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宿の裏側にある狭いスペースで素振りをしていたケイマは、建物を挟んだ反対側が随分と騒がしくなってきたことに気が付いた。辺りは自分の影が辛うじて判別できる程度暗くなっており、湯気により僅かに霞んだ空を見上げれば、昼の時間を惜しむように赤く染まっている。
ケイマは喧騒によってできた少し間に、自身が空腹であることに気が付いた。いつも以上に集中していたらしく、終わりの時間を見誤ったのだ。
ケイマはせっかく持ち帰った深層の食材を、全て客に食われては堪らないと、慌てて宿に飛び込んだ。自分の部屋に行き、自分の剣がないため代わりに使った父親の剣を元の場所に戻した。そこで習慣化している夕食の前の風呂をどうするか悩み、結局身体に張り付く衣類が気持ち悪かったので、風呂を優先することにした。ホースブールの連中は、綺麗好きが多いのだ。ケイマもその例に漏れない。
ケイマが深層から集めてきた食材は、既に母親に渡してある。無理を承知で今晩の夕食時にメニューに加えるように頼み込み、手間のかからない物ならば、と了承も得ている。
見習い鍛冶師のクラムに朱玉鎧貝を見せたことで、また普通に食事に来た連中によって、深層の食材が切り株の虚の食材袋で出されるという噂はすぐに立つ。それはどこかの誰かが広めた、ケイマが深層に入った、という噂が下地となり、爆発的に拡散すると予想できる。
「問題は、噂を流した奴がどう動くか……」
情報の独占の噂が立つ前に、ケイマが深層の食材を加工して適正価格で販売した、という事実を打ち立てることには成功した。できれば食材以外のドロップアイテムも、道具屋辺りにでも売りつけることが出来れば良かったのだが、そちらはリーンとミーアの判断次第だ。
もっとも、几帳面にドロップアイテムを拾っていたミーアは、それらを売りに出すつもりのようだった。市場に深層のドロップアイテムが流れる以上、作為的な噂が作られることはないだろう、とケイマは考えている。深層に挑んだのがケイマたちだけなのだから、回りに回って市場が独占の事実がないことを証明してくれる。
「まぁ、そん時に考えりゃ良いか」
元々ケイマは、興味のないことに長々と集中力を割くことはしない。あるいはできない。ケイマの執着は、他の場所にあるのだ。
ケイマは手早く身体を洗うと、洗い場の壁際に散在してぶら下がる組み紐を引いた。それを引けば、上から何の効果もない湯が降ってくる仕組みだ。
泉石で言えばハズレの湯だが、日常生活に利用する分、例えば料理や飲み水として、少し専門的なところでは薬の調合にまで、効果なしの湯は重宝される。効果のある湯を飲むには、有毒無毒以前に味が酷い場合もあるのだ。ケイマの母親に言わせれば、効果のある湯でなければ出せない味もあるそうだが。
身体を洗った後は湯船に浸かる。この時に、洗い布を湯船に入れないのがルールだ。破ったことがバレれば、恐ろしいお仕置きが待っている。
切り株の虚の食材袋の宿は、赤みを帯びた乳白色の湯を引いてきている。特殊な効果は、疲労の回復速度を少し上げること。ホースブールの幾つかの宿も、同じ効果の湯を利用しており、決して希少な湯と言う訳ではない。しかし例え凡庸であっても、毎日迷宮に潜っている身としては、疲れを素早く取ってくれるのは非常にありがたい。
効能のある湯に浸かった後は、湯の成分を洗い流さずに身体を拭くのがホースブール流である。よそから来た者にしてみれば、大衆浴場でそうするのは不潔だ、と感じるらしい。しかし無限に大量の湯が湧くホースブールの者は、折角の湯の効能を洗い流すのはバカのやることだ、と親に教えられて育つのだ。
