エピローグ
――レンと結婚してからというもの、あたしは彼と一緒に画廊の入った<第一吾味ビル>で暮らしている。
それにしても、この第一吾味ビルというビル名は一体どうしたもんだろうとあたしはいまだに思っている。
実際、人に手紙をだす時などに、わたしは人から<ゴミビル>などという場所に住んでいると思われたくないために……わざとビル名は書かず、番地まで書いたあとにただ<7F>とだけ記すことにしていた。
そう、吾味ビルの7Fはずっと空いていて、一時期英語塾をやりたいという人に貸していたこともあったらしいのだけれど、あまり受講生が集まらず借主が退出したあと――ある経緯からあたしとレンに「ただで」吾味さんが貸してくれることになったのだ。
一応、わたしが前まで住んでいたマンションはまだ支払いも残っているし、当然わたしが所有したままになっているのだけれど、何しろレンの奴の帰りが毎日遅いため、そのことが原因で喧嘩になりそうだと予感したあたしは、一計を案じることにしたのだ。
つまり、吾味さんに頼んで、お給料はいらないから、画廊で案内係兼事務員として働かせてもらえないだろうかと頼むことにしたのである。そうすれば、レンは事務的な仕事から解放され、彼の芸術的事業に専念できていいだろうと……。
吾味さんはふたつ返事でOKしてくれ、あたしはその翌日から画廊のカウンターに座る美人学芸員といった風情で、気どった顔でノートパソコンを叩いていた。
画廊の案内や事務仕事などがまったくない時は、あたしは脚本の執筆をしており、お昼ごはんやおやつを彼と一緒に食べ、マンションまで帰る時間も当然一緒だった。
レンはこんな四六時中一緒にいたら、そのうちサクラは俺に飽きるだろうし、俺もおまえに飽きるかもしれないから、こういう生活はやめたほうがいいと言って反対した……対するわたしの一言は、もっともらしくかつ説得力のあるものだったといえよう。
「だって、毎日あんなに帰りが遅かったら、心配になるじゃない?あんたが奥さんがいながらあたしと結婚したみたいに――また第三の女って奴が現れるかもしれないから、四六時中張りついて見張っていたいのよ」
対するレンの返答というのは、「勝手にしろ」というものだった。
「ただし、オーナーの吾味さんの許可が下りたらの話だからな」と。
そこで、吾味さんからオーケーの認証をもらうと、レンは絵のことを聞かれたらなんでも答えられるくらいじゃなきゃ駄目だと言って――わたしに美術図鑑のような本を手渡し、最低でも付箋の貼ってあるところは全部読めと言って寄こした。
あとの事務的なことやビルの管理・メンテナンスでわからないことがあれば、なんでも自分に聞けと言って、彼は自分のアトリエに閉じこもった。
この日、早速、四階の喫茶店で電球が切れたという訴えがあり、レンに「電球も換えられないのか」と呆れられたくなかったあたしは、ビルの真横にある物置までいって脚立を取りだすと、換えの電球をひとつ持って四階まで上がっていった。
「あら、いつものお兄ちゃんは?」
おかみさんのサツキさんは、あたしの顔を見るなりさもがっかりしたという顔をした。
ちなみに、連絡を受けたのは内線電話でのことだったので、彼女はたぶん電球を換えにくるのはレンだとばかり思いこんでいたのだろう。
「レンは……というか夫は、今アトリエで仕事をしています。紹介が遅くなりましたが、わたし、水嶋蓮の妻で、今度から一階や二階の画廊だけでなく、このビルの管理も担当することになりました。よろしくお願いします」
「ふう~ん。随分気どったカミさんだこと!」
そう言って、サツキさんはプイと顔を背けた。
「あたしはもっとざっくばらんな人間のほうが好きなんだよ。あのお兄ちゃんともすっかり打ち解けた仲って奴になったのに、こんな上品なカミさんが今度からこのビルの雑用係とはね!実際、あたしはどうも、女の管理人っていうのは好かないんだよ。水の流れが悪いとか言っても、あたふたして馬鹿みたいに時間をかけた揚げ句ようやく業者を呼ぶとか、そういうのはナシにしてもらいたいもんだね」
(クソっ!このババア!!家賃もろくに払ってないくせに!!)
