Side:サクラ-13-
――あたしとレンは、その後無事結婚式を挙げた。
その日に至るまでは実際、実に色々なことがあったような気もするのだけれど……ベルビュー荘であったこと同様、今ではそんなこともわたしにとって、みんな大切な思い出だ。
まず、レンとミチルさんの離婚が正式なものになってから、あたしはレンのことを実家の家族に紹介しにいった。レンが自分のおふくろは実に強烈なキャラクターなので、水嶋家を訪問するのはあとまわしにしたほうがいいと言い張ったためだ。
そしてここで、あたしにとって少しばかりショックだったことがある。
母さんが、「クマちゃんのほうが良かった……」と、ボソリとレンの前でリアルなつぶやきを洩らしたことではなく――初対面のはずのレンと千鶴さんの間に、言葉はなくても何か心通じるものが流れていることに、あたしは軽いショックを受けたのだ。
しかも千鶴さんは千鶴さんで、あたしがコンクリートブロックを十枚破ったら一言二言しゃべる感じだったにも関わらず、レンに対しては割合素直にぺらぺらものを喋るのだ。
(このアマッ……!!)と思い、わたしはキレそうになったが、そんなことがあった彼女とも、今ではすっかり和解し、仲良くすることが出来ている。
とはいえ、彼女がちょっと(かなり?)変わった人だということに、変わりはなかったけれど。
千鶴さんはわたしが自分のブログを見て、心の中で「馬鹿じゃないの?」とせせら笑っているに違いないと思ったから――それでいつまでも溶けない永久凍土の氷みたいな態度をとっていたらしい。
でもレンはたぶん、自分のブログのことなんて知らないだろうから(千鶴さんはわたしが彼女のブログを彼に見せるとは思いもしなかった)、それで普通にお話したというのである。
なんにしても、レンと弟アキラも気が合うようで、これで川上家のほうはなんの心配もないとあたしは思ったけれど……問題は、水嶋家のほうだったかもしれない。
レンがその昔、「今時髪の毛を七三に分けた、折り目正しい銀行員をやってる」とか言っていたお兄さんは、確かに七三ではあったけれど、それは普通でいうダサい感じの七三分けではなかった。大体のところ前髪が自然と七三に分かれているというだけで、彼はレンのお兄さんだけあって、なかなか感じのいい三枚目キャラだった。
そしてお父さんは古美術が趣味とかで、退屈な盆栽や花瓶のコレクションの話なんかを、立ったまま寝れるくらい長々と続けていた……まあ、このお父さんは実害がないという意味で、いい人だとは思う。
でも、レンのお母さんは彼の言っていたとおり、かなり跳んでる人だった。
「あらあ~。あなた~が、サックラちゃん!?」
ええ、わたしがサックラでございます……とでも言って返せば良かったのだろうか。
でも隣でレンが「相手にすんな」という怖い顔をしてたから、あたしは礼儀正しく会釈するに留めておいた。
「あなたの運命はまあ、一言でいえば毒婦って感じね。自分でも思い当たる節があるでしょ?」
「母さん、そんなことを言うのはやめなよ。彼女に失礼だろ」
柔和な笑顔で、お兄さんが助け舟をだしてくれたけれど、お父さんのほうはといえば、耳が聞こえないのかなんのか、「銀食器が曇っている」だのと言いだし、それをお手伝いのおばさんらしき人によく磨くよう注意している。
レンの実家というのは、大きな西洋の城にも似たような瀟洒な洋館で、部屋が全部で七十七室あるらしい。そして食堂のほうも、たまにドラマで見かける中世風な感じだった。
つまり、家長が細長ーーーいテーブルの一番上座に座り、その右隣がお母さん、左隣がお兄さん、そしてお兄さんの隣がレン、そしてお母さんの隣があたしといった具合だ。
この座席はお母さんが決めたものらしく、レンは何かあってもあたしを隣で助けられないと思ったのだろう、食事の間中、ずっとしかめっ面をしたままだった。
「あたし、ドラマ見ましたよ。サクラさんが脚本を手がけたものはぜーんぶ。それで、なんていうのかしらねえ。ネットであなたのプロフィールなんかを検索していて思うに――レンとあなたは相性があんまりよくないみたいなの。あなたが太陽なら、レンは月。あなたが昼間輝いている間は、月のレンは輝けないし、レンが夜輝いている間は、あなたは沈んでいるといったような星回りね。だから、結婚するのはどうかと思うわ。だって最悪のカップルなんですもの」
