Side:クマちゃん-4-
「それで、話っていうのはなんだい?」
店内には、ビートルズのLET IT BEが流れている……クマちゃんは(これは明らかによくない兆候だ)と感じたけれど、そんなものはただの偶然の一致だと思おうとした。
「そういえば、その前に体の具合を聞くのが先だったね。この三日ほどのあのニュースの報道はどうも――どこまでが本当で、どこまでが真実でないのか、俺にはよくわからなくて。連絡をとろうにも、君とは携帯も繋がらないし。でも、ひとつだけわかってることがあるよ。テレビで言ってる脚本家川上サクラの恋人がどうも、俺以外の誰からしいっていうことはね」
クマちゃんのその言い方は、ビジネスライクな、とても中立な立場に立ったものの言い方だった。
サクラは、恋人としてではない、実業家としてのクマちゃんのもうひとつの顔を知っている。最近、とあるインターネット関連企業の子会社が、クマちゃんの会社に吸収合併されることになり――その様子がテレビのニュースで流れていたけれど、そうした場でインタビューを受ける時、クマちゃんは今とまったく似た種類の顔の表情をしていた。
「そう、よね。その相手って、わたしが浮気してしまった人なの。相手が誰かっていうのは、聞かないでね。ただ、わたしが凛太郎さんと結婚するのに相応しくない相手であることは確か。だから、今日は別れ話をするために、あなたを呼んだの」
そう言ってあたしは、ビロードのケースに入ったカルティエの婚約指輪を、クマちゃんの手元にゆっくり押し出した。
その時、コーヒーが運ばれてきて、伝票をウェイトレスが置いていく。
あたしはそれを、手の震えをなんとか堪えて取ることにした。
「話は、それだけ。最低な女だと思ってくれてかまわない。でも、ほんの四日前までは――こんなことになるだなんて、思ってもみなかったの」
バンビーナが震える声音でそう言うと、その声の中にある種の真実さを感じて、クマちゃんはバンビの手から伝票を奪い返すことにした。
「これまで散々、君には色々なものを貢いできたから、今さらこのくらいのはした金を払ってもらったところで、嬉しくもなんともないよ。それより、どうせ別れるのなら……嘘をつかずに、全部本当のことを話してほしい。君の部屋に偶然やってきた男っていうのは、あの画廊で会った水嶋蓮くんなんだろう?違うのか?」
「……………」
バンビーナが即座に否定しなかったことから、クマちゃんにはそれだけですぐ、彼女の浮気相手が誰なのかがわかった。
四日前――そう、もしその時ミズシマ青年が来なかったら、バンビーナは落ち目の俳優に首を絞められ、窒息死するところだったという。そして彼がそれを助け、泣きじゃくる彼女を支え、励まし、ふたりはベッドで愛しあった……そんなところかとクマちゃんは今のバンビの様子から察しをつける。
「相手が誰かなんて、もうこの際どうでもいいでしょ?それより……」
「いや、よくない」と、クマちゃんは厳しく追及した。「俺は最終的に結婚できない女性のために、二年もの時間を無駄にしたんだ。俺は君との関係がこれで最後の恋愛になるだろうっていうくらい、君にのめりこんでいた。それなのに、たった四日前に他の男と寝たくらいのことで――今さら関係を御破算にするだなんて、随分勝手な言い草だと、君自身もわかっているだろう。いいから、最初から最後まで説明するんだ。その居心地の悪さに耐えきったら、あの才能あふれる画家と結婚でもなんでもするといい」
クマちゃんには、相手の名前をバンビーナが言明しないのが何故なのか、よくわかっていた。
自分には、あのちっぽけな画廊の入ったビルを潰すくらい、わけないくらいの財力がある……だから、バンビーナはそのことを心配しているのだろうと彼は思った。
(やれやれ。君にとって俺は、そんなに器の小さい男として映っているのか?)
