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Side:みちる-2-

「別れたい。そのためなら、なんでもする」

 そう夫から切りだされた時、ミチルは目の前が真っ暗になるのを感じた。

 毎日、真夜中過ぎに帰ってくるのは仕方ない……でもここ三日のレンの行動は異常だと、そうミチルは感じていた。

 だから、次に夫が帰ってきたら、彼の態度いかんによって、ミチルは今度こそは問い詰めようと思っていたのだ。

『いくらわたしでも、ここまでないがしろにされて、黙ってなんかいられない』と。

 それなのに、事態はすでに、それ以上悪いところへ来てしまっていただなんて、ミチルは想像してもいなかった。

「どうして!?レン、あなた何言ってるかわかってる!?あなた、結婚する時言ったわよね?わたしの両親に、一生必ず大切にするって。その誓いをこんなにあっさり破るつもりなのっ!?」

 ミチルは、レンに対してこんなに声を荒げ、感情を剥きだしにして何かを言ったことは、これまで一度もない。

 それというのも、彼が自分には過ぎるくらいの美男子で、ある程度のことまでなら自分が割を食っても十分耐えられると思ってきたからだ。

「とにかく、もう駄目なんだ」

 夫はミチルに対して、ただ冷ややかにそう言った。

 もう決めてしまった、そしてこの最終決定について、どんな理由があっても変更を加えるつもりはない……レンの感情のこもらない、冷たい横顔はそう語っていた。

「悪いのは、全部俺だ。三日前に、おまえと別の女と寝た。そんなことのために別れるだなんて、ミチルは冗談じゃないって思うと思う。でも俺たちの間には、随分前から本質的な会話なんて何一つなかっただろ?つまりは、そういうことなんだ」

「よくも……そんなこと……っ。あたしが毎日、一体どんな気持ちでレンが帰ってくるのを待ってたかわかる!?あたしだって、本当はレンにもっと早く帰ってきてほしかった。ずっと我慢してきたけど、もう感情が爆発しそうだって思った時――レンは言ったわよね!?絵が五百万で売れたから、そのお金で一緒にアフガンへいこうって。わたし、出来ることならアフガニスタンの孤児院へ戻りたいわっ。そうしたら、レンだって前と同じふたりに戻れるってそう思うわよっ!!」

 ここまで言っても、レンが冷ややかな態度をまるで変えないのを見て――ミチルは悟った。

 自分がもし感情を露わにして取り乱せば、普段大人しく聞きわけがいいだけに、夫もやましい気持ちから、少しは動揺するだろうと。

 けれど、彼はもう自分を愛していないということが、ミチルにははっきりとわかった。

 もう二度と、愛する努力をしようという気持ちすらないのだと……。

「もし、俺を苦しめたいなら、慰謝料を請求するなりなんなり、好きなようにしてくれ。金だけでいいなら、借金をしてでも、ミチルの要求する分を払うよ。だから――」

 流石のミチルも、ここで堪忍袋の緒が切れた。

 怒りと屈辱のあまり、手がぶるぶると震えはじめる。

「ハッ!!お金ですって!?」

 彼女自身、自分でも信じられないくらいに、声が裏返っている。

「そんなもの、どうだっていいわ!!むしろ、あたしが欲しいのはこのままあなたの妻でい続けるっていう地位と、立派な絵描きの男を夫に持ってるっていう世間体のほうよっ!!愛があろうとなかろうと、それだけは絶対守ってちょうだい!!なんでって、あたしはそのために――そのためだけにレン、あんたと結婚したんだからっ!!」

 ミチルはテーブルの上の急須を持ち上げると、レンに向かって投げつけた。

 夫のためにお茶を淹れようと、そこには熱いお湯が入っていたので、レンは物理的な痛みのためというよりは、熱さのために顔をしかめていた。

 腕が若干赤くなっているが、そう大したものではない。

 むしろそれ以上にミチルのほうが傷ついているということを、もちろんレンは知っていた。

「どうして……っ!?どうしてなのっ。あたし、何も悪いことしてないじゃないっ。毎日、レンのためにごはん作って、この部屋だって毎日綺麗にお掃除して……ずっと家にいるつまらない女だと思われたくないから、いのちの電話でボランティアまでして……それなのに、どうしてなのよ!?」