ねえ、あなた?というように、彼女は夫に同意を求めていたが、彼は今度は「子牛の肉が少し硬い気がする」とか言いだし――それを給仕係のような女性に下げさせている。
ちなみに、この子牛のクリーム煮とかいうのは、超馬鹿うまだった。
「ようするに、おふくろはさ」と、レンが不機嫌な声で言った。「俺がどんな子を連れてきても、気に入らないんだろ。ミチルと別れた時も「ほれ見たことか」って威張り散らすし、だったら俺にどうして欲しいんだよ?」
「そうね。水瓶座は魚座とか蟹座、そういう水に縁のある女性と結婚するといいと思うのよ。レンはO型だから、A型の人でもB型の人でも、性格は合うと思うの。でもAB型の人は、ちょっとねえ」
「お義母さんは、何座で血液型はなんですか?」
あたしは思わず、そう聞いてやった。
もちろんあたしは、占星術なんて全然詳しくはない――でも、一応参考までに聞いておこうと思ったのだ。彼女がもしかしたら、自分の息子と実は最悪の相性だったりしたら、面白いと思ったから。
「あたしは、蟹座のB型ですよ。強い母性愛のある星です。そしてお父さんはレンと同じ水瓶座なの。それから、タケルは魚座だし……お父さんとタケルとレンは、三人ともO型なのよ。あたし、昔から何故かO型の人とはとっても気が合うの」
「そうですか?レンに聞く限り、三人ともお義母さんの占星術にうんざりしてるっていうことでしたけど」
流石にこのあたしのセリフは、聞いていない振りを出来なかったのだろう――食事に夢中になっている振りをしていたお父さんは、スープ皿にスプーンを落としていた。けれど、それをどうかしろとは、お手伝いさんに命じなかった。
「大体、占星術のことなんて信じていたら、なんにも出来ないと思いませんか?明日は南東の方角に凶と出ているから、その方角にあるスーパーマーケットにはいかないとか、馬鹿げていると思います。瞑想とかヨガとか、確かに精神や体にいいかもしれません。でもある部分は結局自己満足なんじゃないでしょうか?それよりは、外に出てミチルさんみたいにボランティア活動をするとか――そういうことのほうがもっと有意義なことのような気がします」
隣で、お母さんの血の気が引いているのがわかったけれど、もう後の祭りだった。
でもあたしにはわかった……水嶋家の男三人が、心の中で密かな勝利にわいているのが。
「よくもあたしにそんな口……ッ。許しませんよ、レンっ!!こんな子と結婚するのだけは、他でもないこのわたしが断じて許しませんっ!!」
「しょうがないよ、母さん」と、お兄さんのタケルさんがまた助け舟をだしてくれた。「そんな口って言ったって、母さんだってサクラさんに毒婦だって言ったんだ。これでおあいこだよ」
「実の息子まで味方してくれないなんて、この家はまったくどうなってるのっ!!」
そう言ってプリプリ怒ったまま、お母さんは広い食堂から出ていった。
ナプキンで口元を拭い、それをメイドのような服を着た女性に押しつけながら……。
「やれやれ、しょうがない。わたしが言って、ちょっとなだめてくるか」
そう言って、お父さんはあたしに対して「ごゆっくり」という意味の笑顔を浮かべたあと、食堂から出ていった。
そしてその場には、あたしとお兄さんのタケルさんとレンの三人が残されたわけだけど――ずっとそばにお手伝いさんが控えていて食事をするというのは、なんだかあたしにはとても落ち着かない感じのすることだった。
「ねえ、あたしちょっと言いすぎちゃったかしら?」
「おまえ、毒婦っていわれたの、忘れたのか?いくら本当のことでも、言っていいことと悪いことがあるだろ」
レンが運ばれてきた温野菜に手をつけながら、いつもの調子でそう言った。
「本当のことっていうのは余計よ!!あ~あ、でもこれでもう完璧に嫌われちゃった。お母さん、蠍座の隣で弓を構えるケンタウロスみたいに、これからもずっとわたしを矢で刺してやろうと思って、弓を引き続けるに違いないわ」
