよく遊んでもらったっけ。


「帰りに私の家に来てって伝えてくれるかな? お父さんが話したいんだって」

「わかった。じゃあ、それだけ伝えて来ようかな。あの人メール見ない時あるし」


 働く時間帯はほとんど被らないのだが、交代の際にはつまらない警備の愚痴と共に会話のネタには困らなかった。昨日パチンコで儲けた、散財したと言うどうでも報告、同期の何人かは会社経営していて、その中の一人であるオーナーからは借金をしている事や、そのオーナーは不眠症であるという事。親戚の中で特に可愛がっていた雪絵の姉さんが、最近彼氏に逃げられて飲みに付き合わされたなど、比較的に口は軽かった。ギャンブル癖も悪いが、基本的にはいい人だ。……たぶん。


「じゃ、僕はあとで挨拶に行くから。先に掃除してくるね」

「適当にやっちゃダメよ」

「うん。わかってるよ」


 さて、火ノ川さんに雪絵の伝言、そしてオーナーに挨拶か。

それが済んだらお客さんが来る前にプール内を軽く掃除、それが終われば後はひたすらプール内での監視。慣れてくれば、結構楽な仕事なのかもしれない。さっさと今日の仕事を終わらせて、昨日買っておいた推理小説を読破してしまおう。

 今日も、そんななんでもない一日が始まるはずだった。

 裏口から入り、廊下を歩いて四百メートル。そこにあるロッカールームから掃除用具を取り出して、室内のプールへ向かう。

 ここのプールの売りは何と言っても、プール一面を見下ろせる高さ十メートルの飛び込み台。初心者用に三メートル、五メートルなどのバリエーションもある。

 最初のうちは、滑らないように、怪我しないようにと床の点検を入念にするようにと言われていたが、アルバイトの僕にそこまでやらせていいのだろうか。

 早く終われば掃除の後は休憩だ。カバンの中にある推理小説に手を伸ばしたい衝動を抑えつつ、僕は室内プールへの扉を開けた。


「………………、え?」


 夢か、幻覚か。

 今見た事をそのまま雪乃に言えば「推理小説の読みすぎ!」などと怒られるか、同じ台詞を呆れ顔で言われてしまうかだ。

 でも、これは現実だ。

 プールの飛び込み台に人影がある。

 上ではなく、そのすぐ下に、ロープで首を括られたいわゆる首吊り自殺を行ったのであろう姿が目の前に飛び込んできたのだ。


「火ノ川さん!?」


 紺色。警備員の制服が温水プールの室内には似つかわしくない火ノ川さんの体は、無残にも宙に吊られ、空中で振り子のように大きく揺れていた。

眼光は見開き、口は空いたまま。恐らく、必死に呼吸をしようとした結果だろう。首吊りをして約数秒で意識は朦朧とするはずだから――と、


「だ、大丈夫ですか! 火ノ川さん!」


 僕はとにかく叫んだ。表情は苦痛そのものを表していたが、まだ生きているかもしれない。体が揺れていると言う事はまだ首を吊って間もないと言う事だ。

 火ノ川さんの首に繋がれたロープが吊られている飛び込み台は三つ並べられている十メートルと五メートルの間、七メートルのもの。

縄の長さはほぼ火ノ川さんと同じ。大体百八十センチ前後。あの高さから落下し首を吊ったのだとしたら絶望的だ。

 その階段まで駆け走り、昇る。もう遺体を見つけてから、一分以上経っているのではないか。

 首吊り自殺のリミットは何分、いや何十分だった?

