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「ツ、ツイてねー!」
ホースブールにある迷宮で、その青年は悲鳴を上げていた。
万人に羨ましがられる様な才がある訳ではないが、身体だけはしっかりと鍛えられている。腰には両刃の剣を下げているが、追ってくる魔物に効く保証はない。何よりも、迷宮の外で作られたような安物の剣で、迷宮の中の魔物相手にどこまでやれると言うのか。
ほぼ逃走によって鍛えられた筋肉質な肉体は躍動し、今も全力の逃走に役立っている。やや酷使気味の肉体は肥大化せず、細く締まった肉体を作り上げている。その持ち味は、一発のパワーよりも持久力だ。
とは言っても、迷宮の魔物の体力に比べれば微々たる物。魔物が早く諦めてくれないかな、などと考えながら今日も全力疾走だ。首もとで擦れ合う、組み紐で吊られた不揃いな金属片のガチャガチャという音だけだ心の支えだ。青年が初めて迷宮に潜った時に拾った、他人にはゴミにしか見えないお守りである。
青年の母親譲りの茶髪は汗で湿り、短髪では抑えきれなかった汗が止めどなく顔を滑り落ちていく。顔を拭きたい。拭くには足を止めなければならない。しかし止まると死ぬ。
「畜生ッ。とことんツイてねぇな、俺!」
しかし全力疾走しながらも、喋ることが出来る体力は見事としか言いようがない。青年自身、この馬鹿げた体力としぶとさ、そして一つの特技だけは、誰が相手でも負ける気はしなかった。
その日も青年は、もはや日課となっている迷宮の宝箱の鍵開けを行っていた。どんな宝箱でも開けてみせるし、トラップがあっても事前に気付いてみせる自信がある。それこそが青年の一番の特技であり、決して誰にも負けないことだ。
あらゆる鍵開けと、トラップの発見と解除。トラップ関連でもう一つ奥の手があるが、鍵開けに関しては探求者仲間からも、女の心を開けない以外は完璧、とよく言われている。
そんな中、青年は今日も今日とて日課の宝箱開けをしていた。迷宮内で自然発生する宝箱を開けようとある宝箱に近付くと、その影に“箱喰い”と探求者から呼ばれている魔物が隠れていたのだ。
低級の魔物であれば、青年の安物の剣でも対処出来た。中級の下までであれば、奥の手を使うことで何とかなる。しかし、“箱喰い”は駄目だ。運が良ければ奥の手で対処出来るが、条件が中々揃わない。
中級の上に位置する“箱喰い”は、ホースブールの迷宮の三十階層から出現する魔物だ。見た目は子犬の様な姿をしているので、変化前の姿を見つけても危険と思う者は少ない。“箱喰い”は宝箱を見つけるとその影に潜んで探求者を待ち、探求者が宝箱に触れると宝箱ごと探求者を喰おうとする。
口の裂け目が三つに割れて開き、確実に宝箱をバクリと一呑みにしてしまう。鈍臭い探求者はこの時点でアウトだが、運良く避けても“箱喰い”と戦うことになる。胴体が宝箱サイズに膨張した“箱喰い”と。
青年を追っている“箱喰い”は、まさにキングサイズだった。“箱喰い”を倒せば中の宝物も手に入るが、迷宮の宝物は入れ物と中身が一致しているとは限らない。なので今回は、全力で逃げるが勝ちである。“箱喰い”は諦めれば宝箱を吐き出して再び影に隠れるので、それまで逃げきれば戦闘を避けることもできる。
「! おいおい、マジかよ!」
と、青年の進路上に、剣士風の女探索者がいた。青年の進路上ということは、“箱喰い”の進路上でもある。
青年は慌てて叫んだ。
「おい、そこの剣士! 馬鹿デカい“箱喰い”だ! 逃げろ!」