「そのたとえは面白いね」と、タケルさんが言った。「でも、俺は母さんみたいに占星術にかぶれてるってわけじゃないけど――精神医学には結構興味があるんだ。何しろうちがこんな一般家庭とは違う、特殊な環境にあるだろ?だから俺は俺なりに<どうしたらあの母さんに勝てるか>っていうことを考えて、まずは彼女の一番嫌いな職業に就いて、着々と出世していくことにしたんだ。それと、結婚相手のほうは、仮にどんなに素晴らしい女性を連れてきても、「そんな非の打ちどころのない素晴らしい女性であればこそ」母さんは気に入らないだろうってわかってたから、それなりの人とお見合い結婚することにしたっていうね。今日、妻の涼子はここに来てないけど、それというのも彼女と母さんは相性が悪くて、蛇蝎の如く嫌いあってるからなんだ……でもきっと、涼子はサクラさんとは気があうんじゃないかな。だから、今度ふたりだけであらためて、うちへ遊びに来るといいよ」
いかにも小さな頃から手慣れているといった感じでフォークとナイフを操りながら――レンのお兄さんはそう言った。レンほど容姿のほうに女性を惹きつける何かがあるっていうわけではないけれど、まるでバレーボール選手のように背が高く(百九十二センチある)、どこか洗練された物腰で人を惹きつける話し方をする人だなとあたしは思った。
食事のあと、レンは説教のためかどうか、メイドさんを通してお母さんの部屋へ呼びつけられたので、あたしは屋敷の中を案内してもらいがてら、タケルさんと色々な話をした。
そして風林火山の掛け軸のかかった畳敷きの茶室までやってくると、そこに用意された和菓子を勧めながら、彼はこう言ったのだった。
「うちの親父さんっていうのはさ、今日サクラさんが見てのとおりっていう感じの人なわけ。母さんはホロスコープで詳しく調べて、「この男こそ自分の運命の相手」と思って父さんにアタックし、それで彼を婿養子にしたんだ。母さんの若い頃の写真を見ると、びっくりするくらい美人でね……まあ、そんな女性がある日気違いじみた剣幕でやってきたら、激しい恋に落ちるのが男の本能っていうものだろうなって、俺もそう思うよ」
「えっ!?じゃあ、お父さんって水嶋家の養子なんですか?」
驚いた拍子に、おまんじゅうのうぐいす餡が、ぼとりと畳の上へ落ちた。
でも彼が「気にすることないよ」という目で見てくれたので、あたしは慌ててあんこを皿の上へ戻した。
「ああ。だから、母さんに頭が上がらなくても仕方ないわけ。実際父さんっていうのは、その昔学生運動のリーダーをやってたって人で、ようするにその種の思想にかぶれてた貧乏学生だったんだ。でも浅間山荘事件があって以降、だんだんそういうことから身を引くようになったらしい。で、アメリカに渡って向こうのヒッピーたちに混じり、彼らのコミューンで暮らしていた時に、母さんと知りあったってわけ。俺とレンの祖父母っていうのが、実はアメリカで結構名の知れた夫婦デュオで、レイ=ミズシマ、アラン=ミズシマっていうんだ。もちろん日本人で、日本名は水嶋礼、水嶋亜蘭っていうんだけど……聞いたことないかな?」
「えっと、ごめんなさい。あんまり向こうの音楽って詳しくなくて……」
あたしはみたらし団子を馬鹿みたいにずっとぶら下げたまま、お兄さんのことを見返していた。
レンのあの、まったく日本人らしくない物の考え方とか立ち居振る舞いとか、そうしたものは全部、水嶋家の特殊なDNAから来ているのではないかと、そんな気がして。
「まあ、カントリーミュージシャンとしていくら知られてても、ピンと来ないのが普通だよね。涼子にこのことを初めて話した時、彼女もサクラさんと同じようなことを言ってたよ」
タケルさんはここで、少し笑ってからお茶を飲んだ。
「なんにしてもまあ、この母さんの両親っていうのが、わりと名の知れたミュージシャンに自分たちの作詞作曲した歌を結構提供してるんだよ。作詞するのがおばあちゃん、作曲担当がおじいちゃんって感じでね。ふたりともレンが生まれる前に亡くなってるんだけど、そこから生じる印税っていうのが莫大なものでね……この家もまあ、おじいちゃんおばあちゃんの遺産によって誕生した、印税御殿といったところだな。でも母さんは、そういう方面にまるで才能がなかったみたいなんだ。アメリカ式に「おまえだって出来ることが何かひとつくらいあるさ!」みたいに育てられたらしいけど、残念ながら母さんは容姿が美しい以外、これといって何も取り得のない女性だった。わかるかな?そういう子が、少しずつヒッピー文化に触れておかしくなっていくみたいな過程って……」