 ロープの括り方や引っ掛かり方、そして高さにもよるはず。

 いや、変な考えはよそう。とにかく、無事でいてほしい。

 祈るような気持ちの中、五メートルの飛び込み台に到着した。

 飛び込み台から伸びる白い板の中間にロープが括られている為、体を屈めつつ身を乗り出す形で火ノ川さんの首元に手を伸ばしても、引き上げるには苦労するだろう。

 まだ体が揺れている今なら、隣の飛び込み台から手を伸ばして助け出せるはずだ。


「…………ッ!」


 慎重に歩を進め、五メートルの飛び込み台から、振り子のように揺れている火ノ川さんの体に手を伸ばす。

 やっとの思いで手が届いた火ノ川さんの体は冷え切っていた。

 自分よりも体の大きな火ノ川さんを支えながら、首筋にある頸動脈に手を添える。奥歯の下辺りにあって、生きていれば呼吸もわかるはずだ。


「火ノ川、さん?」

「……だめか」


 既に脈はなかった。体が痙攣していたりしていれば、応急処置でまだ助かりそうなものだが、僕がここに来るのは少しばかり遅かったらしい。

現場保存はできなかったけど、それは警察が来てから正直に話そう。体がまだ揺れていて、首を吊って間もないであろう事を考慮すれば、まだ助けられる可能性があった。これだけでも首を吊っていた遺体を動かす理由にはなる。

 体はとっくに冷たくなっていたけれど。

 と、ここで何かが頭をよぎる。冷たい、揺れていた体。

 体が揺れていたのは首を吊ってから間もないからなのは間違いない。

 ここまで駆けあがってきたせいか、多少だが汗もかいたが、いつも仕事を始める時と比べて微かに涼しいような気がする。体が冷たいのはその為だろうか?

 耳をすませば、空調が強く回っている音が聞こえる。昨日の終業時に僕はいなかったから、誰かが空調の設定をいじったのかどうかはわからず、確認もできない。

 亡くなってから時間も経っていないのに冷たい火ノ川さんの体が、僕に何かを語りかけてくるようだった。

 そもそもこんな場所で、なんで自殺なんかしたんだろう。

 自殺じゃ、ないのだろうか。

 ぐるぐると思考が回っていく。

 火ノ川さんは普段から少し粗暴だったが、わりと気さくで外面は良い方だった。仲が悪い人とはとことん悪かったが、特にここのオーナーの土橋浩介さんとは特別仲が悪かったように思える。

 考え事をしながら火ノ川さんの体を横たわらせたところで、メールの着信音が鳴り響く。

 作業の時はカバンと一緒にプールサイドの隅に置いておくのだが、火ノ川さんが首を吊っていた姿が目に入って、それどころじゃなかったから、まだカバンを担いだままだ。

 スマートフォンの着信を確認すると、メールが一通届いていた。

 雪絵からならば自動的に友人のフォルダに振り分けられているはずだけど、そこには収納されず、家族、友人、知り合いの類のフォルダにも振り分けられなかった。

 振り分けられていなかったメインフォルダのメールは非通知のようだが、イタズラメールかな。


『すぐにそこから離れろ』


 メール文にはそう書かれていた。


「誰だ、これ……」


 誰かに、見られている?

 そうだ、ここには確か飛び込み台が見える場所に監視カメラが設置されていたはずだ。そこから誰かに見られているんだろうか。そうすると、僕のアドレスを知っている……雪絵? オーナー?

 でも、その二人が僕に非通知でメールしてくるなんて不自然だ。

 今この施設には僕と雪絵と……オーナーがもうすぐ来るって言うところだろうか。あと、亡くなってしまった火ノ川さん。火ノ川さんが僕に疑いがかからないように時間差で届くようにメールをした?

いや、それほど火ノ川さんは機械に強くなかったし、そんな器用な事できないはずだ。最近携帯のボイスレコーダー機能に気付いたって言っていたくらいだし、非通知にする理由もない。


「迷惑メールでもないよな」


 スマートフォンの画面を見ていると、突然入口の扉が物凄い音を立てて閉まってしまった。

 振り向きざま、何か人影のようなものが見えたけど……。

 あの扉は開ききった後はその場で固定されてしまうはずだから、正確に言えば……閉められたが正しいのか?


「ちょっと待てよ。ここから離れろ、って……」


 仮に、これが自殺でなく他殺だとしたら?

