Side:X-2-
エントランスでエレベーターが来るのを待っていた時、数馬はそこでレインコートを着たビジネスマン風の男と一緒になった。
マンション内は冷房が効いていて涼しいが、このクソ暑い日にレインコートを着ているだなんて、正気の沙汰じゃないなと数馬は思う。しかも、手には黒のコウモリ傘まで持っている……数馬の記憶が正しければ、今朝ニュースでは降水確率が0%だったはずだ。
そして数馬はその昔自分が見た映画の中で――これと似た場面があったのを思いだしていた。
とても暑い日にレインコートを着ている男がいたとしたら、そいつはおそらく殺し屋で、仕事をはじめる前にコートを脱ぎ、それから血で汚れた衣服を隠すために、再びレインコートを羽織るのだ。
そして傘といえば、1978年にロンドンのウォータールー橋で起きた暗殺事件が思い起こされる。
ブルガリアの反体制作家ゲオルギー・マルコフは、亡命中、当局から派遣されてきたエージェントに傘で脚を刺されて絶命した。この傘というのが実は空気銃を偽装したものであり、そこからリシンを注入されて彼は毒殺されたのだ……数馬は、どこからどう見ても平凡に見えるビジネスマンのことを見やり、彼の持つ傘の突端が急に気になって仕方なかった。
もちろん、エレベーター内には監視カメラがあるので、何かおかしなことが起きるとは思えなかったものの――三基あるエレベーターのうちのひとつに乗りこんだ時、男が二十階を押すのを見て、数馬はなんとなく嫌な気持ちになった。
確率的に考えて、なんとなく、ビジネスマンは十七階以下の場所で下りるだろうと思っていたからである。
数馬はエレベーターから眺めのいい外の風景を眺め、自分もいつか、同じように人を見下ろせるような人間になりたいと、あらためて思った。一言でいうとすれば、それは<睥睨>ということだ。自分のように才能のある人間は、その他大勢の一般市民がその一挙手一投足を注目して当然なはずなのに……。
『だったら、何故今そうじゃないんだ?』
そう、心に重くのしかかる問いかけの声が響いて、数馬は顔を上げた。片面にある鏡に映るビジネスマンと、ふと目が合う。
『おまえの知ったことかよ』
そう心の中で吐き捨てるように答え、数馬は十七階で下りた。
この階に住んでいるのはどうやら、1701号室に住む川上サクラと、1702号室に住むお隣さんだけらしい。
もし何か騒ぎがあっても、あの川上サクラのことだから、すぐ隣の人物が訪ねにくるような、そんな近所づきあいはしていまい……そう思い、数馬はスーツの内ポケットにしまいこんだ、ナイフの存在を手で確認した。
今日の彼の格好は濃いグレイのスーツ姿というものだったが――正直、この暑さだ。
上着は脱いできたいと彼も思った。けれど、このナイフを隠すために着てきたようなものだと、数馬はインターホンを押しながら、どこか不適な笑みを浮かべて思う。
そう、その昔見た映画の中で、殺し屋役の男が同じように不気味な顔をしていたように……。