「わかるような気がします」
あたしもまた、タケルさんと同じくあたたかいウーロン茶を飲みながら頷いた。
「でね、これは父さんから聞いた話なんだけど――母さんの両親は作詞家・作曲家としては才能のある素晴らしい人たちだったけど、子供に対しては愛着が薄いように見えたっていうんだ。つまり、作詞家・作曲家として、公私ともにめちゃくちゃ夫婦仲がいいっていう、極めて珍しい人たちだったんだけど、その<ふたりだけの世界>に一人娘を入れるっていうことをしなかったらしい。必要なだけの教育と金は与えたから、あとは自分の才覚だけで生きていけっていう、そんな感じっていうか……だから、母さんは両親に愛されなかったと感じて成長した人だから、子供の愛し方がわかってないんじゃないかって俺は思う。まあ、俺はね、それでも比較的まともに成長できてラッキーだったけど、レンの奴は生まれた時から母さんの期待とプレッシャーっていうのが半端じゃなかった。何分、俺たちって八つも年が離れてるだろ?レンが八つの時、俺はもう十六だった。母さんは俺のほうに芸術面における才能がまるでないとわかると、俺のほうにはほとんど目もくれず、レンひとりだけに集中して愛情を注いでるって感じで……レンの奴が何かすごく苦しんでるなっていうのは、俺の目から見てもよくわかったけど――俺はレンを助けるようなことはあえて何もしなかった。母親の愛情を独占してるレンのことが内心では羨ましかったし、何より、そうした母さんの嫉妬心をあおる策略にのるものかと思ったんだ。つまり、俺とレンの母さんっていうのは、何よりその点で間違ってたんだろうな」
ふと庭のほうに目をやると、そこに二羽のアゲハチョウが戯れるように飛んでいくところだった。
たぶん、オスとメスの蝶なのだろう、メスはオスから逃れようとし、オスはそんなメスのことを追っていくといった様子だった。
タケルさんはそれを見て、何かとても美しいものを見たように目を細めたあとで話を続けた。
「つまりね、母さんは俺やレンが母さんよりも父さんに懐こうとするのを邪魔するし、俺やレンが母さんよりも仲の良い兄弟の絆を持とうとするのも邪魔するんだ。しかも、そのやり方が実に巧妙でね……俺がそうした精神的カラクリみたいなものに気づいたのは、もう成人して二十歳を過ぎた頃だった。レンはその頃十三とか十四だったと思うけど――俺は自分の母親に<異常>の烙印を押すと、楽しく自由な大学生活を送ることで、そうした母さんの呪縛からは完全に逃げられたんだ。でも可哀想なのは残されたレンの奴だよな。実際、俺たち兄弟が本当に腹を割って色々なことを話しあうようになったのって、お互いかなりいい年になってからなんだよ。この家にいると、いつも邪魔な間仕切りみたいに母さんが間に入ってくるからおかしなことになるんだけど……そういう意味で俺たちが正常な兄弟仲を取り戻したのは、ここ十年くらいの間ってとこ」
「その、失礼かもしれませんけど……そういう時、お父さんってどうされてるんですか?」
あたしは素朴な疑問を口にしてみた。
出されたお団子やおまんじゅうを中途半端に食い散らしたような状態になっているけれど――あたしはタケルさんの話すことに、すっかり神経というか心のほうを奪われていた。
「どうもしないよ」と、最中に手を伸ばして食べながら、タケルさんは溜息を着くように言った。
「つまり、何もしないんだ。父さんはどうも、学生運動のほうがすっかり駄目になって以来、かつてあった革命家の魂っていうのを忘れてしまったらしい。「何をやってもどうせ無駄」といった感じの自堕落な人間になり、ヒッピーのコミューンでマリファナをふかしながらその日暮らしをするって感じだった時に――母さんと出会って、今の働かなくてもなんの不自由もない生活を手に入れたんだ。今も朝は早起きして、庭の畑を耕したり、自分の好きな盆栽とか古美術の世界に入りこんで午後の時間いっぱいを過ごしたり……なんだろうな。俺も学校とかで父さんの職業を書く時は本当に困ったことがあるよ。母さんは<骨董品鑑定家>だって言い張るけど、俺の目にはとてもそうは見えないし、むしろ反面教師として「ああなっちゃおしまいだな」と俺は親父に対して思い、真面目に働くことを考えるようになったってわけだ」