あたしは内心そう思ったけれど、とりあえず一旦大人しく引き下がることにした。
つまり、簡単にいえばそれはこういうことだった。あたしは今レンと一緒にいて、幸せいっぱいな毎日を送っている。時々、こんなに幸せでいいのかしらと思うあまり、ペンチで自分の腕をつねりたいほどだ……だから、たまに意地の悪いババアに美貌を嫉妬されるようなことがあっても仕方がないのだ。
まあ、最初の挨拶の場面でこそ最悪な感じだったけれど、その後わたしはサツキさんと「打ち解けた関係」というのになった。それというのも、時々ここで仕事の打ち合わせをすることがあるので――新しい客を連れて来てくれたということで、サツキさんがわたしに対する態度をコロッと変えたためだ。
雑誌編集者の女性は、「こんなに美味しい店だったら、いわゆる汚ミシュラン的方向で、うちの雑誌でも紹介したいです!」と言い、数日後に本当に取材をしに来た。以来、ハワイアンには若干客が増えるようになり、「そのうち家賃を払っても元を取れるようになったら溜まった分を返済する」とサツキさんは言っているけれど……吾味さんもあたしもレンも、やり手婆の彼女の言葉を、まったく信用していないといっていい。
さて、そういったような話の流れから、四階のハワイアンは特に問題ない。
あたしにとって問題なのは、三階の美容院の女と、五階のエステサロンの女、そして六階のブティックに勤める女たちだっただろうか。
このビルには、月曜から土曜日まで、ある清掃会社から六十代くらいのおばさんがひとり、掃除をしにくるのだけれど――彼女はあたしが「これからよろしくお願いします」と挨拶するなり、紫色のゴム手袋を脱ぎ、あたしを画廊の外までくるよう手招きした……たぶん、レンには聞かれたくないことなのだろうと思い、あたしは画廊の前で掃除のおばさんである彼女と立ち話をした。
「そうしておいて、懸命ですよお~、奥さん」と、市川悦子に軽く似ている彼女は、妙に甲高い声のトーンで言った。「若い娘ってのはまあ、掃除のババアなんかいないも同然と思って、トイレで色んなことをくっちゃべるんですわ。で、わたし何度か聞いたことがあるんですけどね、お宅の旦那さん、最低でも三人くらいの娘っ子に狙われてますよ」
「……狙われている?」
まあ、なんのことをおっしゃっているかまるでわかりませんわ、という振りをしながら、あたしは市原悦子……もとい、清掃員の大原さんに聞き返した。
「奥さんの旦那さん、絵描きなんでしたっけ?わたしみたいなババアでも、ちょっとポッとなりそうないい男だものね。このビルの従業員はほとんど女の人ばかりだから、よっくよく目を光らして、注意しなきゃあ……あのイケメンの旦那さんがこの画廊を閉めてる時にでも、フラッとやって来て、抱きつくとも限らないからね。今の若い子はモラルがないってゆーか、なんてゆーか、相手が結婚してても関係ないっていいますからね。むしろ、奥さんみたいな美人な女房がいるってわかったら、闘争心が燃え上がるっていうじゃないですか!」
それから大原さんは、自分も旦那の浮気でどれほど苦労したかをとうとうと語ってから、ようやくあたしのことを解放してくれた。そしてあたしは――頭痛に近いようなめまいを覚えながら、画廊の中へ戻ったのだった。
その日、マンションへ戻るまで、あたしのテンションがあまりにも低かったためだろう、レンは不審に思い、とうとう夕食時に爆発するような感じであたしにこう問いただした。
「俺さ、そういう蛇がじわじわカエルの首しめるような気配、大ッキライなんだよ!言いたいことがあるならハッキリ言えばいいだろ!!」
食卓の上に並んでいるのは、帰りにスーパーで買ってきた惣菜が主だ。しかも、味噌汁を作ったのはレン……あたしは自分が浮気されても仕方ない女なのではないかと思え、なんだかとても惨めだった。
「ねえ、レン。ミチルさんと結婚してる間、そういう関係になったのって、本当にあたしだけなの?」
この質問を聞くと、思っていたとおり、レンはさらに不機嫌な顔になった。
「くっだらない。おまえ、やっぱり画廊の仕事なんてやめれば?四六時中一緒にいてそれでもまだ浮気を疑うんなら、ずっといる意味なんてないだろうからな」