そう思うとクマちゃんは、溜息を着きたくなってきた。
「その、ね……レンとあたしは本当に――信じてもらえないかもしれないけど、クマちゃんと一緒に彼の画廊へいった時には、なんでもないただの友達だったの。でも、わたしがレンのことをずっと前から、出会った時から狙ってたっていうのは確か。だけど、彼がアフガンの孤児院で一緒にボランティアやってた女性と結婚してからは、本当にただの友達で……それまでに何かの間違いで一度寝たとかっていうことすらないの。でも、あの日――数馬がうちにやってきて、偶然レンがそこへ駆けつけて、危うく殺されそうになったあたしのことを、救ってくれたの。あたし、本当にもう死ぬかもしれないと思ったから……レンに言ったの。本当はずっと好きだった、みたいなこと。そしたら、その、そういうことになってしまって……」
「水嶋くんの奥さんはなんて言ってるんだい?」
クマちゃんは、コーヒーではなく、水で喉を湿らせてから、そう聞いた。
画家が本妻と愛人に二股をかけてその両方を苦しめたなんていう話は、歴史上、聞き飽きているほどたくさんある話だとクマちゃんは思っていた。
「まだ、離婚調停中っていったところみたい。でも、彼がはっきり別れるって言ってくれただけでも、あたしは満足してるの。これでレンがもし、なんだかんだ言って「やっぱり言いだせなかった」とか言ったら……あたしは今日、クマちゃんのことを呼びだしてない。あたしはあなたが思ってる以上に計算高くてずる賢い女よ。でも、レンが離婚調停してでも別れるって言ってくれたから……あたしは今日、あなたに電話することを決意したの」
「そうか。その話についてはまあ、信じることにしよう」
クマちゃんはコーヒーを飲み、話すべきかどうかと迷ったあとで――やはり言いだすことにした。
バンビーナと過ごせる週末が、自分にとって二度とない以上、あとから後悔したくないと、彼はそう思ったのだ。
「正直いって、普通に考えたら出来すぎた話だとは思う。今君の言ったことを別れ話として説明されて、どれだけの男が納得するか、あやしいものだという気もするよ。でも、君が死にかかっていた時に、俺はその場にいなかった。そしてミズシマくんがそれを助けたというのは、とても大きいことだと思う。何より、俺は危うく婚約者を失った不幸な花婿とかいうのになるところだったけど……死体安置所で君に会うよりは、生きている君に別れ話を切りだされた今のほうが、遥かにずっといい。そのことを思うと――俺は、サクラ、君にはもう何も言えない気がするよ」
バンビーナの長い睫毛の間から、みるみる涙がもり上がってくるのを、クマちゃんはじっと見つめていた。
目蓋にきっちりとアイライナーの入った、マスカラで彩られたバンビーナの茶色い瞳。
自分はこの瞳を見るたびに、何度彼女のことを愛していると思ったことだろう。
「処分に困るだろうから、この指輪は一応受けとっておくよ。本当は、質屋にでもいれてくれて、全然構わなかったけど……この二年、本当に楽しかった。むしろ、君のようないい女とつきあえて、俺はラッキーだったと思うべきなんだろうな。本当は今日、別れを予感しながらも、まだ何か打つ手立てがあるかもしれないと俺は思ってた。でも君の顔を見たら――もう無理なんだっていうことがよくわかったよ。それなら、見苦しく嫌味なことをあれこれ言うより……俺はメルヘンの世界の、優しいクマちゃんのままでいようと思ったんだ。ミズシマくんにも言っておいてくれ。五百万っていう金を返す必要はないってね。バンビーナは金のかかる女だから、それは君がとっておいてくれって、そう伝えてほしい」
クマちゃんは、バンビーナが顔を覆って静かに泣いているのを見て――そのままそっと、席を外すことにした。今はまだ、決定的打撃といったような形では、胸のほうは痛まない。
でも、バンビーナのいない世界を現実としてじわじわ実感するうちに、クマちゃんは苦い思いを噛みしめるだろうとわかっていた……もう少し見苦しいところを見せてでも、バンビーナを引き留める努力をすべきだっただろうかと後悔している自分の姿が今からすでに目に浮かぶ。
いや、これでよかったのだ、とクマちゃんは無理に自分を納得させながら、運転手の待つメルセデスへと乗りこんだ。
「お早いお帰りでしたね」
もう十年ばかりも自分のお抱え運転手をしている比嘉が、クマちゃんのことを振り返ってそう言った。
比嘉はその昔バスの運転手をしていたけれど、不況のあおりで首を切られ、ホームレスをしていた時にクマちゃんに拾われた。彼は家族も子供もいない孤独な人間で、クマちゃんは仕事の悩みやプライヴェートなことなどすべて、彼には気兼ねなくなんでも話すことが出来ていたといっていい。
「振られたよ。他に男が出来たと、そう言われてね」
「さようでございましたか。あの方は最初にこの車にお乗りになられた時から、悪女だと思っておりましたよ、わたしは」
これは比嘉得意の、彼一流の物の言い方で、本当は彼は、クマちゃんがどのくらいバンビーナに入れあげていたか、よく知っている……社まで戻るまでの間、クマちゃんはとりとめもなく色々なことを自分より十歳年上の男に相談することにしていた。
「比嘉、おまえの年で家族も子供もいないっていうのは、どんなものだろうね?正直いって俺はおそろしいよ……金だけは唸るほどあるのに、もしかしたら自分は孤独な老後ってやつを迎えるのかなと思うとね」
「大丈夫でございますよ、凛太郎さまは」
比嘉はバックミラーごしにニコッと笑って言った。
