Side:サクラ-3-
本当は、今書いている脚本を最後まで仕上げるまでは、クマちゃんには会わないでおこうと思っていた。
でも久しぶりに実家へ帰ったことで――クマちゃんに聞いてほしいことが、あまりにも増えてしまったのだ。
彼はわたしがいつどんな時に訪ねていっても最上級の歓迎をもって迎えてくれるという、実に心優しく、サービス精神に溢れた男だった。
そこでわたしは途中のコンビニで自分の食べたいものを色々買い(あんなぽっちりの夕食では、流石にお腹がすきすぎだった)、特に携帯で連絡するでもなく、不意打ちで彼の部屋のインターホンを押していた。
「くーまちゃんっ!!あたしよ、あなたのバンビがやって来たわよ~♪」
まあ、誰かがわたしのこの声を聞いたとしたら、99.9%くらいの確率で、「何がバンビだ!」と突っこんでくるに違いない。
でもいいのだ。わたしたちは今をときめくいい年をしたバカップル。
クマちゃんが鍵を開けてくれると、あたしは二十階にあるクマちゃんの部屋まで、エレベーターで上がっていくことにした。もちろん、すでに彼から鍵をもらっているので、自分で開けて入っていくことも出来たけど……それはわたしの場合、彼がいない時だけ使うことにしているものだった。
「Oh,マイバンビーナ~♪」
パジャマを着たクマちゃんが、両手を広げてわたしのことを迎えてくれる。
クマちゃんは某インターネット企業でCEOをしている、四十二歳のクマに似たおっさんだった。
顔も三枚目だし、年収が億を超えているという以外、一見つきあうメリットがなさそうに見える相手でもある。
けれど、わたしはクマちゃんが大好きだった。
もっとも、彼の年収が億を超えていなかったら、結婚相手として考えたかどうかはわからないけれど。
「どうしたんだい?例の脚本を書き終わったのかい?もしそうなら、盛大にお祝いしないとな。それともヴーヴ・クリコの栓でも抜こうか?」
「ううん、残念ながらまだ脚本は書き終わってなーいのっ!!でもね、弟に呼びだされて、急遽実家へ行くことになったのよーう。そこで色々あったから、クマちゃんにすぐ報告しなくちゃと思ってやって来たのっ!!」
あたしが尻尾を振る猫のように甘えた声をだすと、クマちゃんはワインクーラーから早速とばかり、シャトー・マルゴーを一本取りだして、あたしに飲ませてくれた。
「これだから、バンビはクマちゃんが大好きなのよね~♪」
「そうだよ。クマはバンビがぶどうジュースで酔ってるところを見るのが好きなんだ。何故ってとても可愛いからね」
あたしは自分がコンビニで買ってきたお菓子の中から、チーズとチョコレートケーキを取りだした。
バンビはクマと仲良く、なんでも半分ずつにするのが好きなのだ。
「なあに?DVD見てたの?もしかしてえっちなやつ?」
「う~ん。どうかな……一応恋愛もので、そういうシーンはあるけどね。そんなに激しい感じじゃないよ」
あたしはソファの上で、クマに抱っこしてもらうような感じで座ると、ふとあることを思いだした。
「ねえ、クマちゃん。パソコン貸してくれる?当たり前だけど、仕事のファイルとか、大事なところは一切触らないから!」
「ああ、いいよ。それに見られて困るようなこともないからね。仕事関係についてはすべて、バックアップを取ってあるし」
「さっすがクマちゃん!」
と言いながら、あたしはクマちゃんの寝室に入っていって、そこからデスクトップ型ではない、ノートパソコンを一台借りることにした。
そしてそれを居間にいるクマちゃんのテーブルまで持っていき、電源を入れる。
「どうしたの?もしかしてここで仕事の続きをするつもりなのかい?」
「ううん、チャウチャウ」
と言ってから、あたしはひとりで大笑いした。
「ねえ、クマちゃん。実家の隣でチャウチャウを二匹飼ってるんだけど――名前がなんと、レノンとマッカートニーっていうのよ!瓜二つの茶色いチャウチャウの名前がレノンとマッカートニー。やっぱり死ぬとしたレノンのほうが先かしらね」
