Side:サクラ-9-
「ねえ、あんた煙草持ってない?」
たぶん、この第一声というのは、ずっと寝たかった男にしてみれば、おそらく最低のものだったに違いない。
「……持ってないな。というか、アトリエに置き忘れてきた」
でもレンにはあたしが何故そんなことを言ったのか――わかったみたいだった。
そう、煙草でも吸わないことには、お互い間が持たないのだ。
「ねえ、これからあたしたち、どうなると思う?」
「どうなるって……おまえは、佐々木さんとセレブ婚するんだろ?」
あたしが聞きたいのはそこじゃないと思ったけれど、不思議と怒りはまるでわいてこなかった。
もうこのまま死んだとしても、あたしはそれで構わない。
「そうね。レンにはミチルさんがいるし……あたしにはクマちゃんがいる。でもわたし……たぶん、もう駄目だと思う。レンとこうなってしまったからには、いずれクマちゃんにも嘘がバレるってわかってるもん。もう、クマちゃんだけの無邪気なバンビーナっていうわけには、いかないと思う」
べつにわたしはこのセリフを――脅しとして使ったつもりはなかった。
わたしの心の中では、レンは正式に結婚している女性を裏切れるような男ではないと、わかっていたから。
だから、レンが隣のあたしのことをじっと見つめてこう言った時には、本当に驚いた。
「俺、ミチルと別れるよ」
あたしは思わずガバリと起き上がると、シーツで体を隠しながら、ベッドの背もたれによりかかった。
「でも、サクラは俺と一緒になるのが嫌なら、佐々木さんと結婚しろ。俺が離婚する理由はたぶん……おまえと一緒だな。ミチルとは、もう随分前からうまくいってなかった。俺はガロで夜中まで絵を描いて過ごしていて、彼女のことはないがしろにしてた。結局、そうしたほうがミチルのためにもいいだろうと思う。俺のような男に縛られて、不幸な結婚生活を続けるよりは、ずっと……まあ、勝手なのはわかってるけど、俺には他にどうしようもない」
「あんた、本気!?自分が何しようとしてるか本当にわかってる!?」
嬉しい気持ちが強い反面、これが現実に起きていることだとはとても思えなくて、あたしは裏返った声で言った。
本当に、信じられない。
もしかして、わたしはあの時数馬に首を絞めて殺されて――そのあと、自分だけの精神世界のような場所で、都合のいい夢を見ているのではないだろうか?
「わかってるさ。ミチルがおそらく一時的にしても、ボロボロになるってこともね。そしてあんたは佐々木さんのことをズタズタに傷つける……佐々木さんは確かに立派な大人の男だとは俺も思うよ。それに、ある程度の女性ならお金で手に入れられる財力もあるだろう。でもサクラのような女を手放すのは――相当な痛手だと思うんだ。俺にしたところで、ついこの間、ニコニコしながら握手したばかりだっていうのに、五百万で絵まで買わされて、このことがわかった時には彼は多分……金で殺し屋でも雇って、俺を殺しかねないくらいの気持ちを持つと思う」
「クマちゃんは、誰もそんなふうに逆恨みしたりしないわ」
あたしは哀しみに胸を押しつぶされそうになりながら言った。
「でもだからこそ――つらいのよ。彼がおそらくは、すべてを自分の胸におさめて、こうしたことを全部乗り越えようとする強い人であることがね。ほんと、女運の悪い人……また、悪い女に引っかかっちゃったんだわ」
あたしがぼろぼろと泣き、涙をシーツで拭っていると、レンが優しく、あたしの頬の涙を指で拭ってくれた。
「確かにな。でも、きっとあの人になら、またいい人が現れる。ミチルも、俺なんかよりずっといい男を捕まえられるって、そう思う」
「あんたは、クマちゃんの女運の悪さの歴史を知らないから……」
そう言って泣きながら、あたしは微かに笑った。