 自殺に見せかけた犯人が何らかの理由でここに戻ってきたとして、火ノ川さんが首を吊っていない姿を見られたら、それは犯人にとって決して都合の良い事ではないはずだ。


「まずいっ!」


 扉が閉まったならもう既にこの部屋にいるはずだ。今どこにいるかわからないけど、階段を降りた所で待ち伏せされている可能性が高い。火ノ川さんの遺体をこのままにするのは心苦しいが、死後かなりの時間が経過しているのは素人目にも明らかだ。他はいろいろ調べないとわからないだろうけど、そこは僕なんかが踏み入れていい領分じゃない。

 絶望と苦しみがそのまま表情に残ってしまったような火ノ川さんの遺体を一瞥した後、他の入り口がないか見渡す。

 このメールの差出人の目的が何なのかはわからない。ただ、今の僕の状況を理解して送ってきたのであれば、僕の誘導が目的と言う可能性もある。もちろん、罠と言う可能性も。

 こんな思考ばかりしているから、推理小説や映画の見すぎだと言われるのかもしれない。

 でも今回ばかりは、この偏りすぎた教養が役に立ってくれそうだ。

五メートルの飛び込み台から七メートルの飛び込み台を支える柱目掛けて飛べば、そこには降りる為の梯子がある。そこを経由してプールサイドに飛び下りれば、別の出口に辿りつける。そこから利用客用のロッカールームと階段、正面玄関がある。

 うまく雪絵と鉢合わせないように逃げなければ、雪絵に危害が及ぶ事になる。

 逃げながら建物から出るように電話で言うべきだろう。

と、逃走経路を頭の中で貼り廻られた所で足元に力を入れた。飛び込み台から梯子までの距離は、隣合う利用客が空中で接触しないように少しだけ開いているが、飛べない距離じゃない。

 運動神経抜群とまではいかないが、まずまずはこなせる方だ。大丈夫だ、飛べる。

 待ち伏せているであろう犯人の死角を意識しつつ、音を立てないように落下防止の柵を乗り越える。そして、身を乗り出して自分が飛び移るべき七メートルの飛び込み台を支える柱の梯子に狙いを定める。

 助走なし。問題は届くかどうかでなく、飛び込んですぐにそこからプールサイドに降りられるかどうかだ。音を立てないように、というのは飛び移るのであれば不可能だろう。

 なら、どれだけ素早く逃げられるかだ。


「三、二、一……」


 小声でのカウントダウンの間、これが早とちりであってほしいと切に願う。

 ――ゼロッ!

 下半身のバネと、全身の平衡感覚を頼りに僕は跳んだ。落ちれば運が良くても捻挫はしてしまうだろう。

 飛び込みはわりとスマートに決まり、梯子の狙った位置の少し下に飛び移れた。

 そこからプールサイドに飛び降りた。

 降りた際の下半身にわずかな衝撃を受け流し、すぐに反対側の出口に向かって走り始める。

 距離は約二十メートル。

 着地のロスを入れても七秒もかからないが、その間に相手も気付かないほど馬鹿ではないはず。振り返らずに出口まで走りきり、廊下へと出る。

 ここの扉は利用客も多く、扉を閉めるのには手間がかかる。

 この廊下の先には、一般客が利用するロッカールームがあり、隠れるならそこがいい。

 と、ここでスマートフォンから着信を知らせる音楽が鳴り響く。

 それも、人気ミステリードラマの主題歌をアレンジした曲だが、この曲は特定条件下の相手の時に鳴るよう設定している。

 相手が非通知でかけてきた場合だ。

 一応、画面を確認する。

 設定した通り、画面には相手の名前と電話番号が書かれていない。ただ非通知とだけ書かれた画面が映っている。

 後ろから足音は聞こえなかった。追ってこない事を振り返って確認すると、僕は応答するために通話ボタンに人差し指を当てる。


「もしもし!?」


もし先ほど入ってきたのが僕の思った通り犯人だとしたら、今この状況で電話に出るのは悠長かもしれない。ただ、なぜだろう。この謎めいたメールもそうだが、このタイミングを見計らったように電話をかけてきた奴の声が無性に聴きたかった。