「ビートルズが大好きなお隣さんか。まあ、ビリーとジョエルとか、マイケルとジャクソンとか……ボンとジョビーなんていうのもいまひとつだけど、レノンとマッカートニーはなんとなくしっくりくるね。なんでかわからないけど」
「そうねえ。あとはミックとジャガーとか、スティーブンとタイラーとか?確かにどれもいまひとつよね。なんでかわからないけど」
くすくす笑いながらそう言いつつ、あたしは<電脳アイドル・綾坂千鶴>で検索をかけた。
そして彼女のブログを開き、それをクマちゃんに見せることにする。
『電脳アイドル、綾坂千鶴のブログへようこそ!!』
あたしの今の恋人、愛称クマちゃんは、水着姿の可愛い女の子を目にするなり、少しだけ首を傾げた。彼女が一体どうかしたのかい?とでも言うように。
「なんと、この可愛い彼女が、わたしの弟のお嫁さんだったのれしゅよ!!」
綾坂千鶴こと、ちづちゃんがブログ内で使っている赤ちゃん言葉を真似て、あたしはそう言ってみた。
「でね、そのチャウチャウ飼ってる家のババアが、うちの母さんにこうチクったらしいの。お宅のお嫁さん、ちょっと変わったことをやってて、近所でも評判になってますよ、みたいにね」
「なるほどね。ええっと、>>ちづはお肉を食べましぇーん!!お野菜大好きでーしゅ、か。なんとなく、聞く前からもう、何がどうなってるのかわかる気がするな。ようするに、バンビーナのマミーはこのお嫁さんと気が合わないってことだろ?」
「さっすが、クマちゃん!!大当たり!!」
どんどんどん、パフパフ♪と言うと、クマちゃんは若干呆れ気味に肩を竦めている。
「で、ほんとにあたしびっくりしちゃった。あたしが母さんと仲が悪いっていうのは前に話しておいたでしょ?べつに何も言わずに黙って結婚式挙げたってどうってことないんだって……でもこの母さんが、「お肉食べたい」って言って、あたしに泣きついてきたの!!もうほんと、びっくりんこよ!!」
「それで、バンビーナはどうするんだい?お母さんと仲直りして、一緒に肉をムシャムシャ食べにいくのかい?」
「もう~っ。クマちゃんのその言い方好きだわっ!!大好きっ!!」
そう言ってあたしは、クマちゃんに抱きつくようにして、彼の隣に座った。そしてチュッと彼のほっぺにキスをする。
「でね、わたしこのお嫁さんのことは、今日会っただけじゃどういう子なのかよくわからないんだけど――もしかして、ある意味いい子なのかなって思ったりもしたわけ。わたしにとって一番最悪なのは、芸能人のサインもらってきてって体をクネらせながら頼むような子だもの。でもこの子、そういうタイプじゃないのよ。<電脳アイドル>なんて名乗ってるから、芸能界に興味あるのかな、なんて思うけど……これはあくまで趣味の一貫としてやってる害のないことみたいだしね」
「どうかなあ。俺にはちょっと、この子が病的に思えるね。ある意味、バンビーナのマミーが怒る気持ちもわかるよ。ほら、キリ番のリクエストとして『ちづちゃんの、ミニスカ姿が見たいで~す!!』なんていうのもあるし。で、写真とってアップロードしてプレゼント、だろ?どこの家の誰かもわかんない奴が、それ見てニヤニヤしてるなんて、俺は気持ち悪くてたまらないね」
「そうねえ。わたしもそういうのは思ったけど……自己愛が強いのか、それとも家族の間に問題があって愛されなかったとか……たぶん何かあるんだと思うわよ。一般大衆に愛されたいとか可愛いって言われたい、思われたいとかっていう心理の裏にはね」
「それで、弟くんは奥さんがこういうことやってるって知ってるの?」
それまで何があったのか、さっぱりわからないフランス映画では、妻が夫のことを殴り殺していた。
どうも夫が結婚詐欺の常習犯で、他にも重婚している女性が複数いると判明したためらしい。