すると剣士は、落ち着いた様子で青年の方を見た。迷宮には不釣り合いな、髪の長い女だ。左腕に長方形のデカい盾を持ち、左腰には一見して青年のそれよりも上質だと分かる両刃の片手剣を差している。鎧は高品質の毛皮をメインに、急所のみを銀色のプレートで守った、比較的オーソドックスな探求者スタイルだ。もっとも普通は毛皮ではなく、なめした革を使うのが主流だが。
剣士は青年の警告に動じるどころか、一歩前に進み出した。盾を正面に構え、右手に剣を持つ。腰を落として半身に構え、衝撃に耐える姿勢を取った。
――まさか。
青年は、有り得ない、と思いながらも、その充実した装備を見て、もしかすると、と思った。
「君は私の後ろに!」
剣士はそう言った。如何にも女らしい、しかし凛とした甘さのない声だ。
青年の予想は当たった。
「ああっ、もう。どうなってもしらねぇぞ!?」
青年は剣士の横を走り抜け、あまりにも頼りない剣を抜いた。剣士のそれとは異なり、両手持ちの剣だ。
剣士は自分の背後で戦う準備を始めた青年に軽く驚いた様子を見せたが、一回だけ愉快そうに肩を揺らした。それだけで空気が和らぐ様な、周囲への影響力の強そうな剣士だ。
しかし、長く気を緩めることは出来ない。走り続けて勢いの付いた“箱喰い”が、剣士ごと青年を吹き飛ばさんと突進してきた。
そして青年は、奇跡に近い光景を目にした。
ズガンッ
衝突音。“箱喰い”が壁にめり込む勢いで突っ込んでも、ここまでデカい音は鳴らないのではという衝撃が、音となって迷宮の空気を震わせた。あろうことか、剣士は“箱喰い”を押し止めるどころか、跳ね返して見せたのだ。
剣士の盾は青く輝き、何らかのスキルを使用したことが窺える。剣士はスキルを使い、盾で“箱喰い”を殴り飛ばしたのだ。剣士の尾の様に纏めた銀髪は、流れ広がり波打ち、スキルの輝きを受けて青く染まった。
「はは……、マジかよ? すげぇ」
青年は戦いに向かうことも忘れ、剣士の後ろ姿に見惚れていた。
剣士は“箱喰い”に出来た決定的な隙を付き、赤い光を纏った剣を振りかぶる。そこから振るわれた赤い軌跡はまさに豪快の一言で、切ると言うよりも叩き割る様な一撃だった。
―――
ガシャンッ、と音を立て、“箱喰い”に呑まれていた宝箱が落下する。ボロボロとその周囲に落ちるのは、“箱喰い”自体の身体から取れるドロップアイテムだ。
不自然な位置に、不自然に置かれた宝箱。賢明な探求者ならば、真っ先に“箱喰い”が隠れている可能性に気が付き、近付こうとはしないだろう。しかしこの宝箱に限っては、そんな心配は不要だ。今し方、“箱喰い”は倒されたのだから。
“箱喰い”を倒した剣士は、ふぅと一息吐き、剣を収めて立ち去ろうとした。それを見た青年は、慌てて剣士を呼び止めた。
「あっ、おいっ。ドロップアイテムと宝箱! お前が倒したんだから、持って行けよ」
迷宮の中では、基本的に早い者勝ちだ。魔物を倒したとしても、ドロップしたアイテムを拾うまでは所有権を主張できない。迷宮内の出来事は、当事者しか知ることは出来ない。先に拾われて所有権を主張されれば、泣き寝入りするしかないのだ。
もっとも青年は、助けてくれた者に対してその様な仕打ちが出来るほど面の皮は厚くない。寧ろ、小心者に分類されるタイプの人間だ。
剣士はキョトンとした後、苦笑した。
「ん? あぁ、ここには観光目的で来ていてね。だから、宝箱の鍵を持っていないんだ」
迷宮の、それも“箱喰い”の出るような階層まで観光などという目的でやってくる奴がいるとは、青年は今まで知らなかった。迷宮ではなく、ホースブールまで観光に来たと言うならば納得出来る。というのもホースブールは様々な温泉の湧く迷宮がある街として有名なため、稀に王族なども訪れることがあるのだ。
「よし。じゃあ、五秒ほど待ってな。開けてやるよ」
助けてもらった礼だ、とまでは口が裂けても言えない。青年にも、男としての意地があるのだ。
