Side:サクラ-7-
あたしはその日の朝、ほとんど腑抜けになっているような感じで、目が覚めた。
クマちゃんからすでに、五件ほどメールが入っているけれど、読む気にすらなれない……何故といえば、結婚を数ヶ月後に控えた花嫁が絶対にしてはいけないことをしてしまったからだ。
いや、わたしはここで他の男とついうっかり寝てしまったなんていう話を、告白したいわけではない。
それに、もし仮に酔っていてそんな事態になったのだとしても――わたしはその過ちをなかったこととして処理し、迷わずクマちゃんと結婚することが出来るくらいには、ツラの皮が厚い女だ。
でもレンにキスされてしまった今、それは見も知らぬ男三人を相手にセックスしたなどというより、遥かに罪深い行為であったように思われた。
――罪深いですって?
いや、実際には罪の意識さえ感じていない、といったほうが正しいだろう。
わたしに今ある感情は、ただ困惑と、痺れるような甘い感情、それからレンにあのまま体を貪られたかったという欲望だけだ。
あまりに突然のことで、突き放したのは意外なことに、自分自身のほうだった。
以前は、いつかそんな瞬間が訪れたらいいと思うことは度々あったけれど、何故よりにもよって完全に諦めた今になって――レンはあたしにあんなことをしたのだろう。
例の鈴木一郎氏の絵画展にクマちゃんと行ってから、(もうあたしたちは一生何があっても友達なんだわ)という気安さから、あたしはハワイのパンフレットをレンの奴に届けにいくことにした。
うちの家族やベルビュー荘の人たち、それにクマちゃんの会社関係の人含め、結婚式のためのパックツアーのような感じで、金額のほうがかなり割安になっているコースがあるのだ。
レンと奥さんがふたりでそのコースに申しこむなら、返事の欲しい日時があるので、そのことを知らせにいこうと思っていた。
ちょうど、夕方の五時を少しまわった頃のことで、駐車場に下りるなり、突然夕立となり、雷まで鳴り始めたのには仰天した。
「えっ、マジ!?何これ、雹!?」
わたしが小さな頃、一度田舎のおばあちゃんの家に行った時に、雹に遭遇したことがある。
ぶつかると頭がとても痛くて、泣きじゃくるあたしのことを、おばあちゃんが懐に抱いて家まで連れ帰ってくれたという、そんな懐かしい思い出だ。
「こんなのに当たったら、ほんと大変よ……」
あたしは傘がもしや破れるのではないかと訝しみながら、天変地異に対する恐れに心をおののかせつつ、なんとか画廊のガロまで走り着いた。
「ちょっと、レンーッ!!いるのはわかってるんだから、早く開けてったら!!」
もはや、見栄も外聞もへったくれもない。
あたしは借金を取り立てにきたヤクザのように、鍵のかかったガロの扉を叩き続けた。
「レンーッ!!まさかあんた、あたしのこと、殺したいわけじゃないでしょうね!?」
そう叫んだ時、照明の消えたロビーに、突然パッと光が灯った。
奥にあるアトリエのほうから、ダサい緑のトレーナーを着た、レンの奴が顔を見せる。
「ああもうっ、死ぬかと思ったわよっ。あんたまさか、この画廊からふたりも死者をだしたかったわけ!?」
「来るなら来るって、連絡くらいすればいいだろ。ここは午後五時きっかりに鍵を閉めるから、そのあとに誰か来ても、奥のアトリエにいたらわからないからな」
「連絡ですって!?」あたしはほとんどキレ女になりながら言った。「はん!まさかそんな殊勝な言葉が、連絡嫌いのあんたの口から洩れるとはね!まさに天変地異の前触れだわ!メールもキライなら電話もキライ、そんな奴が何寝言いってるのよ!」
「いいから、とにかくこっち来いよ。なんか体を拭くもの探してくるから……」
そう言ってからレンは、一度雹の中を外に飛びだし、あたしのベージュ色の傘を拾い上げ、そして戻ってきた。そしてレンは、それを来客者用の傘立てのところに立てかけている。
――この一連の、レンの何気ない落ち着いた動作のお陰で、あたしの怒りはすぐ静まった。
それにこいつは、怒り口調のあたしに対して特に何も反論してこなかった。
いつもなら、同じくらいの怒鳴り声で応酬してくることも珍しくないのに。
「やれやれ。よりにもよってこんな時に――なんだってこんなところへやって来たんだか」
「ハワイの格安ツアーパックのことで、話をしようと思って。そしたら、ずっと晴れてた空にどんどん分厚い雲がかかってきて……突然ドザーッ!よ。&雷ゴロゴロとゴツゴツ雹のオマケつき」