ケイマは湯でサッパリとしたら、店の方へと向かっていった。従業員通路を使って店内に入ろうかとも考えたが、順番待ちしている客が居たら悪いと思いなおすと、入り口側に回ることにした。
そこで見た光景に、ケイマは絶句することになる。
「……何だ、これ?」
溢れているのだ、客が店から。それだけであれば特に珍しくもないのだが、普段はない椅子やテーブルが増設されている。急拵えのそれらには料理が乗せられ、ミリィとマークが忙しなく店の中から出入りし、注文を取っては料理を運んでいる。
「む。おーい、ケイマ。こっちだ」
ふと喧騒の中から、ケイマを呼ぶ声が響いた。その声の方を見たケイマは、同時に周囲からの視線の集中砲火を受けることになった。視線の重さに圧されながらも、ケイマは声を掛けてきたリーンのいるテーブルに近寄った。ミーアも席に着いており、鎧貝の肉と生野菜のマリネを上品に食べている。
ケイマはまるで強いられているかのようにゆっくりと席に着き、混乱の中あやふやな言葉を紡ぐ。
「え? 何これ? 何で店の外まで店になってんだ? あれ? 俺ゆっくり座ってて良いのか? ひょっとして手伝わなきゃ拙い?」
「混乱しているのは分かったから、ひとまず落ち着きなさい。それとかわいい妹さんからの伝言よ。――迷宮探索お疲れ様、お兄ちゃん。久し振りの味覚を楽しんでね。――だ、そうよ」
ビックリするほどミリィによく似た声に、ケイマはキョロキョロと周囲に目を走らせた。しかし当のミリィは離れた席で給仕をしており、声が届くとも思えない。
「ミーア、余計に混乱させてどうする。ケイマも席に座ったのだから、何か頼めばどうだ? 客は全員席に座れている様だし、ご家族もああ言っているのだから、問題はないだろう」
「……内の店はこんなに外に迫り出しちゃいなかったはずだけどな」
「たまに違うことをしてみるというのは、良い心の栄養になるわ。それにお祭りみたいで、私は好きよ? 湯気が濃くて星が楽しめないのは寂しいけれど、霞がかった月もとても幻想的だしね」
ミーアは微笑んでそう言い、フォークを休めて空を仰ぎ見た。食事中のためフードは外しており、露出した赤い髪の奥に白く細い首が見え隠れする。
ミーアは笑いもするし、不愉快であればそれを表情に出す。しかし普段の何もしていない時は、まるで外に意識が向けられていないのではないか、と思えるほど頑なな三白眼だ。そんな普段の静かな三白眼から表情の起伏の激しいミーアに、ケイマはまるで絡繰り仕掛けの人形の様な印象を抱いていた。しかし当人は、どうやら意外とロマンチストのようだ。
ホースブールの住人からすれば見慣れた夜の空だが、町の外から来た人々には新鮮なのかもしれない、とケイマは思った。ケイマが素振りを終えた時に見た赤い空は消え、代わりに真珠の様な冷たくも柔らかな光が広がっている。その光は深い藍色の空の上に、虹の輪を持つ月を中心に細かな砂の様に散らばっている。
なるほど、とケイマは思う。ケイマはホースブール以外の空を知らない。それでも見慣れた物だ、という意識を外しさえすれば、確かに綺麗な空であると微かに感じることができた。
そんな風に、随分と久し振りにじっくりと空を見るケイマに、声を掛ける者がいた。
「おっ、いたいた。さっき振りだな、ケイマ。ほい、剣もきっちり磨いといたからな。――あ、相席良いですか? この人も一緒ですが」
自身の鍛冶の師匠である小柄な老人を伴ったクラムだ。それに気付いたケイマは、老人に向かって立ち上がり、頭を下げた。
「お久し振りです、ベインさん」
他とは違うケイマの丁寧な言動に、付き合いの短いリーンは、二人に手で椅子を勧めながらも不思議そうな表情を浮かべた。同じく知り合って間もないミーアも、ベインと呼ばれた老人が着席するまで、ジッと立ったままだったケイマを興味深げに見ている。