「わたしを含め、人望がおありでございますからね。なあに、凛太郎さまが七十の時、わたしはまだ八十です。わたしの出身地の沖縄は、日本で一番平均寿命の高いところですからね……足腰が丈夫なうちは、わたしが面倒をみさせていただきますよ。それに、もっと良い方とのご縁がきっとあるはずです。この間、どっかの国の破廉恥な大富豪が、七十五歳で二十五歳の女性と結婚したとお聞きしました。五十歳も年が離れているそうですが、ふたりはこれから子作りに励まれるのだそうです……それを聞いたら、凛太郎さまなどはまだまだといったところですな」
比嘉のこの物言いにすっかり気をよくしたクマちゃんは、少しだけ元気がでてきた。
そして、ビルの二十七階にある社長室へ戻ると、ふと思いついて、エルメスのバッグを秘書にプレゼントしようと思った。
黄金の麦の穂の夜景も、絵を取り外して、どこか別の階に飾るよう、指示しておく……その絵は今のクマちゃんとって、バンビーナとバンビーノを連想させる、見ていて胸が苦しくなる絵に変わってしまった。とはいえ、その絵の芸術的価値にクマちゃんはとやこう文句をつけようとは思わない。
それから、秘書が電話があった人物のリストを告げたり、来週のスケジュールのことを確認するのを聞きながら――クマちゃんはふと思った。クマちゃんくらいの大企業の社長は、大抵美人の秘書を持っていて、テレビドラマなどではよく愛人関係になったりしていることが多い。
けれどもクマちゃんは、秘書とどうしたらそうなれるのか、これまで模索しようと思ったことは一度もなかった。というより、彼氏がいるかどうかと聞いただけでも、それはセクハラに当たると思われるのではないかと思い――これまでクマちゃんと秘書の間にはいつも、どこかピリピリとしたような、張りつめた緊張感があった。
つまり、これまでクマちゃんは秘書を何度も変えているけれど(彼女たちはみな適齢期を過ぎる前に、必ず寿退社した)、彼女たちと比嘉のように何故ざっくばらんに打ちとけられないのか、その理由が突然わかったような気がしたのだ。
「たった少し前に、彼女に振られてね」と、突然クマちゃんは彼の元で二年ほど働いている秘書の日向ひとみに向かって言った。
クマちゃんが自分の秘書に求めるのは、ただひとつプロフェッショナルとしての仕事だったが、たまには自分から弱さを見せたほうがいいのだろうと、クマちゃんはふとそう思いたったのだ。
「まあ……」
と日向秘書は、(いつもは仕事の話しかなさらないのに)という顔をして驚いている。
慰める言葉もないと思ったのか、それ以上彼女は何も言わなかったけれど、クマちゃんは気にせず続けた。
「そのうち、まあ半年とか一年先のことかもしれないけど、もしその彼女から結婚式の招待状が送られてきたら――一緒に出席してくれないかな。時間外で給料はだすからさ」
「でも、何故そんな人の結婚式にお出になる必要があるんですか?べつに欠席なさればよろしいのでは?」
「なんていうか、バンビがクマじゃなく、自分と同じバンビを選んだっていうような、メルヘンチックな話なんだよ。だから、彼らが結婚してめでたしめでたしっていうところで物語はしめ括られなければならない……クマは彼女を横どりされて悲しかったけど、そこはそれ、何しろメルヘンな世界のお話なもんだから――クマは花飾りを作ってバンビにおめでとうと言いにいくんだね。涙がでそうなほど、微笑ましい話だろ?」
「じゃあ、あのエルメスのバッグは手付け金としていただいておきますね。こう見えてわたし、結構高いんですよ」
クマちゃんは、たまには若い子と話すのも悪くないなと思いつつ、ひとり社長室にこもることにした。もしかしたら心の中では(何がバンビだか)と思われている可能性も高いのだが、まあそんなことはどうでもいいとして……クマちゃんは社長室の革の椅子に腰かけると、深い溜息を着いた。
>>ある日バンビーナは怪我をして、森の中でクマに助けられました。
怪我が治ってからも、二年ほどバンビーナはクマの元で暮らしていましたが、ある日、バンビーナは自分と同じ種族のバンビーノに恋をして、彼の元を去っていきました。
その二年の間に、クマはバンビーナの魅力にすっかりめろめろにさせられましたが、彼女の幸せを思い、野原へ駆け去っていくバンビーナのことをただ黙って見送ることにしたのです。
ひとり孤独な生活を送るクマの元に、一年ほどして、結婚式の招待状が届きます。
それは他でもないバンビーナとバンビーノの結婚式の招待状でした。
お人好しのクマは、ふたりの元へ駆けつけて、森の幸やら山の幸やらをいっぱい届けましたとさ。
おしまい
といったようなことをクマちゃんは考え、自然、頬に涙が伝わっていることに気づいた。
そして、随分長い間、自分は幸福な夢を見ていたのだとあらためて感じる……自分はたぶん、今すぐは無理でも、また心の傷が癒えた頃にでも恋をするだろう。
けれど、それはバンビーナこと川上サクラとの間にあったものほどの幸福感を自分にもたらしはしないと、クマちゃんにはよくわかっていた。そして自分は次につきあう女性にもまた、何故自分がこれまで三回も離婚しているのかを説明しなくてはならないだろう……ひとり目はネズミ女、ふたり目はピル女、三人目はカルト女だったと説明するかもしれない。
でも、バンビーナとの恋に触れることだけは、決してない。
何故なら、クマちゃんにとって、彼女との間にあったことは――メルヘンチックなファンタジーの世界で起きた恋、夢の中で見た愛の物語なのだから、わざわざ人に話して聞かせるなんていうことは、とても出来ない。
クマちゃんは今、社長室の窓から外の夕景色を眺め、こう思う。
バンビーナこそは、彼の人生におけるミューズと呼んで差しつかえない、本当に素晴らしい女性だったということを……。