(あなたと別れないでいられるためなら、なんでもする)、そう言っているミチルの心の声が、レンには聞こえた気がした。

 そしてそんなにも痛々しい妻の姿を見て、レンも心が動かないわけではなかった。けれど、彼はもう決めてしまったのだ。どんな犠牲を払っても、川上サクラという女と一緒になるほうの道を。

「わたし、絶対別れないっ!!それに、浮気した女ってだれ!?まさかとは思うけど――」

 そこで突然、ミチルはハッとしたような顔をした。

 頬を流れる涙が突然とまり、彼女は寝室にある押入れに向かって駆けだした。

 そこには、夫が過去に描いた作品の一部が保存されているのだが、彼女は随分前に一枚だけ、ある女の絵がスケッチされたキャンバスを見つけていた。

 正直いってそれを見た時、ギタギタに破いて捨ててやりたいとは思った……何故夫は後生大事に自分以外の女の絵を持っているのだろうと思ったし、いうなればそれは、レンの昔の女の写真などを発見するより、ミチルにとって質の悪いことだった。

「レンが浮気してる人って、もしかしてこの人なんじゃないでしょうね!?」

 ミチルが押入れの戸を思いきり開けると、スパアン!という小気味いいくらいの音が響いた。

 彼女はその中にしまいこまれている、大小様々な大きさのキャンバスを取りだし――そして投げ捨てるように、順番に床へ叩きつけていく。

 ようやく自分が欲しい作品を探しだす頃には、ミチルは息が切れているほどだった。

 でも一度だけアパートのこの部屋まで来たことのある、この女のことは今もよく覚えていた……「あなた程度の女と、レンが結婚するだなんて」と、見下すように笑っていたあの女。

 もしあの女が相手なのだとしたら、絶対に絶対に、許したりなんかしない!!

「わかったから、もうやめろ!」

 ミチルが川上サクラの横顔が描かれた絵を破壊しようとするのを、レンはなんとかして止めようとした。

 自分が過去に描いた芸術品を妻が粗末に扱っているからではなく――「この、このっ!!」と泣き叫びながら床にキャンバスを叩きつける、ミチルのことを見ていられなくなったからだ。

「なんでよおっ!!レンはあたしよりなんで、こんな女のほうがいいのよおっ!!」

 ミチルは、棚の引き出しからカッターナイフを取りだすと、川上サクラの横顔をメチャクチャに切り裂きながら叫んだ。

「あたし、死んでやるからっ!!レンがどうしても別れるっていうんなら、死んでやるっ!!そしてあんたなんか、あんたたちなんか、呪われればいいんだっ!!こんなふうに誰かを不幸にして、本当の幸せなんか得られっこないんだからっ!!」

 わあああっ、うわあああっ!!と号泣するミチルのことを、そのまま放っておいて、レンはアパートを静かに出ていく他はなかった。

 手に負えない妻を見捨てて逃げようと思ったわけではなく、今はこれ以上何か話しあっても感情論になるだけだと、そうわかっていた。

 とりあえずカッターナイフは拾いあげてそのまま持ってきたとはいえ――正直、自殺の方法なら他にも色々あるだろう。

 けれど、レンはミチルが本当にそうするとは思わなかった。

 ミチルは本当に強い女性で、アフガンですぐ隣に死があるという状況を経験している人間だった。

 その彼女が命を粗末にするとは思えないし、何より、ミチルはボランティアで「今日死にたい」、「明日死にたい」という人間の相談まで受けているのだ。

 レンは、その彼女が<自殺する>という選択肢を選ぶとは思わなかったし――いずれ、彼女が今日見せた自分の失態のことを、後悔する日がくるだろうともわかっている。

(そのくらい、あたしはあんたのことを愛してるのっ!!)というミチルの悲痛な叫びは、もちろんレンにも伝わっていた。

 でも、もう彼の中ではすでに、彼女との関係は終わりを迎えていた。

 なんという冷たい、卑怯なずるい人間だろうと、レンはあらためて自分に対してそう感じる。

 そして自己嫌悪に陥りもするが、これもまたそう長く続く重苦しい感情ではないとわかっていた……『こんなふうに誰かを不幸にして、本当の幸せなんか得られっこないんだからっ!!』というミチルの言葉の正しさを、レンはあらためて噛みしめる。

 でも、どんなに不幸になったとしてもいい、今のレンには川上サクラという女と堕ちるところまで堕ちてみたいという誘惑に、勝てるだけの理由を並べることが出来なかった。

 彼女の体に手を伸ばし、その快楽の実を味わってしまったあとでは……。




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