ケイマに声を掛けられた老人は、無言で頷いてから空いた席に腰掛けた。笑顔の想像できない鋭い目つきと、経験を頑固な皺と共に刻んできた相貌は、静かな貫禄を放っている。ホースブールの住人の特徴としてあまり歳を感じさせない男だが、色素の抜けて硬くなった灰色の短い髪が、辿ってきた時の長さを物語っている。
そして彼こそがケイマの父親の鎧の作成者であり、現在ではホースブール最高位の鎧と装飾専門の鍛冶師である。
「悪ぃな、嬢ちゃん。俺みてぇなジジィが若ぇ者の間に入っちまってよ。飯食いに来たってのもあるが、こいつとの商談も目的の一つでな。しばらく邪魔させて貰うぜ」
席に着いたベインは、リーンとミーアに向き合い、親指で軽くケイマを指してそう言った。静かで落ち着いているが、聞く者に抵抗を許さない重い声をしている。
「ケイマの奴が防具作るって言ってたんで、それの商談です。師匠は鎧専門の鍛冶師なんで、頼んで付いて来て貰いました。あっ、自分はベイン師匠の弟子やってる、クラムって言います」
クラムはそう補足し、最後にどうもです、と言って軽く頭を下げた。リーンとミーアもそれぞれ自己紹介し、最後にベインが短く、ベインだ、と言った。
「師匠は平鎧貝の料理で良いんですよね? ケイマは? 了解了解。――ミリィちゃん! もしくはマー坊! 注文するから、こっち来て!」
クラムは手早くベインとケイマが食べたい物を確認すると、手を大きく振って給仕を呼んだ。手の空いていたらしいミリィが飛んできて、注文を取っていく。リーンは追加で料理を頼み、ケイマはついでに朱玉鎧貝の殻を持ってくるように頼んだ。
ミリィは注文内容を確認してから、素早く店の中へと駆けていった。これだけの繁盛の中、店の関係者として注文し辛いったケイマは、代わりにクラムが注文してくれたのは非常にありがたかった。立ち去り際のミリィの目が、ヘタレめ、と語ってきた気がしたが、ケイマは気のせいだと無理やり自分を納得させた。
「さて、と。店の方では詳しく話し合わなかったけど、話の流れからして、朱玉鎧貝で防具を作りたい、って言うので合っているかな?」
注文を終えたクラムは、ケイマに向き直ってそう聞いた。ベインは背もたれに体重を預け、聞きに徹する構えだ。
「あぁ。動きやすい鎧と、後は盾もあれば便利かと思ってる。まぁ、盾は材料が余ったらの話だろうがな。とりあえず鎧は、革と組み合わせたスタンダードなタイプが良い」
迷宮ではまず守りを固めて、生存率を高めることが重要だとケイマは考えている。だからと言って守りを重視しすぎた結果、動きを少しでも邪魔する重量になったり、構造的に引っかかりのあったりする装備は遠慮したい。
守りは堅牢だが範囲は最低限で、それ以外はちょっとした保険を掛ける程度。探求者の鎧にはよくある構成だが、ケイマは元々真っ正面から攻撃を受け止めるような豪快な戦い方をしてきた訳ではない。防御や攻撃のスキルの使えないケイマに、そんな戦い方はできなかった。だからこそ守りに徹するのではなく、攻撃に素早く移れる身軽さが必要なのだ。
「スタンダードって言うと、リーンちゃんが着けてるような? でもこれは使ってる素材が金属だから、軽くするためにそうしてるだけだろ。毛皮を使うってのは、随分と独創的な造りだけど」
「毛皮は対刃性が高けぇんだ、覚えとけ。まぁ、刺されるのと重いのは、下に分厚い筋肉がなきゃ防げねぇがな。――時に嬢ちゃん、その鈍色の毛皮は“霧食み”だな?」
ベインに急に声を掛けられ、深層の食材である火輪猪の肉を食べていたリーンは驚いた様子で動きを止めた。マークが責任をもって育てたハーブで臭みを消した、歯ごたえのある僅かな癖のある料理だ。
「……驚いた。事前に調べた資料には、ホースブールに“霧食み”は出なかったと思ったが。あるいは鎧貝のように取るに足らないと、あえて魔物として名前を残していないのかな? 何はともあれ、ご慧眼、恐れ入る」