「うん。わかってるみたいよ?でも、奥さんにもしサイト閉じろなんて言ったら――離婚されるかもしれないってくらい、彼女が怒り狂うってわかってるから、黙ってるみたい。まあ実際写真で見てのとおり、すごく可愛い子だから、弟が尻に敷かれる気持ちもわかんなくはないかな~なんてね」
「それで君は、一体いつ俺のことを尻に敷いてくれる?」
お望みなら、いつでもという意思表示のために、わたしは再びクマちゃんに抱っこされる形になった。
キスをして、それから彼が力強いクマのような腕によって、あたしのことをベッドまで運んでくれる。
「一体いつバンビーナの脚本が書き上がるか、そのことばかり考えて過ごしてたよ」
彼がパジャマの上着を脱ぐと、そこからは毛むくじゃらの胸毛があらわれる。
そう――クマちゃんの本名は佐々木凛太郎といって、名前のどこかに熊の字が入ってるからクマちゃんと呼んでるわけじゃない。
あたしは初めて彼とこれから寝ようという時、凛ちゃんがどこか恥かしそうにシャツを脱ぐ姿を見て、思った。正直、「その毛皮は最後に脱がなくていいの?」と……。
凛ちゃんがクマのように毛深かったので、あたしはその翌日から彼のことをクマちゃんという愛称で呼んでいた。
彼はそれまであまりに優しく、顔が三枚目という以外、これといった欠点が何もなかったので――(これは絶対何かある)、(いつか決定的な打撃を受けることになるのでは?)と思いつつバンビは種族を超えてクマちゃんとつきあっていた。
でも、目に見える欠点が本当にそれだけだとわかると、バンビはほっと一安心。彼が今までつきあってきた男のうち、誰より毛深くても、バンビーナはそんなことをいちいち気にしなくなっていたといっていい。
ちなみに、クマちゃんがあたしのことをバンビと呼んでいるのにも一応、理由がある。
スカッシュクラブで出会った時、あたしはストレス解消のために壁に向かってかなり強烈なサーブを打ちこんでいた。すると彼が「アルプスの少女ハイジ」に出てくるペーターのように、口笛を鳴らしたのだ。
「Hey,バンビーナ!ナイスサーブ!」
(うぇっ、一体どこの寒い親父だろう)というのが、あたしのクマちゃんに対する第一印象だっただろうか。
そしてあたしは彼と試合をし、なんとなく食事をするような話の流れになって――今に至るというわけだった。もう二年も昔の話になるけれど。
まあ、ようするに彼はわたしのスラリと長い足を見て、「バンビみたいに可愛い子だ」と思ったというのが、わたしに対するクマちゃんの第一印象だったっていうこと。
「ねえ、DVDの続きは見なくていいの?」
バンビはクマの手首を縛ると、彼の上に跨りながら、クマの耳元へ囁いた。
「DVDはいつでも見れる……でも君は、忙しい時にはたまにしかうちへ来ない」
「そうね」
バンビに目隠しをされ、もはやなす術なく絶対絶命のクマ。
と思いきや、バンビはクマが一番して欲しいと思っていることをしてくれる。
これのせいでもう、クマはバンビがいないと生きていけないと思っているらしい。
そしてバンビがクマを好きな理由も――実はこのことが理由だった。
クマのあれが実に大きいというのも多少はある……でも本当にはそれは、精神面での問題が大きい。
女がこういうことをすると、大抵の男はこう思う。この女は好色で淫乱な好きものだから、自分から率先し望んで、こうしたプレイをするのが大好きなのだと。
でも、バンビがこれをするのは、正確にはクマのことをただ純粋に喜ばせたいからだ。
そしてクマはそこのところを他のよくいる阿呆男のように勘違いしたりしなかった――可愛いバンビは、自分を喜ばせることを色々してくれるが、それは彼女が好色で淫乱だからではなく、それは自分に対する純粋な愛情からしてくれることなのだと……。
そのようなわけで、バンビは賢いクマのことが大好きだった。