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「気を付けろ! 大量の魔物が集まってきている!」
濁った紫のエフェクトが通過した後、リーンは叫んで警告した。
「クソッ、何だ今のは?」
ケイマは悪態を吐きながら、首元に空いている右手を伸ばした。そこに金属片があることを触れて確かめてから、ケイマは深層の魔物相手には頼りない両刃の剣を抜いた。
力を込めやすいように盾を捨てるという選択肢に、一瞬手が緩み掛ける、がすぐに思い直す。自身の装備で一番安定しているのは、間違いなく盾なのだ。ケイマは改めて右手には剣を、左腕には盾を備え、両手に強く力を込める。
ケイマの耳は、大量の何かが無秩序に鳴る音を拾っている。その不協和音たるや、リーンの警告が走るまでもなく、そして気配が分かるかどうかは関係なく、どんな愚鈍な者であっても、ヒリヒリとした危険を感じ取らずにはいられないだろう。ケイマは四方全てから響く殺気ある音に、少し身体を固くしながらも、向かい打つ準備を――覚悟を決める。
何よりもまず戦う準備を整えたケイマは、手早く身体に異常がないことを確認してから、背後のミーアを見た。見て、絶句した。
「……やられたわね。効果は魔物を寄せ集めること。――まぁ、言うだけ野暮かしら?」
今の状況からすれば。ミーアはそう言って、何事も無かったかのように、これまでケイマが見てきた中で最も複雑な陣を描きだした。あまりにも自然、揺るぎない平常。しかしその外見には、見逃すのが難しいほどの変化が起こっている。
「なっ。ガードしたはずだぜ!?」
カビ付いた鎖。それが、非金属的なソレに対するケイマのイメージだ。
ケイマはいきなり襲ってきた濁った紫のエフェクトに対して、ほぼ考えなしに盾を構えて飛び出していた。それが正しい答えだったのか、エフェクトは盾に受け止められた。そのままエフェクトはケイマの目の前で分解され、断ち切られたように分断したはずだった。なのに壊れたはずのエフェクトは不気味な色をそのままに、ケイマの後にいたミーアに装備の上から巻き付いていたのだ。
思い起こされるのは、リーンの防御のスキルをあざ笑うかのようにすり抜け、再び繋がった濁った弧。ケイマのガードも虚しく、エフェクトはケイマの背後で再び融合したということか。結果としてケイマは紫の鎖から逃れ、代わりに瞬発力のある防御手段を持たないミーアが、もろにエフェクトの効果を受けてしまったのだろう。ケイマは混乱しそうな頭で、そう考えた。
「一つの塊ではなく、粒の集合だったようね。感じは魔術にも似ているけれど、固有の性質を持ったエフェクト……。いえ、今は頭より身体を動かしましょう。――私としては他にも気になることがあるのだけれど、それも後回しね」
ミーアはチラリとケイマに視線を寄越し、そして陣を完成させた。色は橙。幾つかの意味が絡み合った、もはやケイマの知識量では完全な解析が不可能な、複雑に入り組んだ三次元の陣。しかしケイマは、その中に最近見た平面的な陣が含まれているのを発見した。
そもそも、陣を構成する色にも見覚えがある。しかも複雑に絡む陣の中央近くには、火の注がれた杯が描かれているのだ。円に囲まれてこそいないが、遠目では球体に見える線の集合に包まれる。球の底面にある火種の図が、ケイマにはとても危うく見える。
そこからケイマが可能な限り解析した陣の、更に部分的な意味は――“燃やせ”――。
「ちょっ!?」
ケイマが何かを言う前に、ミーアは魔術を完成させた。
長杖が地面を叩く音と共に、効果はすぐに現れる。ただでさえ赤い迷宮が、出現した炎によってより赤く――否、火の色に染まる。その炎は、地を這うと言うにはあまりにも大きく、空間を埋めると言うにはあまりにも速い。貪るように空気を喰らって勢力を伸ばす炎は、まるで不定の生物だ。
しかしそんなにも激しい炎は、決してケイマを、リーンを、もちろんそれを呼び出した当人であるミーアを焼こうとはしない。あるいは焼けないのか。中心となるミーアの長杖から、ケイマを通り越し、リーンのいる場所を少し過ぎた地点を走る線を半径として、正円が作られている。円は円柱の底面を形作り、炎は円柱に根を張るように密着し、枝葉を延ばすように通路でざわめいている。
「巻き込まれると思ったのかしら?」
「……今も十分生きた心地がしねぇな」
まるで鳥籠だ。ケイマはそう言って、炎の中から響く音に警戒する。これほどの炎に巻かれてまだ動ける存在は、ケイマの意識の中では迷宮に置いては一つしかない。