『ほう。その状況で出るのか、なかなか興味深いな、君は』

「…………」


 甲高く変換された無機質な声が、僕の耳を刺激する。変声器でも使っているのか。

 聴きたい事はいくつかあった。だが、まずはこれだけでも言っておきたい。


「今忙しいんだ!  話なら後にしてくれ!」

『では、ゆっくりと話そう。そこを二十メートル先に進むと女性用のロッカールームがある。そこに入れ』

「は!?」

『入れ。どうせまだ開館していていないんだ、入っても差し支えはないだろう』


 口調からして男なんだろうけど、この要求の意図がわからない。


『君に選択権はないぞ。それに相手も男の君が女性用のロッカールームに入るとは思わんはずだ』

「わかった。中に隠れたら、いくつか質問に答えてもらうからな!」

『うむ。いいだろう』


 この変態野郎!

 と内心罵りつつ、言われた通り女性用のロッカールームの前まで辿りついた。

 扉を開け放ち、男性用と左右対称のロッカールームへと足を踏み入れる。

 ここの掃除は僕ではなく、閉館後にパートの人が行っている為、入るのは始めてだ。


『さて、まずは通報だな』

「おい待て! お前が入れって言ったから――」

『別にその事じゃないさ。今は非常時だろう? 110番でも、知り合いの刑事でも呼ぶと良い』


 ……なんだか、手のひらの上で踊らされている気がしてきた。

 でも、今ここで大声を出すわけにはいかない。堪えよう。


「じゃあ、こっちは切るぞ」

『ん、待て。それより先にロッカーに隠れておけ』


 こいつの言っている事が、どこまで本気なのかわからなくなってきた。だが、先に隠れると言うのは納得できる意見だ。ここは素直に頷いておこう。


「……わかった」

『ふっ、変態め』


 無意識にスマートフォンを握る力が強くなってしまった。いけない、最新式はかなり薄いタイプなんだ。いくら僕の握力では画面が割れるようなものではないにしろ、もっと丁重に扱おう。

 入口から見て右の奥から四番目。そこのロッカーに身を潜める事にした。ロッカーを開け、荷物が入っていない事を確認すると、僕は自らロッカーの扉を閉めた。

 まずは通報手順だ。遺体の発見とここの場所。その時に揺れていた事、それを見てまだ生きていると思い動かした事、それは警察がここに来た時でいいか。

 問題は存在するかどうかわからない犯人の存在だが、これも警察が来た時でいいだろう。

 いざ通報すると言う時の為に心を落ち着け、手順を頭の中で確認していた。

 そして、今繋がっている謎の人物との通話を切ろうとした、その時だ。

ロッカーの外から、誰かの走る足音が聞こえてきた。けたたましいその足音が一瞬止むと、扉がバタンと開け放たれた。近い、このロッカールームだ。


(見つかった……?)


 このロッカーは内から覗けるようになってはいるが、僕の身長では覗き穴に届かない。

 外の様子が見られない。誰が入ってきたんだろう、声は聞こえない。カツカツと足音は不規則に鳴り響き、近づいて来る。

 そして、少し間を空けて遠ざかっていった。

 犯人に見つかってしまうと考えただけで、僕の心臓は早鐘を打ち続けた。

その音を掻き消してくれたのは、先ほどとは打って変わって控えめに閉められた扉の音だ。


『出ていいぞ』


 あんた、まだ繋げていたのか……。


『安心しろ、外に犯人はいない』


 場所が悪くてロッカーの外も見えない。様子を探るには、このロッカーを開けるしかないのだ。

 外の様子を見る為、扉とロッカーの間に五センチばかりの隙間を作るように開けた。

 ガシンッ――と、視界に飛び込んできたのは、四本の指。


「ひっ!」


 思わず声をあげてしまった。それで良しとしたのか、その指は躊躇う事なく、このロッカーの中に入り込んで来る。あっと言う間に手をロッカーに押し込め、扉はこじ開けようと物凄い力で引っ張られてしまう。ロッカー内には中から閉められるように作られていない為に、たった二秒に及んだ抵抗も空しく終わった。その手はロッカーの扉が解き放たれ、一瞬で僕の腕を掴んできた。