「違うのよ。そういう意味じゃなくて……掃除のおばさんの大原さんが変なこと言うから」
あたしは、茄子の天麩羅に手を伸ばしながら、なるべく何気ない風を装って言った。
「なんかね、あのビルに入ってるブティックとか、エステサロンの女の人だかが、レンのことを狙ってるんですって。だからその……あたしの言いたいこと、わかるでしょ?」
「ああ、確かにな」と、レンはごはんをかきこむように食べて、言った。「たま~に彼女たちはギャラリーの絵を見にくるよ。でも俺が結婚してるってちゃんと知ってる。もっとも、ミチルと離婚したことは知らないだろうから――サクラが二番目の女房だってことは、知らないかもな。なんにしても、おまえがいつも画廊に張りついてれば、なんの問題もないだろ。俺は携帯嫌いだから普通の女が自分の旦那を疑うようには、おまえに対してなんの秘密もないと思うけどな。サクラはこれまでに何回も「携帯くらい持ったら?」って言ったけど――そこまで疑い深いんなら、やっぱり俺はあんなもの、持ってなくて正解だってことなんじゃねーの?」
「うん、そうね」
なんか急に元気が出てきて、あたしは心からいい笑顔で笑った。
そして思った。これからは、もう少し夫にマシなものを食べてもらえるように、休みの日に料理を練習しようと……もっとも、レンにそのことを言ったら、「無駄な努力」と皮肉られただけだったけど。
大原さんから例の「夫が狙われている」という話を聞いてから、一週間後くらいのこと、前に一度会ったことのある美容室のポニーテール女が家賃を払いにきた。
彼女はあたしと目が合うなりハッとしたようだった――たぶんいつもどおり、レンが領収証を切ってくれるとばかり思っていただろうから、ちょっとがっかりした様子だった。
そしてあたしは家賃の金額をどこか華麗な筆跡で書きこむと、収入印紙を貼って<吾味>の割印を押した。さらにそれを優雅な手つきで切りとり、ポニーテール女に手渡す。
「夫狙いで、二度とこの場所へ来ないでね」という意味の笑顔を、にっこりと浮かべながら……。
さらにその翌日、エステサロンのミニスカートをはいたエロい美女が画廊を訪れた。なんでも「自分は絵が好き」で、「水嶋さんにはいつも色々なことを教えてもらっている」とかなんとか。
あたしは、自分の左手薬指に輝く、結婚指輪をわざと見せつけるようにしながら彼女と画廊の中を歩きまわった。そして、あたしの仕種があまりに作為的だと流石に彼女も見抜いたのだろう、とうとう仕方ないといった調子で、こんなことを彼女は切りだしていた。
「この画廊で平日午後五時まで働いて、家に帰ったら旦那さんのお守りをする生活って、大変でしょうね」
――この時、あたしは心の中に稲妻が閃くような勝利の喜びを感じた!!!
なんと、この女はわたしの夫が水嶋蓮だとは知らないのだ。たぶん、彼が画業に専念するために案内係の秘書のような女を雇ったとでも思っているのだろう……。
(クックックッ。それならそれで、こちとら構やしないわよ)
あたしはエステサロンのエロ女が哀れになるあまり、わざわざ自分の身分を明かす気にすらならなかった。
そう……いつまでも、「もしかしたらいつかあるかもしれない瞬間」のことを胸に描いて、客の顔の角質除去とか、脂肪吸引とか永久脱毛の仕事をし続けているがいいと、あたしはそう思った。
しかもこの女、わたしが実際はあまり絵に関する知識がないと見抜き、自分の芸術を見抜く感性とか美術に関する審美眼のことなどを披露してから、ようやくギャラリーを立ち去っていた。たぶん、なるべく話を長引かせることで、レンが姿を現しはしないかと、ずっと待ち構えていたのかもしれない。
(あの女は確かに、大原さんが言ってたとおり<危険な女>だわ)と、あたしはそう直感した。
かつて、レンがあたしに「男っていうのはファンタジーに弱い」と言っていたことがあるけれど――この世にはドラマのようなシチュエーションを一瞬だけ演じるのが好きといったタイプの女が、確かに存在する。
あのエステサロンの女が絶対そうだとは言えないものの、わたしはあの女からそれに近い匂いを嗅ぎとっていた。