青年は“箱喰い”を一撃で倒せる様なスキルは使えない。そもそもスキルは、迷宮内で生成された物に宿る物だ。
迷宮に由来する物のことをアイテムと称し、このアイテムと呼ばれる物がスキルを習得するのだ。成長と共にスキルを身に付けたアイテムが、相棒たる持ち主の意志に従ってスキルを解放するのだ。
人がスキルに対して干渉出来るのは、精々スキルの成長と習得に方向性を持たせること位だ。アイテムは常に使い手の戦闘スタイルを学習し、より使い易く進化していく。
迷宮内の素材を使い、なおかつ腕の良い職人の手で作られたアイテムであればスキルを覚える可能性もあるが、青年の安物の剣ではそれも望めない。幾ら迷宮産の素材を注ぎ込んでも、職人が思いを込めなければアイテムに魂は籠もらない。
宝箱の鍵も、スキルを持ったアイテムの一つだ。多くのアイテムがそうであるように、迷宮の魔物がドロップすることもあれば、職人が迷宮で採れた素材から制作する場合もある。
そして宝箱の鍵はその名が示す通り、迷宮内に自然発生する宝箱を、鍵のランクより下であれば開けてくれる。何度か使うと再生不可能なほど壊れてしまうので、一つあれば大丈夫という物ではないのだが。
また、複数のスキルを持つ様なアイテム、例えば剣などは、アイテムが持ち主と認めてくれなければスキルは使えない。もし一部スキルを解放出来たとしても、全てのスキルを引き出せなければ持ち主として認められていないのと同じことだ。仮に青年が剣士の剣をいくら振り回しても、“箱喰い”を切り捨てる程のスキルは使えないだろう。
「構わないよ。他人のアイテムを消費させてまで、宝を手にし様とは思えないからね」
遠慮する剣士に、青年は余裕を持って答えた。
「こっちこそ構わねぇよ。そもそも、鍵なんざ必要ねぇ」
「何?」
青年はニヤリと笑い、青年の所持する数少ない迷宮産の道具袋から針金を二本取り出した。それを宝箱の鍵穴に突っ込み、自慢げに言った。
「まぁ、見てな。一、二の……。ほらよ、開いたぜ」
宣言した五秒という時間よりも遥かに早く、青年は宝箱を開けて見せた。これには剣士も驚き、青年を直視した。
「……今のは、スキルか?」
「違う、技術だ。この針金も、鍛冶屋に片手まで作ってもらった純迷宮外産。逆にレアだろ?」
世界を覆う勇者の結界は、人が暮らすには狭すぎる。なので多くの人々は、迷宮から得られる糧に依存している。勿論迷宮で生成されるアイテムだけでも足りないので、市場には迷宮外産の物も出回っている。しかし完全な迷宮外産の製品を扱う職人は少なく、製品自体も余程質の良い物でなければ大した金にならない。
青年は迷宮で得た書物から、川底に小さな鉄の粒が沈んでいることがあるのを知った。そのことを物好きな鍛冶屋に伝え、純迷宮外産のナイフを作ったのだ。針金はその時の余りで作ってもらい、ナイフは友情の証として鍛冶屋の壁に飾られている。
「凄いな。こんな階層まで、その様な装備で潜るなど無謀と思っていたが……。なるほど、相応しい技術を持っている」
剣士は感心した風に頷き、実に楽しげに笑った。薄暗い迷宮の中であっても、その笑顔はまぶしかった。唯一女の心は開けない青年は、内心の照れを誤魔化す様に慌てて宝箱の蓋を開けた。
「……お? これは」
「どうした。面白い物でも入っていたか?」
やはり宝箱の中身が気になるのか、剣士も宝箱を覗き込んできた。
中に入っていたのは、巨大な宝箱に似合わない余りにも小さな物だった。見た目も白っぽいだけのゴツゴツした石で、初めて手にする者はその軽さに驚くことになる。その正体を知らない者であれば、ゴミと間違えて捨ててしまいそうだ。