「嫌みなら、もう少しそれっぽく言いな。“霧食み”をぬるいと思い込む馬鹿が出たらどうする。――あぁ、一つ訊く。剣士のテメェが、見栄でそいつを着てる訳じゃねぇよな?」
ベインの雰囲気が変わった。元から硬質な印象の老人だが、普段の大地の様な安定感が消えていた。代わりに浮かび上がるのは、切ることしか考えないで作られた両刃の様だ。
「あぁ。スキルに合わせて、知り合いに作らせた。――奥の手さ」
対するリーンは、左腕に携えた巨大な盾の持ち主に相応しい、堂々として揺るがぬ姿勢で答えた。
「なら良い。派手な盾なんざ持ってっから、要らねぇ心配しちまったぜ」
ベインはそう言うと、軽く乗り出していた身体を、再び背もたれに預けた。
ベインの派手な、という言葉に、ケイマは釣られてリーンの盾を見る。おそらくミーアが呼び出したであろう不自然に迫り出した岩に、リーンの盾は立て掛けられている。
大理石の様な質感のそれは、まるで彫刻の施された教会の壁の様だ。中央上部には太陽が浮き彫りにされ、周囲にはその光を一身に受ける雷を孕んだ雲海が広がる。盾の下半分にある雲海の切れ目には防壁に囲まれた街が覗き、幾人もの兵士が警備についている。
ケイマのイメージする派手と言うのとは少し違うが、身を守る防具と言うよりも、一種の芸術品に見えなくもない。ケイマはその盾に門の様な印象を受けたが、それ以上に気になったことを訊いてみることにした。
「ベインさん。“霧食み”って、魔物ですよね? どんな奴ですか?」
凄い違和感ね、とミーアが呟き、うっせぇ、とケイマは返した。
「クラム、テストだ。“霧食み”の素材の特徴を答えろ」
「へっ!? あ、えぇと。……魔法使いに向いた素材で、一時的にスキルを溜めることができるとか、だったような、ないような?」
「続けろ」
「あー、と。剣士のスキルみたいに出力のされ方とか……、とにかく形が固定されたスキルだと、素材の方にスキルを無駄に吸われて、不発……。あ、いえっ、し師匠! 落ち着いて! えぇっと、不発はしないけど、かなり威力が減退したような。いやっ、します! はい!」
「……飯の後で資料室に来い。徹夜だ。――まぁ、大体この馬鹿が言った通りの能力を持った魔物だ。スキルを霧みてぇに細かく分解して食らう。そんでその性質を体毛に纏う。パッシブは食われねぇが、素面でそれなりに強くなきゃ、こいつは倒せねぇ」
あぁ、と絶望し悲壮感を漂わせるクラムに、ケイマは同情の目を向けた。直感的な感性に支えられたらクラムの鍛冶の腕は、机に向かってコツコツと積み重ねるのには向いていないのだ。本人も陰ながら努力しているのだが、あまり成果は上がっていないようだ。
しかしケイマはそんなことよりも、クラムとベインのやりとりの中に、気になる言葉を聞いてしまった。
「“あれ”で減衰してるのか……。信じられねぇ」
「リーンもこんなだけど、天才と呼ばれる子よ。まぁ、内のギルドの職人の腕があってこそだけれど」
「気になる言い方だな……」
リーンは何やら不満そうだ。
その後しばらくの間は、ケイマとリーンとミーアの三人で雑談をした。ベインは進んで話をするタイプではないので、時折相槌を打ったり、ミーアの難解な質問に答えたりしていた。クラムはどこか上の空で、魂だけが抜けてしまったアイテムの様になっている。
商談は一向に進んでいない。ベインの代わりに商談をしていたクラムが、意気消沈してしまったので話を進められないのだ。もっともケイマは、朱玉鎧貝の殻も手元にないので、料理が運ばれて来るまで待てば良い、と考えていた。どの道、三日四日程度で完成するほど、防具とは簡単な造りをしていない。
結局商談は、クラムの目の前に湯気を上げる鎧貝のステーキが来るまで再開しなかった。