「やはり耐えたか。――だが、自ら集まってくれるというなら、むしろ好都合。ミーア、少し暴れるから壁を解いてくれ」
リーンはそう言って、ズンッと音を鳴らして盾の底辺を地面へ接させた。何かのスキルの前動作なのか、リーンは重々しい盾を全面に晒して剣を引き気味に持つ、独特な構えをとった。
「……まぁ、それが妥当かしら。熱くなりすぎないようにね? ――ケイマさんは巻き込まれないように、こっちにいらっしゃい」
「良いのかよ? ――あー、いや。了解、了解。……はぁ、ツイてねぇなぁ」
「錯乱していないなら、それで十分。剣を握る気力があるのだから、上等だ」
「そりゃどうも」
トラップも、呪いも魔物も、迷宮の底で何にぶつかるかは運次第だ。原因不明のエフェクトも、迷宮に起こる不条理と思えば我慢できる。できなくもない。ケイマはそんなことを考えながら、部屋の中央にある、未だ起動せずに沈黙を保つ二つのトラップに目を向けた。誰も触れていないトラップは当然健在で、踏めば面倒になること請け合いだ。
ケイマは分かるが故に目について、誰かが踏んでしまわないか気になるトラップを、解除しておくべきか、放っておいても大丈夫か、あるいは――、などと短く限られた時間に考えを思考の中へ流し続けた。ケイマはひとまずその結論に腹を括り、今できることを考える。
ケイマは初めて深層に潜った日に、ゲイルの道具屋で幾つか消耗品を購入していた。攻撃用、足止め用、誘導用など、種類だけでも様々ある。無数のそれらを使いこなすのは面倒だが、多彩なスキルを使えない身としては、効果は弱くともスキルを代替する力は重要だ。
ケイマは少しだけ、消耗品を使う必要があるか、と悩んだ。ケイマは使った方が良い、とは思っている。しかし万が一に、味方の邪魔になるかもしれないことはするべきでない、と思いとどまった。特にリーンは、何やら集中力を高めているのが見て取れる。念のために確認を取ろうと、ケイマは近くで新しい陣を描いているミーアに声をかける。
「……惑い香を焚くか?」
少しでも向かってくる魔物を減らせるかもしれない。ケイマはそう思って、魔物の嫌う香を焚くことを提案をした。
「あら、準備が良いのね。でも、深層で効果があるかしら?」
「少なくとも、中層ギリギリのとこじゃ効果覿面のやつさ。追い込みにも使えるやつだな」
「あなたの装備で魔物を追い込む意味があるのかは疑問だけれど――そう、それならないよりはましかしら? お願いできる?」
「分かった」
ケイマは迷宮の地面に剣を突き立て、開いた右手を道具袋に突っ込んだ。見た目よりも遥かに広い中身から、手に馴染んだ感触を頼りに望みのアイテムを引っ張り出す。
「……それ。その剣の扱いが、武器の短命化に影響しているのではないかしら」
「アイテムなら、これでも壊れねぇんだろうけどな」
「自覚はあるのね」
ミーアはため息を吐き、完成させた陣を待機させている。ケイマは焦げ付いた金属の器に惑い香を落とし、火種を付けた。人にも煙たがられる惑い香の匂いが広がり、後はミーアが魔術を発動させるだけとなる。しかしそれを、止める者がいる。
「……ミーア。すまないが、予定変更だ。右手側の通路から、戦うの音が聞こえる。酔狂なことに、こちらに向かってきているな」
リーンはスキルによって感知したのか、炎の壁の向こう側のことを伝えてきた。構えも解いてしまい、いつも通りに重そうな盾を平然と持ち上げている。
「それはまた、酔狂なと言うべきなのか、都合の良いと言うべきなのか……。どちらかしらね?」
ミーアは思考するように目を細め、完成した陣の一部を描き直した。地味に高度な技術を披露するミーアに、ケイマは首を傾げた。
「なぁ、何で魔法を消すのに別の魔法がいるんだ?」
発動したスキルを取り消すのに、特別な技術は必要はない。そのスキルを使いこなしているのであれば、消えろと思うだけで命令は実行される。それは魔法にも当てはまることである。ケイマには、ミーアがそんな基本的なことができないとは思えないのだ。
リーンは、少し暴れると言った。近接戦に特化した、そして自身が優れた防御の技術とスキルを備えたリーンは、攻防を備えていたとしても、障害になりかねない炎の壁は邪魔でしかないはずだ。リーンとの付き合いがケイマより明らかに長いミーアは、そのことを重々承知しているはずである。では何故、発動済みの炎の壁を解除せずに、新しい魔法を準備しているのか。あるいは、ケイマの知らない奥の手を持っており、それを使うには炎の壁の維持が有利に働くということか。
ケイマの疑問の答えは、ミーアによってすぐに示された。
「こうするからよ」