「ふうん。ま、なんにしてもこういう天気っていうのはそう長く続かないからな。あんたが用事を終えて帰る頃には雹もおさまってるだろ」
「そうね。ならいいけど……」
レンはあたしがくしゃみをすると、キャンバスにかかっていた布を外し、それであたしの体を覆った。
「何コレ?なんかカビくさい気がするんだけど?」
「しょうがないだろ。ホテルのロゴ入りバスタオルなんていう気が利いたもの、ここにはないんだから……とりあえずそれで我慢しとけ。あと今、コーヒー持ってくる。冷たいほうじゃなくて、あったかい奴な」
「ん。ありがと」
あたしがそう言った時、不意にレンの顔つきが変わった。
あとからしてみれば、確かにこの日、レンの様子はいつもとは何かが違っていたと思う。
妙に人のことをじろじろ観察するような目つきで見ているというか……でもあたしは、奴のそんな目線を特にどうとも思わず、いつもどおりの口調で色々なことをぺちゃくちゃと喋くっていた。
「でね、ここで鈴木一郎氏の絵画展があったあの日、クマちゃんとうちの母さんを会わせたわけよ!そしたら、うちの母さん、一目見るなりクマちゃんのことが気に入っちゃって……もともと、なんとか会社の社長とか重役とか、そういう肩書きに弱い人ではあったんだけど――うちの母さんはまさに、金メッキを磨くプロフェッショナルなんだと思ったわ。つくづくね」
「金メッキを磨くプロフェッショナル?」
あたしはここで、くすくすと笑い、一呼吸置くように、レンが入れてくれたコーヒーを飲んだ。
「つまりね、この言葉はクマちゃんが言ってたことなんだけど――この間の日曜に会った、とっても凡庸な愛すべき鈴木夫妻ね、彼らは金メッキを磨くしか才能のない人たちなの。そしてその正反対なのが、レン、あんたよ。純金はわざわざ「我こそは純金なり」、なんて人に言い触らして歩いたりはしないものでょ?才能の違いっていうのは、まさにそういうことを言うのよ」
「あの人が――佐々木さんがそう言ったのか?」
何故なのかはわからないけれど、レンのその言い方はとても冷ややかだった。
わたし自身、自分がとてもまずいことを言ってしまっただろうかと、一瞬不安になったくらい。
「えっと、言い方は少し違ったかな。でも意味としては、大体同じようなことをね」
「まあ、確かにあの人はあんたみたいなアバズレにはもったいないくらいの、立派な人だからな。その幸福をとり逃がさないよう、大切にしろよ」
「う、うん……」
何故か急に背筋がゾクッとして、あたしは両方の手で自分自身を抱きしめる仕種をした。
そしてなんとなく、暗闇が切り取られたような形の、アトリエの入口を見つめて――ここの画廊の前オーナーが自殺したという話を思いだした。
「あのね、レン……あんた、午後五時にここを閉めて、いつも何時くらいまで絵を描いてるの?」
「そうだな。まあ、大体二時半くらいとかかな。で、家に帰ってメシ食って寝る。それから次の日は九時までにここへ来るってことの繰り返しだ」
「ふうん。奥さん、何も言わないの?あたしだったら絶対、芸術のためとか寝言いってないで、さっさと家に帰ってこーい!!ってしつこく喚いちゃうと思うけどな」
「ミチルは物分わりがいいから。なんでも自分の思いどおりにしないと気がすまない、あんたと違ってな」
「ま~ね~」と、あたしは悪びれるでもなく応じた。「それより、こんなシーンとしたところに二時半までいて、気持ち悪くないの?あたし、今はあんたがいるからいいけど、真夜中にこんな場所にひとりでいるなんて、とても耐えられないわ。なんか、二階のピアノを幽霊が弾いたりするんでしょ?」
「ああ、あの話な。でも、実際にはさ、俺がこうやって」と言って、レンは小さく流れているクラシックのボリュームを一瞬大きくした。「音楽をどでかくして絵を描いてることがあるってわけ。それを聞いた誰かが、たぶんそんな話をしたんだろうよ」
それからレンは、キャンバスに向かって再び絵を描きはじめた。まだスケッチ段階だったので、よく見えなかったけれど――まさか彼があたしをモデルにして絵を描きはじめていたとは思わなかった。
「あの……あたし、邪魔になる?レンが絵を描くのに」
「<今日は>大丈夫じゃないか?」
レンはそう、何か気になる物の言い方をした。
でもあたしは、特に何も気にしなかった。
絵を描きながら話しているので、意識が半分そちらへ取られるあまり、彼自身自分の言ってることを深く気に留めてもいないのだろう……あたしはそんなふうに思っていたから。