たとえば、レンが午後の五時にこの画廊を閉める直前にでもギャラリーへ滑りこみ、「あたし、水嶋さんのことが……っ!!」とか言いながら、彼の背中に抱きつくのだ。
あたしはエステサロンのエロ女がFカップくらいありそうなのを思いだし、心の中で「うぇっ!!」と舌をだした。そんなことになる前に、レンがあたしを選んでくれた幸運を神に感謝しつつ、小さなキッチンから塩をとりだすと、これでもかというくらい、外にまいておくことにする。
二度とレンにどんな女も近づくな!!という意味の願いをこめて……。
そして、結婚後一年ほどしてあたしが妊娠した時――レンは画廊の仕事は自分に任せて、家で安静にしてろとあたしに言った。でもあたしは上記のような事情があったため、ガロの壁に爪を立ててでも、ここから出ていくつもりはなかった。
あたしはてっきりレンが「じゃあ勝手にしろ」とでも言うかと思ったけれど、彼はどこか微妙な顔つきをして、黙りこくったままだった。そして「あんまり無理するな」と優しいことさえ言い、それどころか何かにつけてあたしのことを気遣い、労わってくれるのである。
「ねえ、レン。もしかしてあんた、あたしに隠れて浮気してるんじゃないでしょうね?」
もちろん、彼がそんなことはしていないとあたしは重々わかっている――でも、レンの優しさは不自然すぎた。何故といって、あたしが妊娠したと知って以来、彼は必ずといってもいいほど五時ぴったりに絵を描くのをやめ、さらには健康のバランスを考えた食事というのを作ってくれるのだ。
しかも、あたしが手伝おうとすると、「いいから、おまえは座ってろ」なんていう。
確かにあたしは嬉しかったし、幸せなあまり卒倒しそうなほどでもあったけど……ここまでくると、流石に<何か裏があるのでは?>と疑いたくもなろうというものだ。
「あーあ、またその話か」
レンはあたしが<浮気>の二文字を持ちだすと、決まってそう言って溜息を着く。
「まあ、疑いたければ死ぬまでそうやって被害妄想的に疑ってろ。でもまあ、確かに俺がおまえに優しくするのは……良心の呵責が関係しているとは言えるかもな」
「どういうこと?」
肉体上は浮気してないが、心の中で浮気をしたとか言われたら、あたしは黙っていられないだろう――そう思いつつ、あたしは詮索好きな猫のように、全身のアンテナをピンと張り巡らせた。
「えーと、まあ、このことを説明するのは難しいんだけどさ」
レンは肉汁したたるステーキを焼き、それを皿にのっけると、野菜をてんこもりにして、あたしの前に置いた。「今日は絶対お肉がいいにょ~!!」とスーパーでねだったのだ。彼はそのかわり「野菜もたくさん食えよ」と言い、川上家で毎食あがるサラダなみに野菜をたくさん切り刻んでいた。
「とってもジューシー、アイラブお肉♪」
そう言ってあたしは、いただきまーすも言わずに、早速軟らかいお肉をナイフで切り、フォークでそれを口元へ運んだ。毎日思うことだけど、レンは男のくせに本当に料理がうまい。
「それで、レンの良心が呵責してる理由ってなに?」
「まあ、つまりさ……おまえ、ヒルコの神って知ってる?」
「ヒルコの神?」と言って、あたしは首をかなり無理な位置まで傾けた。「なんだっけ?ジブリアニメの『もののけ姫』に、そんなのがいたよーな……」
「おまえが言いたいのって、もしかしてコダマじゃねーか?」
「あ、そうかも!!でもなんとなくヒルコってあたしの中じゃそんなイメージよ」
レンは大根のお味噌汁に口をつけると、ジューシーな軟らかお肉にナイフを入れて、味付けバッチリなそれをもぐもぐと食べている。
「そのヒルコっていうのは、古事記でイザナミとイザナギの間に最初に生まれた子なんだ。でも母親の手違いというか、まあそんなことがあって、不具の子として生まれてきてしまう。俺が最初にそれを知ったのが大体十歳くらいの頃かな。その後俺は何年にも渡って、そのヒルコの神ってのを心の中でいじめ続けた……手足がなくて、抵抗できないそいつのことを、何度も何度もナイフで刺して、ヒルコがぴぎゃーぴぎゃーと痛みに泣き叫ぶのを聞き、喜ぶわけだ。で、暫くしてまたやって来ると、ヒルコの怪我っていうのは全部癒えてるんだけど、俺は再びヒルコの奴をいじめるってことを半永久的に繰り返すわけ」