カツンッ、と長杖を打ち鳴らし、ミーアは陣を起動させた。色は新緑。全てが曲線で表現された、打ち付ける水しぶきの図だ。陣の起動によって呼び出されたのは、四つの水球だ。それぞれ前後左右、通路に対応した方向に水球は作られている。
しかし右側――リーンが人がいるといった側の水球は、生まれてすぐに萎んでいった。水であるが故に常に潤っているはずのその水球は、乾いた果実の様にしわくちゃになって、終いにはぽとりと落ちて軽い音を立てた。
その他の双葉に乗った朝露の様な水球は、張りのある果実が稔るように膨らみ、互いにぶつかり合って滑らかに弛む。豊かな稔りを思わせる水球の表面は、まるで鞠のような弾力性を想起される。
「おぉ」
生死を捉えたような水の在り方に、ケイマは一種の芸術性を感じた。ケイマは魔法に興味を惹かれ、感嘆の吐息を漏らした。
膨らんだ水球は、稔った果実のようにやがて弾ける。中身は前方に後方、そして左側の三方へと撒き散らされた。それぞれの水球から飛んだ水しぶきは、炎の壁めがけて散開しながら飛んでいった。
そこからの変化は、劇的だった。
「うおっ!?」
ケイマは魔法の衝突により発生した音に驚き、耳を塞いだ。惑い香を焚いた後に再び手に持っていた剣は投げ出され、クルリと半回転して地面に激突。ケイマはまたクラムに怒られるな、などと考えながらその光景を見ていた。
炎の壁に触れた水しぶきは、その指向性を保ったまま、勢いを遥かに増した熱風となって魔物を吹き飛ばしたのだ。ケイマが思わず耳を塞いだ音は、炎の壁が水を激しく気化させた時に発生したものである。もはやその音自体が一つの攻撃魔法ではないか? と疑ってかかりたくなるほどの大音量だった。
惑い香を伴った風が吹き抜けたことで、初めの炎の壁でダメージを蓄積し、続く熱風により焼かれながら吹き飛んだ魔物は、全身に付いた蚤を落とそうとする獣の様に、否、それよりも激しくもがいている。
「だいたい削ったわね。ケイマさんの惑い香もいい効き目ね。あなたが調合したのかしら?」
「は? んなことよりも……。――いや、ゲイルって奴いたろ? 初めて内の店で飯食った時に、一緒にいた奴。そいつの嫁が作った物だ」
もし水しぶきが炎を突き破る力を持っていなかったら、熱風が逆流していたら。遅れてくる恐怖が、最悪のイメージを作り上げる。なんて無茶な魔法の使い方を。ケイマはそう言いかけ、しかし話題を変えた。疑問をぶつけた後に、不思議そうに首を傾げるミーアの姿が想像できたからだ。そしてリーンも。彼女らにとって、この程度は当たり前なのだろう。だからこんなにもおかしな場面で、平然と感想を述べられるのだろう。
「そう、あの方の奥様が……。後で店の場所を教えてくれるかしら?」
買うつもりなのか、製法を訊くつもりなのか、ミーアはそう言った。
ミーアは随分と余裕がある様子だが、ケイマは緊張を高めている。ボロボロになってはいるが、魔物の一部がケイマたちのいる小部屋に入ってきたのだ。リーンは既に戦い始めており、一角だけは残った炎の壁は無視して、それ以外の場所から流れ込んでくる魔物を引き付けている。
「この状態をどうにかできたらな」
「それなら問題ないわね」
「“さすが”としか言いようがないな。けど、押されてんな。やっぱ数が、範囲が広いからか? じゃあ――」
ケイマは一度言葉を切ると悩みに悩み、何事かと視線を寄越すミーアに気付いて焦り、ようやく言葉を絞り出した。
「――通路一本分、引き受けてくる」
「あら? ……いえ、それを訊くのは野暮かしら。全力で援護させて貰うわ」
「頼むぜ。はぁ、心臓に悪い一日になりそうだ」
ケイマはそう言って、武器を構えた。スキル一つ宿りはしない、道具の数々。しかしその造りは、ケイマの動きに良く馴染む。ケイマをよく知る者が作ったのだから、当たり前かもしれないが。
ケイマが正面を見ると、事情を察したのか、チラリと視線を寄越したリーンが残った炎の壁の右側を大きく開けた。ここでケイマが前に出なければ、魔物が流れ込んでくることになる。魔物の進む先は、おそらく紫の鎖の巻き付いた者――ミーアだ。魔法使いは、総じて近接戦を苦手としているのだ。抑えなければ、収拾がつかなくなる。
通路を一本寄越したリーンの行動は、ケイマにはとても重かった。しかし同時に、ケイマは軽い興奮に見舞われたのも事実だ。
前例があったのだ。店で渡された錠を解き、そして言われた言葉があった。そしてその言葉は、真実だった。
実際に言葉を交わした訳ではないが、ケイマは深層で再び任されたのだ。湧き上がる感情を起爆剤に、ケイマは盾を構えて駆け出した。