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 ケイマはまず、先行する“逆立ち”と後続の“逆立ち”の、奥行きを無視した平面的な位置関係に注目した。

 “逆立ち”はほとんど通路の真ん中、強いて言うならば先行を基準にして、後続は僅かに右側に寄っている。二体の“逆立ち”は直進しかしないので、左右の配置が入れ替わらないのだろう。はっきり言って、使えない情報だ。上手く網を掛けるのであれば、二体には平面的に重ならないでいてくれる方がありがたい。そうであればケイマは何も悩まずに、二体の間を立ち位置とすることができる。網を掛けるのも、その後の退避も各段に楽だ。

 諦める暇もないケイマは、通路の端のスペース――網を掛けた後の対比所になる隙間に目を見る。右壁と左壁を見比べ、瞬時に右壁と“逆立ち”とのスペースが広いことを見極める。

「左だな……」

 呟き、少し悩む。確かにスペースは左の方が広いが、右と対した差がある訳ではない。“逆立ち”同士がほとんど重なっているので、左右の差など関係ないかもしれない。それでも僅かな重なりのズレを生かすなら、ケイマは右に避けた方が良い気がした。

 覚悟を決めたケイマは、“逆立ち”の歩幅から大凡の着地点を決め、そこに癇癪袋を投げて置く。盾からは指を放して宙ぶらりんの状態にし、代わりに剣を握った。バンドで固定されているので、これでも盾が何処かに行くことはない。身体は通路の右側寄りに、剣は癇癪袋を破かないようにソッと這わせる。切っ先で癇癪袋の位置を調整しながら、開いた右手で網の準備を進めた。

 接触までは、もう時間と呼べるような間隔はない。癇癪袋の位置の調節は終わり、ケイマの身体は右に避けるための初動を始める。同時に網を道具袋からスルスルと引っ張り、身体の前面を左側の壁方向に捻る。先行を頃がした後、角に網を掛けやすくするための布石だ。

「……あ?」

 その時、視界の左端に、金属光沢が映った。それは少なくとも、ミーアではないだろう。ミーアは金属を身に着けていないのだから。かと言って、それはリーンでもないだろう。リーンは別の通路に掛かりっきりのはずだし、何よりも、全身鎧ではない。

 ケイマがその金属光沢の正体を掴む暇もなく、身体が前面に、左側の壁に、“逆立ち”の前に押し出された。押したのは、魔物ではない。ソレの接近を、ミーアが指摘しない訳がない。警告しない訳がない。第一魔物なら、こんなに弱い攻撃であるはずがない。まるで誤魔化すような、隠すような、そんな曖昧な力で触れるはずがない。

 ケイマは左に視線を走らせ、その先のミーアを見た。ミーアは相変わらず落ち着いた様子だ。しかし、何かが違う。光の線を描く杖の動きが、何時もより激しい、気がする。まるで急いているかの様に。

 何よりも大きな変化は、カビ付いた鎖が――

「……!? くそっ!」

 ――ない。

 ミーアに巻き付いていた魔物狂わせる鎖が、跡形もなく消えているのだ。ケイマはそれを認識すると、剣を捨てて盾を掴みなおした。

 何故、カビ付いた鎖が消えたのか。時間に制限があったのか、引き付ける魔物の数に関係があるのか。現実逃避にも似た意識的な思考が流れる裏で、ケイマの無意識は防御を固めていく。網を掴んでいた右手も、盾の裏に回して支え、衝撃に防御が抜かれないように押さえた。

 意識が戦闘に戻った時、ケイマは既に吹き飛ばされていた。明らかにケイマを狙った“逆立ち”の角が、串刺しにしてやると言わんばかりに盾に打ち込まれたのだ。それでも堅牢な珠玉鎧貝の殻には傷一つ付かないが、支える探求者の筋力が、重量が、スキルが、その全てが足りていない。あるいは、皆無だった。

 このままでは、地面に背中を強く打ち付けてしまう。それに気付き、ケイマは受け身を取らなければと思い、しかし無意識はその命令を拒絶した。意識と無意識の一瞬に過ぎない葛藤は、熱を帯びてケイマの意識を焼き切ろうとする。身動きの取れないケイマは、盾を前面に構えたまま地面に吸い付くように落ちていく。

 結果として、ケイマは背中に強い衝撃受けることになった。しかしケイマは、声が出せないまま苦痛に叫び、息を詰まらせながらも、決して盾を離さずに支え続けた。無意識の速度に追い付いた意識が、受け身を取らなかった理由を理解したからだ。完全に“逆立ち”の標的になった今、受け身による隙は生命に関わるのだ。

「ガポッ!」

 まだ身体の中に気体が残っていたのか。ケイマは場違いにも、そんなことを思った。

 肺にはもはや気体など残っておらず、気管や食道の区別など関係なく、身体の隙間から空気が絞り出される。まともな呼吸が戻る間もなく、“逆立ち”の追撃がケイマを襲ったのだ。“逆立ち”の体重が乗った四つ一組の刺突は、堅牢な盾によって純粋な衝撃に変換された。今回は先ほどと違い、衝撃を後ろに流すスペースがない。意識を刈り取らんとする衝撃は、身体を通過した後地面で跳ね返って再びケイマを苛んだ。