「うっわー!!意外にレンって陰湿なガキだったのね。小さい頃の写真見た時には、天使みたいって思ったけど」
「放っとけよ」とレンは言って、野菜にドレッシングをかけて食べている。「だから、その……俺自身もなんでそんなことしてたのかとか、今もよくわからないんだけど……なんかサクラが妊娠したって聞いてから、ずっと忘れてたヒルコのことを思いだしてさ。俺に対する罰として、サクラの身に何かあったらと思って……」
あたしは、あんまりおかしくて、またレンがあまりに可愛いあまり――思わずプッと吹きだした瞬間、ごはんの粒がレンの皿まで長距離で飛んだ。
「きったねーな。ま、笑いたきゃ笑えよ。なんにしても、俺がもしおまえに優しいとしたら、そういう理由からってことだ。先天的に何かの異常があったりしたらどうしようっていうか、その他色々、サクラが車に轢かれそうになって流産とか、すごく心配なわけ。わかったら、浮気がどーのなんて今後一切疑うなよ。いいか?」
「はあ~い。レン先生、わっかりました~!!」
あたしはそうおどけたように答えたけれど、実際レンがあのお母さんから受けた打撃というのは、そのくらい大きなものだったんだろうと思う。
正直いって、自分の家が中途半端に個人主義な家庭だったため、レンの家のように徹底した個人主義を貫いている環境のほうが、子供というのは突出した芸術家として育ちうるのだろうか……と、あたしは思わないでもない。
でも、その後レンの心配をよそに元気な男の子が生まれて以来、あたしの心境というのは親として少し複雑だった。つまり、レンのように芸術的才能を持っているとか、あるいは彼の祖父母のように作詞家・作曲家としての才能に恵まれていて欲しいと思う反面――人間というのは結局、金メッキ50%、純金50%くらいの感じで生きていけるのが、一番幸せなのではないだろうかと、そんな気もして。
ちなみにわたしは結婚・出産を経験した今も、脚本家として活動している。
何故といえば、夫の財産に頼るようになってしまえば、レンとの<対等な関係>というのが崩れてしまう気がして……実際、臨月になるまでずっと、あたしはとあるホラー映画の脚本を書いていた。
たぶんその内容を知ったら、レンはお腹の子によくないと思ったに違いない。
でもあたしはこの画廊で働くようになってから、ほんの少しだけ不思議な体験をしていた。
もちろんそれは、本当にどうということもないような、ちょっとした不思議ではあるのだけれど――レンがアトリエのドアを閉めて閉じこもりきりになってしまうと、まるで画廊にいるのはわたしひとりだけといった感じになる。
絵を描いている時のレンの集中力というのは相当すごいもので、彼はトイレなどへいく際にわたしの顔を見ても、まるで透明人間のように誰もいない振りをしている……あたしはそのことがなんとなく寂しくて、また彼がアトリエにいる間、あまりにその室内がしーんとしているように思えて、ドアのところに耳をつけると、中の物音を聞こうとしたことが何度もある。
すると、何人かの人間が囁き声でしゃべっているというか、何かそんな声のしたことが数回あった。そして、あたしはそのたびに「レン!!」と叫んでドアを開けるのだけれど、そこでは彼ひとりだけがキャンバスに向かっており、やはり他に誰もいはしないのだ。
それから、こんなこともあった。
画廊の中にはいつも、クラシック音楽が流れているのだけれど、二階からそれとはまた別の旋律が聞こえてきたような気がして――間違いないと確信の思いをもってレンの絵の飾られたギャラリーを覗くのだけれど、パチンと電気をつけた途端にピアノの演奏が途切れるのだ。
あたしはこうしたこと、またレンの奴が何を思ったのか、あたしに突然キスした日のことなどを思いだして、ホラー映画の着想を得たというわけだった。ちなみにこのホラー映画、日本の映画としてはなかなかヒットして、その後2と3が作られることになった(わたしはそのうち、どちらの脚本にも関わっていないけれど)。
そしてわたしは本当に何気なく、オーナーの吾味さんにこう聞いてみることにしたのだ。