水嶋家の実情が、どこの家庭には当てはまらないような特殊なものだったので――あたしはそれ以上、何をどう言っていいのかわからなかった。
確かに、お父さんの毅さんを見ていて、自分の趣味のこと以外について「本当に何もしない人だな」という印象は強く受けた。あとはただ、お母さんの異常な占星術の世界について黙認し、子育てについても何も口出しせず、彼女の自由にさせておけば、彼は働くでもなく、自分の好きなことだけをしていられるのだ。
逆にいえば、もしこのお父さんが家庭に革命の嵐を吹かせることの出来るような人だったらよかったのだろう。
つまり、お母さんが何をどう言おうと、彼女の子供への関わり方を「異常なものである」と断定し、お父さんにもし<普通に>働いてふたりの息子を育てるくらいの気概があれば――レンも苦しむことなく、比較的他の子供と同じように成長できたのかもしれない。
でも、わたしがレンの絵を見ていて思うに、またこの彼が育ったという家を一通り見せてもらって思うに……そのうちのどの要素が欠けても、レンの絵は今のように芸術的に完成されたものではなかったのではないか、という気もするのだ。
だから、わかったようなことは何も言えないと思い、わたしが押し黙ったままでいると、タケルさんは外に通じる襖をしめ、振り返ってこう言った。
「夕方にもなると、流石にだんだん涼しくなってきたね。これはレンや母さんには秘密だけど――俺、サクラさんが水嶋家の一員になってくれて本当に嬉しいよ。もちろん、ミチルさんもとても素敵な素晴らしい女性ではあった。でも会った瞬間に思ったよ……うちの涼子と同じく、彼女もまた平凡すぎるあまり、母さんの圧倒的なオーラというか、パワーみたいなものには勝てる人じゃないなって。でもサクラさんには会った瞬間、すぐこう思ったんだ。この人がこの先もレンと手を繋いでいたら、母さんはもうこのふたりには絶対勝てないだろうなって」
あたしがなんて言っていいかわからなくて、微かに微笑むような顔の表情をしていると、外見が洋館である屋敷には似つかわしくない和室に、メイドのひとりがやってきて告げた。
「そろそろ帰る旨、サクラさまにお伝えするよう、レンお坊ちゃまから言付けがございました」
「ああ、ありがとう」
タケルさんがメイドにそう答えて、立ち上がる。
「まあ、これから色々大変だと思うけど……つまり、これはあの母さんを最初から敵にまわした以上は大変だと思うけどっていう意味なんだけどね。俺と涼子はサクラさんを応援するから、何かあったらすぐ相談しにくるといいよ」
あたしはタケルさんと握手をして別れ、屋敷の玄関口にある広いホールで、仏頂面のレンと再会した。
これからもう一度茶室までひとりで行けと言われても、迷子になってしまいそうな特殊な建物の構造なので、あたしはレンの顔を見た時、まさに迷路で迷ったあげく、最後に最愛の男と再び出会ったといったような気持ちになっていた。
「兄貴は?」
「なんか、メイドさんのひとりに用があるみたいで、どっか行っちゃった。でもレンによろしくって言ってたわよ」
何故かここでレンは、呆れたように重い溜息を着いている。
「どうせ、また和歌子さんだろ。まったく、しょうがないな……」
あたしはレンの奴が手を差しだしたので、ジャッキーバッグの中から車のキィを取りだした。
レンの奴は「俺はまだ死ぬ気はない」と言って、絶対にあたしに車の運転をさせてくれないのだ。
お手伝いさんのひとりがドアを開けてくれて、玉砂利の敷かれた駐車場までの道をレンと一緒に歩いていた時――やっぱりあたしは、好奇心を抑えきれずに彼にこう聞いていた。
「レン、もしかして……あのメイドさんって、つまりその……」
「兄貴の愛人なのかって?」
運転席に乗りこみ、イグニションにキィを差しこみながら、レンがズバリそう答えた。
「綺麗な人だなあとは思ったけど、その……はっきり言って年が上すぎて、ちょっとびっくりっていうか……」
レンは「こんな家の敷居、二度と跨ぐか!」というような勢いで、玉砂利を弾き飛ばしながら車を発進させた。ここから、あたしのマンションまで戻るには約一時間くらいかかる。