 衝撃が通り過ぎた後に、ザクッという音がケイマの耳元で鳴った。僅かにタイミングと発生地点をズラして、合計四回の音。こんな状況でなければ小気味良いと思える音は、陸で溺れかけるケイマには、むしろ警戒心を強めた。ケイマは吹き飛びそうになる意志をかき集め、音の正体を認識した。

「――?」

 角か? と、声にならない疑問が浮かんだ。丸みを帯びた盾の表面に流された物が四本、檻のように地面に突き刺さったのだ。ケイマはそれが“逆立ち”の角であると確認し、角の持ち主が自分に覆う被さっているのだと知った。

 その時ケイマが見た風景の中に、後続の“逆立ち”がいないことが気になったが、すぐに疑問を持つ余裕はなくなった。始めの変化は、ギチギチという異音だった。ケイマは音の発信源が盾の反対側にあることに気付き、状況確認のために痺れの残る腕を退けた。

「なっ!?」

 ケイマはその先の光景に、思わず声を上げた。ケイマの視線の先にあったのは、角でケイマを囲ったまま、背中の棘を前面に押し出している“逆立ち”の姿だ。“逆立ち”は棘の生えた皮膚を波打たせ、根本から棘を移動させているのだ。体表を行進する棘は、明らかにケイマを串刺しにできる位置を目指している。

 早く逃げ出さなければ。ケイマは真っ先にそう思い、しかし実行には移せなかった。漏れ出た言葉が抜けるだけで痛みの走る身体が、まともに動こうとしてくれないのだ。平衡感覚も狂っているのか、角度のキツい斜面にしがみついている時に感じるような、腹の底に冷たい物が溜まる感覚がある。こんな状態では、角の檻から抜け出せない。抜け出せたとしても、まともに立って歩けない。

 反撃しなければ。ケイマがそう思うのは、当然の帰結だった。ケイマは防水ナイフを抜くと、逆手で“逆立ち”の皮膚に突き立てた。防水を施されて切れ味の落ちたナイフでは、ブヨブヨとした“逆立ち”の皮膚を一瞬で貫くことはできなかった。それでも強引に押し込んだ刃は、“逆立ち”の肉に深く食い込み、やがて伸びきった皮膚を貫いた。

 しかし“逆立ち”は、悲鳴を上げない。口がないのだから当然かもしれないが、それ以前にケイマでは、怯ませるだけのダメージを与えられないのだ。

 詰みだった。剣はただでさえ低い生存の為に投げ捨てたし、防水ナイフでは倒しきるだけのダメージを与えるのに時間が掛かり過ぎる。ケイマの道具袋は腰に押し潰され、中身を取り出すためには身体を大きく動かす必要がある。外に出していた癇癪袋は、一つは吹き飛ばされる前に設置してしまったし、もう一つは盾を両手で抑えた時に投げ捨ててしまった。網は最低限振り回せる程度に道具袋から飛び出しているが、切れ味の良さそうな棘には大した効果は期待できない。

 どこからどう見ても、詰んでいる。ケイマに残された道は――。

「……くそったれ」

 ケイマは口汚く、何かを罵倒した。その対象が何なのか、意識の乱れたケイマには判別できない。この状況に追い込んだ金属光沢にも、間に合わない援護に対するものにも、上手くいかない物事に苛立ちが募る。理不尽な状況を打開できない素の状態の自分にも、無性に腹を立てていた。

 ケイマは首を守るように構えた盾の裏で、金属片を握り締めた。冷たく尖った感触に、飛びかけているケイマの意識が少しだけ呼び戻される。こうなったら後でどうなろうと、一発くらい殴らないと気が済まない。

 ケイマはいっそう強く、金属片を握り締めた。初めて迷宮に潜った時に、たまたま手にした金属の破片。何か薄い金属を強引に砕いた様な、何の目的があるのかさえ不明な物体だ。そもそも迷宮の地面に直接落ちていたという時点で、怪しさ抜群だ。

 それでもケイマは、この金属片に救われたのだ。何のスキルも持っていなかった金属片で、手の皮を何度も切りながら内側から開けた“あの隠し部屋”の扉が、ケイマの初めての鍵開けだった。あの理不尽に比べれば、あの絶望感に比べれば、光があり手元には武器として使えそう物のある今は、怯えて縮こまるには安すぎる。

 ケイマは最後の足掻きで“逆立ち”を睨みつけた。そして事態は進行する。“逆立ち”の棘がケイマの盾に接触し、仄かに銀の光に照らされた。遠くではカチリと小さな音が鳴り、完全に攻撃の体勢に入った“逆立ち”がブルブルと棘を震わせた。

 そして“逆立ち”は、燃え尽きた。

 あまりにも唐突で強引な幕引きは、“逆立ち”がいた場所を睨みつけるミーアによってもたらされたものだ。ケイマの間近で咲いた白い炎は、しかし“逆立ち”だけを燃やし尽くした。しかも、ミーアのいる場所から飛んできたのではなく、いきなりピンポイントで発火したのだ。不定であるが故に分散しやすい魔法の特性から考えれば、信じられない程高度な制御技術と言える。

「……援護、ちっと遅ぇなぁ」

 ケイマはそうボヤいて、意識を手放した。

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