「第一、ミチルさんにだって、あんた以上にいい男が現れるとは思えない。もしわたしが、レン――あんたと結婚したにも関わらず、他に女が出来たからって捨てられたら、その時のショックはクマちゃんが浮気した時の比じゃないのよ。あんたはそれをわかってない」
「どういう意味だ?」
レンもまた、起き上がってきて、ベッドの背もたれのところに上半身を預けた。
「あたしだって、もう三十二にもなるんだもの。カマトトぶるつもりはないわ。クマちゃんだって、確かに今はあたしに夢中でしょうよ。でもね、あれだけお金のある人って、まあ最低でも一回くらいは浮気する可能性大ね。あたしが彼との結婚を決めたのは、そういうことも含めてっていうこと。浮気はしないけど、365日仏頂面してる旦那より、浮気したけど、一年のうち三百日以上は機嫌がいい……そういう旦那といるほうが幸せだって納得するしかないもの。もっともあたしの場合、これはお金のある男限定の話よ。でもレン――あんたの価値はお金じゃはかれない。だから浮気なんてされたら絶対気が狂いそうになるし、それこそあんたがこの間言ってたカタストロフってやつが起きるのよ。クマちゃんがもし、結婚するまでにあたしの何かが気に入らなくなって婚約を解消したとしたら、確かにそれはすごくショックよ。でもあんたとの別れはあたしにとって、心のカタストロフなの。この違いを、あんたはわかってない」
「……もう少し、わかりやすく言ってくれないか」
この間アトリエで話していた時は、あたしとレンの立場というのは、この逆だった。
あたしは深呼吸すると、説明をはじめた。
うまく説明できるかどうかはわからなかったけれど。
「つまりね、レンはミチルさんが物分かりいいとかなんとか言ってるけど……彼女にも彼女の言い分が当然あると思うの。あたし、レンと別れるなんていうことになったら、もう心がボロ雑巾状態になるわ。これ以上もないくらいにこき使われて、捨てるしかないくらいの惨めなボロ雑巾。あんたにとって――ナツミさんとのことはつらいことだったかもしれない。でも今度はそれとまったく同じものをあんたがミチルさんに与えるのよ。あたし、あんたのモデルになったっていう女の子って、絶対心がカタストロフだったと思う。レンみたいな男にモデルになってくれないかって言われて、超有頂天になってたら、もう関心が別の対象に移ったから別れよう……なんて言われたら、ピサの斜塔のてっぺんから落ちて、自殺したいような気持ちだったでしょうよ」
「……………」
だんだんあたしも、自分が何を言いたいのかわからなくなってきた。
確かに、レンにはミチルさんと別れてほしい――でも彼女は計算高いアバズレ女のあたしなどとは違う、レンが結婚しようと決めたくらいの、心の清らかな人だ。
矛盾した言い方になるけれど、あたしはレンがこれまでつきあって別れたであろう女性には、気持ちがわかるだけに同情したくなってしまう。
わたしにしたところで、いつか、同じ目に遭わないとはいえないのだから……。
「わかった」と、レンは深い溜息を着くようにして言った。
煙草が欲しいという顔をしているのがわかったけど、残念ながらあたしも、今ちょうど切らしてしまっている。
「そのくらいの痛手を覚悟してミチルには話を切りだせってことか。確かに、サクラの言ってることは正しいよ。俺は実際物凄く自分本位な奴だし、そういう意味で自分のことを最低だとも思ってる。でも、どうしようもないんだ……たとえば、七津美さんに傷つけられたから、同じように誰か女性を傷つけてやろうと思ってたわけじゃないのに――むしろ彼女とのことがあったから、次は同じ過ちを繰り返さないようにしようと思ってたのに……俺は相当こっぴどいことをして、相手のことを傷つけた。ミチルとも、彼女のことなら一生大切にできるって思ってたのに、たったの二年くらいで――別れようとしてるってわけだ。サクラ、おまえはそういう男と、この先ずっとうまくやっていけるって、本当にそう思うか?」