でもその間、レンの運転の仕方というのは優良ドライバーとはとても言えないものだったような気がする。
「あの人、たぶんもう二十数年もうちで働いてるんじゃないかな。兄貴とは、兄貴が十四くらいの頃からそういう関係を持ってるらしくて……正直いって、かなり気持ち悪いよな」
そう言ってレンは、サングラス越しにもわかるくらい、思いきり眉をしかめて見せた。
「レン……なんだかとっても聞きにくいんだけど……」
レンの不機嫌オーラが、初めて出会ってからこんなにマックスだったことは、かつて一度もない。
たぶんお母さんの部屋に呼びつけられ、侃々諤々のやりとりがあったのだろうっていうことは、容易に想像がつくにしても――あたしが今気になってるのは実は他のことだった。
「俺も、兄貴みたいにメイドのひとりとやったことがあるのかって聞きたいんだろ?それはないよ。というより、俺のトラウマは少し別で……物心着いた時に、ひとり凄く懐いてるメイドのおばさんがいてさ。でもおふくろは、俺が彼女を母親の自分より愛してるっていう理由ですぐクビにした。それ以来、俺はお手伝いさんのことは、色々面倒を見てくれる人格のない人形みたいなもんだと思うようになったけど――おふくろにはそれで良かったんだろ。それが上流の人間の作法だとか、そんなふうに思ってるみたいだったからな」
「でもあたし、レンがこんなにお坊ちゃまだなんて全然思ってなくて、すごくびっくりしたわ」
メイドのひとりが最初に「レン坊ちゃま」と言った時、レンはあたしの前で、穴があったら入りたいといったように赤面していたっけ。
「それに、徹底した個人主義の家で育てられたんだなっていうことも、お屋敷の中を見ててわかったし……」
「歪んだ個人主義の間違いだろ」と、レンは訂正した。「サクラも兄貴から色々聞いたかもしれないけど――うちはまあ、ああいう家だから、これから結婚するとなると色々大変なんだ。親戚に水嶋建設の社長とか、デザイナーのシン・ミズシマとか、水嶋総合病院の理事長がいたりするからな。まあ、ミチルの時は良かった。彼女はアフガン帰りの聖女のように控え目な女性で、自分の結婚式を挙げる金があったら、それを寄付する女だっていうことが出来たからな。でもサクラがおふくろを敵に回した以上、これからどうなるか俺には何も保証できないぞ。俺たちが帰った五秒後にでもおふくろはたぶん、親戚中に触れまわってるかもしれん。自分の息子がとんでもないアバズレと再婚しようとしてるって泣きの演技で吹聴してるかもな」
「ちょっとーーーっ!!あんた、なんでそれを先にあたしに言わないのよっ!!」
レンの不機嫌オーラがあまりに強いため、あたしはそれまで控え目な感じでしゃべってたけど、突然いつもの調子に戻って怒鳴った。
ちょうど、高速の入口を通過するところでのことだ。
「俺は今日、今度は結婚式を挙げるけど、親戚中に変な噂をウィルスみたいにバラまくのはやめてくれっておふくろに頼むつもりだった。でも、サクラがこんなに速攻、おふくろと敵対関係になるとは思わなかったからな……せいぜいが冷たい腹の探りあいっていうところで終わるかと思ったけど、こうなっちゃもう終わりだ。式を挙げるのは諦めろ」
「冗っ談じゃないわよっ!!!」
高速にのるなり、軽く百キロ超えでスピードを上げるレンに対し、あたしは助手席からじっと彼のことを睨みつけてやった。
「大体ねえ、あんたが最初からちゃんとそこらへんのことを説明してくれていたら――あたしも、毒婦なんて言われてもグッと堪えて黙ってたわよっ!!第一、親戚にそんな豪華な金持ち連中がいるだなんて、あんたあたしに一言も言わなかったじゃない!!」
「ああ、確かにな。でも俺は最初にサクラに言ったと思うぜ。おふくろとは喧嘩するなって」
――それは確かにそのとおりだった。
それで、あたしは酸欠になった鳩みたいにグッと押し黙り、不機嫌な顔で助手席のシートに身を沈めた。でも、恐ろしい速さで変わっていく車窓の風景を眺めながら、ふとあるひとつのことに気づいてもいたのだ。
レンとの結婚は、クマちゃんと挙げる予定だったセレブ婚とは違うと思っていたけれど……もしかして、レンとの結婚のほうが実は、本当に本物のセレブ婚と呼ばれるものなのではないか、ということに。