 ロッカーに降り注いだ微かな光を頼りに、僕の腕を掴むその延長上の影を捉えた。


「わ、わああああああああああ!」


 利き腕でない拳を振り上げようとしたが、僕の手には未だスマートフォンが握られていたのだ。


「っとと」


 ただスマートフォンを持ったまま、振り上げられた僕の腕は、相手によって捕まってしまった。

 しまった、と嘆いた僕は目を瞑った。もうどうにでもなれ、と。それで僕は『彼女』の声も聞こえなかったのだ。


「薫君。何してんの?」

「へ?」


 目を開け、顏を上げた。そこには見知った顔がいた。


「あ――葵さん!」


 その顔は僕が小学生の頃から見慣れたものだ。最近はあまり見なくなっていたが、警備員の火ノ川さんと同じく、葵さんの青のスーツ姿はこの場に少し不釣り合いな気もする。

 凛々しいというか、見た目とは裏腹な男勝りっぷりは健在のようだ。腕が痛いです。

 水原葵。さっきまで一緒にいた雪絵の姉で、僕も弟のように接してくれる人だ。今では刑事をしているって聞いたけど、この人は真面目と言うより僕と同じく好奇心旺盛で、いつも僕と雪絵を引っ張り回していた。


「なんで、ここに?」

「あら、聞いてないの?」

「何のことですか……」


 すると、長らく沈黙していたスマートフォンが音を立てる。


『ふふふ。すまない、葵。少しからかっていただけだ』


 それに対し葵さんは僕の腕を握り直し、スマートフォンに向かってこう叫んだ。


「あんたねぇ!  人が死んでいるって言うから、夜勤明けから様子を見に来たのよ?」

『だから、すまないと言っているだろう?』

「……ッたく、もう」

「あの……」

「あぁ、ごめんね。こいつ、私の知り合いなのよ。で、薫君が見た死体なんだけど……」

「は、はい。実は火ノ川さんが首を吊っていて」

「火ノ川さんが!?」


 あれ。僕いつ人が死んでいた、なんて言った?

 それに通報もまだだ。来るにして早すぎるぞ。


「なあ」

「何よ」

「あ、いえ。電話の向こう側の、知り合いに聴いているんです。……お前なのか? メールして来たのも、葵さんを呼んだのも……」

『そうだ。君の身を案じ、あのメールを出させてもらった。あれは自殺なんかじゃない』

「監視カメラか何かで見ていたのか?」

『詳しくは言えないが、君の傍にいるようなものだ……とだけ言っておく。

また何かあれば話をしたい。まずは、状況の整理と警察への通報だ』

「そうね。まずは火ノ川さんの様子を見に行きましょう。遺体は動かしてないわよね」

「それが……」


 申し訳ないと思いつつ、続けた。


「遺体は発見した時、揺れていました。首を吊ったばかりだと思って、僕は遺体を飛び込み台の上に下ろしたんです。そうしたら、もう既に遺体は冷たくなっていて、死後から時間は経っていないと思うんですが、あの高さなら、きっと……」

「人命第一、よね。うん、ありがと……」


 憂いを秘めた葵さんの表情はとても寂しげだった。火ノ川さんは特に葵さんを可愛がっていたのだから、当然と言えば当然だ。僕や雪絵もそうだったが、葵さんは僕らよりも年上。小さい頃から、いろんな事を教えてもらったんだろう。

「さて、現場に行きましょう。いろいろ聞きたい事あるから、まだ帰っちゃダメよ?」

「は、はい!」

『そうだ、君』

「なんですか」

『イヤホンを持っているか?』

「ええ、バスの中で暇な時に音楽聴いたりするので」

『イヤホンを片耳に常備してくれないか? いちいち電話を構えるのは不便だろう』


 ……それもそうだけど、こいつはいつまで通話を繋げている気なんだ?

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