「この画廊には何かいるんじゃないか」と。「最初、わたしはそれを自殺した前オーナーの吾味さんの叔父さんじゃないかと思ったけれど、その前からたぶん何かそうした幽霊的存在がいて――そのせいで吾味さんの叔父さんは亡くなったのではないか」と……。
「う~ん、どうだろうねえ」
画廊の様子を極たまに見にくる吾味さんは、カウンターのところで腕組みをして言った。
「叔父は、その存在をミューズと呼んでましたよ。作品のひとつひとつにそうした芸術の精のようなものが住んでいるのだとね。しかも、自分にはそれが見えるとも僕に言っていたな……だから僕は――その、こんなことを言ったら笑われそうだけど、叔父が今は「そちらの世界」へ行ってるような気がするんだな。なんとなく」
「えっと、そっちの世界って?」
この頃あたしは妊娠六ヶ月で、その時お腹の中の子が蹴ったのを感じた。
「つまり、キリスト教の教えでは、人間は死んだら天国か地獄へ行くってことになってるわけですよね。でも一般に自殺した人間は天国へ行くのを阻まれるっていうでしょう?実際にはそんなこと、聖書のどこにも書いてなくても――伝統的な教理としては、そういうことになっているらしい。そして、その理論でいくとしたら、叔父の魂は今どこにいて何をしているのかってことになる。僕は、ミズシマさんのことを見ていて思うんだけど……彼は絵を描いている間、完全に「精神だけあっちへ行ってる」人みたいに思えるんですよ。で、叔父は死んだあと、そういう芸術家にインスピレーションを与える第三の世界みたいなところへいったんじゃないかって――生前叔父が語っていたことも合わせて、時々思うことがあるんですよ。もちろん、馬鹿みたいな気慰めかもしれないけどね」
お腹の中の子がまた蹴ってきたので、あたしがお腹を押さえていると、吾味さんが全然別のことに話題を変えた。
「そういえば、そろそろ六ヶ月くらいだっけ?もうこっちのギャラリーの仕事は一時休業したほうがいいんじゃないかな」
でもあたしが吾味さんのこの親切な申し出に対して、「エステサロンのエロ女」とか、その他ブティックにいる従業員もレンのことを意味ありげに見ているというと、彼はあたしが被害妄想を深める気の毒な妊婦に思えたのだろう、突然こんなことを言いだした。
「じゃあ、今日からこのビルの七階に住むといいよ。家賃のほうはハワイアンと同じく、ただで構わないから。それに、こう見えて僕も一応気を使って――他のフロアの人たちの耳に、ミズシマさんが結婚してることとか、奥さんは美人だなんていうことは、何かの折に触れてまわったんだけどね。まあ、そうなると「一夜限りでもいいから抱かれたい」って女性に思わせるような何かが、ミズシマさんにはあるってことになるのかなあ」
その昔、あたしは一夜限りの関係というのは、恋愛のうちに入らないと豪語していたことがある。
でもやっぱり、レンだけは別だ。
エステサロンのエロ女とか、ブティックのロリコン顔の若い小娘だのが、気の利いた小洒落たバーなんかにたとえば一緒にいて……「ただ飲んでいただけで、何もしていないだろ?」とレンが言っているところを想像しただけでも、腹が立って仕方がない。
これは、わたしの嫉妬心が異常なのか、それともレンの持つ存在感自体が異常というか、何か特殊なものだということなんだろうか?あたしにはよくわからない。
なんにしても、こういった経緯により、あたしたちは吾味ビルの7Fに住むことになった。そしてだんだんにマンションに帰る時間が減っていくと、いっそのこと自分たちで費用をだして住みやすいよう改装して住むことにしようということになったのだ。
もちろん、その段になると、流石に「家賃は払います」ということをあたしとレンは吾味さんに申し出た。
すると彼は「そうだなあ。もしいつか、ハワイアンのババアが毎月テナント料を払うようになったら、ミズシマさんたちにも家賃を払ってもらおうかな」と笑っていたっけ。
そして最後にこう付け加えた。
「たぶんそんな日、二度と来ないだろうと僕は思ってるけどね」
そういったわけで、あたしとレンと息子の三人は今、吾味ビルの7Fに住んでいる。