「そんなこと、あたしにわかるわけないじゃないの」
あたしはレンの肩に、自分の頬を寄せながら言った。
「あたしが思ってるのはね、こんなことよ。もしかしたら明日、首を絞め損なったあたしにトドメを刺すために、数馬がもう一度ここへやって来て、今度は確かに自分の仕事をやり遂げるかもしれないわ。それに、考えられないくらい大きな雹が頭にぶつかって、植物人間になるかもしれない……ねえ、レン。あたしたちが住んでるこの世界って、普段わたしたちが意識してる以上に、実は相当危険な場所なんだって、そう思わない?」
「そうだな。そう考えたら、せめて生きてる間くらい、自分の好きな女と一緒にいないとな」
レンは、あたしの髪を撫でながらそう言った。
「砂漠では、カタストロフが起きても何も変化はない……この言葉、サクラは覚えてるか?」
「久臣さんの、<砂漠のカタストロフ>でしょ?そういう意味で、砂漠にいるっていうことは、世界で一番安全なのよ。もちろんこれは、比喩的な意味でっていうことだけど」
「俺、なんでもっと早くに気づかなかったのかな。なんか、おまえといるとすごく楽な気がする……話してる言葉の意味も通じるし、言ってる言葉の意味がわかんない時は、お互い怒鳴りあってでも理解しようとするもんな」
「そうよ。あたしはそのことがすぐわかってたけど――どっかのマザコンの坊やは、あたしがもう死ぬっていう三秒前くらいにようやく気づいたってわけよね。ほんと、手遅れにならなくて良かったわ」
あたしがくすくす笑ってそういうと、レンはおもむろに真剣な顔つきになって、「さっきの男のこと、どうする?」とあたしに聞いた。
「ああ、上月数馬ね。まあ、間違いなく週刊誌ネタになっちゃうと思うけど……警察に被害届けみたいの、出さないとね。もちろん、どうしてすぐに届け出なかったんですかとか、色々聞かれると思うし、レンも事情聴取されると思うけど……レン、そういうの大丈夫?」
「大丈夫も何も、仕方ないさ」
溜息を着いてレンは言った。
「『俺は、死にかかってる彼女のことを抱きしめて、その時初めて気づいたんです。彼女のことを愛しているということに……』とかなんとか、エミー賞ものの演技で言えばいいんだろ。で、そのあとはベッドへ直行することになって、それで警察を呼ぶのが遅れたって正直に話すさ」
レンがそう言った時、あたしは幸せのあまり、体が一瞬ぶるっと震えるのを感じた。
「どうした?寒いのか?」
そう言って、レンがシーツをかけてくれようとする。
この時、あたしは涙がでそうなくらい、嬉しくてたまらなかった。
「ねえ、今のちょっと前に言ったセリフ、もう一回言って」
「どうした?寒いのか?」
演技ぶってレンがそう言うのを聞いて、あたしは奴の体をつねってやった。
「そうじゃないでしょーが!エミー賞ものの演技を、もう一回しろってことよ!!」
「まあ、それはまた今度だ」
まるでペンチでつねられたとでもいうように、レンは腕をさすっている。
そして彼は、ベッドから抜け出し、服を身につけはじめた。
あたしも、シルクのパンティをはいて、ブラのホックをはめることにする。レンはそんなあたしのことを振り返ると――ふとこう聞いた。
「そういや、警察呼ぶ前におまえ、ばっちりメイクとかしておきたいって奴だっけ?」
「べつに、もうどうでもいいわよ」と、あたしは顔が数馬に殴られてひどいことになっているとわかっていたけど、仕方ないと思って諦めの溜息を着いた。
「あんたの愛さえあれば、警察にスッピンの顔を撮られて事情聴取されるくらい、なんでもないもの」
レンの奴は、110番通報するために電話の受話器を持ち上げたあと、一度それを下ろして、もう一度あたしのところまで戻って来た。
そしてオスカーものの演技で――「愛している」と、あたしのことを抱きしめながら言ったのだった。