「泉石だ。ホースブールじゃ珍しくもないが……。お前、観光って行ってたよな? だったら土産に持ってくと良い。コイツを水に浸けると、ホースブールに湧き出る温泉のどれかと同じ効能になる」
効能と言っても、ピンからキリまである。鑑定してもらえばどんな効果か分かるが、泉石に鑑定代を使うのは少々勿体無い。当たりであれば大儲け、ハズレの場合は程良い温度の湯が沸くだけだ。
「どれ、見てみよう」
剣士は何でもないかの様に言ってのけ、青年の差し出した泉石を手に取った。そしてこれまた上等そうな道具袋から虫眼鏡を取り出し、泉石を覗き込んだ。
「鑑定アイテムか? 良い装備してると思ったら、そんな物まで持ってるとは……」
「君ほどの技術を持っていれば、すぐに集まると思うが?」
「この迷宮の宝箱で良く取れるのは、泉石に食い物、書物。後は鉱物が採れるくらいか? 職人に頼むには金がかかるし、隣の迷宮まで行かないとまともな装備は入らないさ。……それに宝箱を開けて回る位なら、この格好で十分すぎる。それに金は家族の分も必要だからな」
途中で少し悩んでから、青年は結局そう言った。
「君は既婚者か!?」
剣士は虫眼鏡から顔を上げ、驚きの表情だ。美人は驚いても美人だった。
「……あれ? 何か心が痛い?」
「あ、いや。すまない」
「いや、いいさ。母親と妹、あと生意気な弟が一人。……ずっと迷宮に潜ってた父親は、どっかに行っちまったからな」
どこかに行ってしまった。それは探求者の間では、死んだということを表す隠語だ。探求者の中には拠点を設けずに自由に迷宮を渡り歩き、どの迷宮に潜っているか分からない、会おうと思っても中々会えないという者もいる。彼らの様な命知らずだが優秀な探求者に習って、親しい者が迷宮で死んだ時、寂しさや悲しさを紛らわすためにわざとボカした言い回しを使うのだ。
剣士は痛みに表情を歪め、頭を下げた。
「本当に、すまない」
「良いさ、もう慣れた。それよりどんな泉石だ?」
何ともお人好しな風な探求者だ。青年は久し振りの変わり者に、愉快な気分で話題を変えた。
「あ、あぁ。身体に溜まった病毒を抜いて、傷の治りを早くなるそうだ」
「へぇ、かなり上等だな。売っても良いし、使っちまうのもありだ。多分、大熊屋のとこと同じ効果だな」
「大熊屋?」
剣士が首を傾げたので、青年は説明をした。
「おう。ホースブールの温泉宿番付の三番目。一番は一晩の間だけ魔法を弾ける様になる竜鱗亭、二番は迷宮での肉体成長率を高める白馬温泉。で、三番が大熊屋だ」
「あぁ、なるほど。宿の名か。何時もは白馬温泉を利用しているから気付かなかった」
「わーぉ、金持ちだー」
青年はそう言って、内心では納得した。あれだけの装備を揃えられるのだから、金持ちなのは当然なのかもしれない。本来は別の実入りの良い迷宮に拠点を置いているのだろう。
「いや、何かすまない」
「いいさ。番付に載るような宿は、どっちかって言うとよそ様向けだからな。値も高めに設定されてるんだ」
「そうなのか?」
「まぁ、効能の高い温泉を独占しているから、ってのもあるが。何度か来てるなら分かるだろう? あの手の宿は飯がお上品なのが多い。付加価値ってやつさ。まぁ、もし探求者好きする様な飯が食いたくなったら、内の一家がやってる宿に来いよ」
剣士は驚いた様子で訊いてきた。
「家族で宿をやっているなら、何故迷宮に?」
青年は見た目よりも遥かにたくさん物が入る道具袋を指差した。
「食材確保さ。安くて速くて美味い。その点ならどの宿にも負けねぇし、お上品なのが良いなら、店の汚ささえ気にしなけりゃ竜鱗亭を越えてるぜ」
「……この街に居る内に、是非寄らしてもらおう。宿の名は何と?」
青年は胸を張り、誇りを持って答えた。
「切り株の虚の食材袋。何でこんな名前にしたか知らねぇが、ホースブールで一番名前の長い宿さ」