もちろん、子供がもう少し大きくなったら、やはりマンションのほうが暮らしやすいということになるとは思う……そして実際子供が生まれてみると、あたしはまるで憑き物が落ちたように、レンの浮気のことはまるで考えなくなった。
毎日赤ん坊の世話を見るのが大変で、そんなことを考える余裕すらないから、というのも理由のひとつかもしれない。
でもそれ以上に――あたしにはその理由がよくわからないのだけれど、レンにとってあたしは彼の子供を生んだ「特別な女」であり、あたし以外の女はその他大勢といった感じであるらしいことに、あたしは出産後に気づいていた。
正直いって、出産したことで間違いなくあたしは体のラインが崩れたし(そのために吾味ビル五階にあるエステに行かなければならなかった)、なんていうか、赤ん坊の世話を焼いているあたしというのは、間違いなく所帯じみていると自分でもそう強く自覚している。
たぶん、男はそういう妻の姿を見て、他の若い女に目移りするのだろう……とすら思うのだけれど、どうもレンの奴は違うらしい。
うまく言えないけれど、「その感じ」がどうしてなのかがあたしには不思議で、レンにそのことを聞いてみたことがある。
すると彼は、マーラーの交響曲をあたしに聴けと言った。
正直、「はあ?」といった感じ。そしてレンの奴は息子の葵をあやしながら、歌詞カードをわたしに手渡してこう言ったのだ。
「それを読んでもわからなければ、いつまでも永遠にわからないままでいればいい」と。
でもやっぱりあたしにはよくわからなくて、その後もしつこくそのことを彼に聞き続けた。
「そうだな。もし俺が今後、『ロマンス通り113番地』を見るようなことがあったら――その理由を教えてやるよ」
というのがレンの答え。
「それってなんか、ずるーい!!」とあたしは言ったけれど、なんにしてもレンの奴は結構いい父親になりそうだと思う。
正直、レンがアトリエに籠もっている時というのは、あたしには決して突き破れない冷たい壁のようなものを、彼に対してよく感じることがあった。そしてレンがこれまでつきあってきた女性たちはみな、肉体関係を持ってもその冷たい壁を破れるほどには親密になれないというある段階を経験しているのではないかとあたしは思っている。
たぶん、あたしのようにレンに対してなんでも言葉で説明しろと迫れるような女というのは、今までにいなかったのではないだろうか(唯一ナツミとかいう女は別として)。
でも、子供が出来てから、また実際に生まれてからのレンというのは、いい意味でその壁がなくなったような気がしていた。
それがどうしてなのかというのは、眠くなるマーラーの交響曲なんて何度聴いてもあたしにはわからなかったけれど……ただひとつわかっているのは、それがどうも「いいことらしい」と感じるという、それだけだろうか。
なんにしても、今あたしは――というか、あたしとレンと息子の葵は、「ゴミビル」とかいう場所で親子三人、とても仲良く暮らしている……そして、あたしはいつも思う。自分にとっての人生の転換点はどこにあったかともし誰かに訊かれたとしたら、迷うことなく「ベルビュー荘で暮らすことになってから」と答えるだろうと。
来年の春もまた、ベルビュー荘では花見大会があるので、あたしはそこにレンと息子の葵を一緒に連れて参加するつもりだ。そしてサクラの花を背景にした写真が、息子の成長とともに一枚一枚年ごとに増えていくだろう……昔は、そうやって年をとって「普通の人」のようになっていくのが、なんとなく怖かったけれど、今は「普通に幸せな生活」が一番大切なものだと思える自分がいる。
「ねえ、レン。この七階の部屋から見える景色って、めっちゃベルビューだと思わない?」
「めっちゃベルビューね」と、レンが子供を抱っこしたままで笑っていう。「そうだな。なんだかいつの間にか、この<ゴミビル>がベルビュー荘みたいな場所に思えてきたっていうのは、確かにサクラの言うとおりかもな」
それからあたしは、七階のベランダで葵のことを間に挟んだまま、レンとキスをした。
この大切なかけがえのない一瞬よ、いつまでもという願いをこめて……。
終わり