それからあたしは、例の弟のお嫁さんである<電脳アイドル・綾坂千鶴>について話しはじめたのだった。
「でね、レンはどう思う?このお嫁さんっていうのが、結構手ごわいというか――わたしにまったく心を開かないような感じなの。例えていうなら、コンクリートブロックを十枚あたしのほうが突き破ったら、ようやく一言しゃべってもいいみたいな感じ?そのくらい壁があるわけ、誰に対しても。もちろん、弟に対しては違うらしいけどね……あれじゃあ、母さんとも反りが合わないのもわかるな~って思う反面、母さんは母さんでさっきも言ったとおり、金メッキを磨くプロフェッショナルでしょ?嫁と姑の問題っていうのは、難しいわよね。その点あたしは、クマちゃんのお母さんってもう亡くなってるから――ある意味、楽なのかもしれない。お父さんのほうは、すでに介護付き高級マンションに入ってるっていう話だしね」
「まあ、俺がおまえの話を聞いていて、総合的に思うには……その千鶴さんっていう人、たぶん根が純粋なんだと思うよ。ミチルがちょうどそんな感じだった。最初は俺に対して、全然心を開かなかったけど、ようするにそれは俺が――他の女性スタッフにちょっと色目を使われてデレデレしてるように見えたかららしい。ああいう場所では、恋愛感情なんて持ちこまず、黙って働けっていうような信条でいたからな、ミチルは。まあ、人から見たらお堅いつまんない人に見えるかもしれないけど、その千鶴さんっていう人も、理由がわかれば「なんだ、そうだったのか~」みたいになると思うよ。たぶんね」
「ふう~ん。そんなものかしらね」
レンが自分の奥さんの美点について語るのを聞いて、あたしは少しイラっとした。
考えてみれば、レンが自分の奥さんのことを話したりしたのは、これまでほとんどなかったといっていい。
もちろんあたしはそんな話、聞きたくもなかったけど――でもよく考えるとそれは、少し不自然なことのような気もした。
あたしのような汚れたビッチに、清らかな奥さんのことを話しても理解できまい、といったようにレンが思っているのかと、今までは思ってきたけれど。
「でもね、特定の人にしか心を開かない人っていうのは、実際世の中にいっぱいいるにしても、千鶴さんの精神構造で理解できないのは、なんといってもネットで<電脳アイドル>なんていうものをやってることかしらね。可愛い服を着て、グラビア風に自分で自分のことを撮影してるのよ。で、それをネットに流して、ファンの子たちから「可愛い~♪」なんてコメントもらって、「ありがとうでしゅ!!」とか返事をしたり……レンはあたしのこと、ブランド服で着飾ったバカ女みたいな目で時々見るけど、あの子のブログ見てると、もしかしたら自分は遥かにまともなんじゃないかっていう気がたまにするわ。なんでかっていうと、あたしはブランド服が確かに好きで、家を出る前にあらゆる角度から鏡でチェックもするけど――それをわざわざカメラで撮影して、他の多くの人も見るべきだとまでは思わないもの」
あたしがこう言うと、レンの奴は動かしていた手を止めて、突然笑いだした。
「何よ!?今の、べつに笑うとこじゃないでしょ!?」
「いやさ、サクラのその義理の妹さんって、面白い人だと思ってさ」
レンはキャンバスとあたしのことを交互に見やるようにしてから、話を続けた。
「ようするに、なんだかんだ言って結局、サクラは見てるわけだろ?その千鶴さんのブログをさ。それこそ彼女の魅力が気になってる証拠ってことなんじゃないのか?それともうひとつ、教えておいてやるよ。これがその義理の妹さんにも当てはまるかどうかはわからないけど――人間っていうのは、自分よりも純粋な動機で動く人間の思考回路については、理解できないように出来てる。たとえば、サクラが「あいつのことだけは絶対嫌いだ!」って思ってる奴がいたとするよな。一度そうなったら、相手がその後どんなに改心しようと、何かのカタストロフ的出来事でも起きない限り、サクラはそいつが嫌いなまんまだと思うな。その相手がもし身を削って稼いだ金をすべて、ユニセフに募金していようと、サクラはこう思うだろう。「何よ、この偽善者め!」ってね」
「なあに?あんたの言ってること、あたしよくわかんない。あたしにもわかるように説明してくれない?」
――ベルビュー荘で暮らしはじめた最初の頃、レンはこういう種類のよくわからない日本語をわたしに対して使っていたような気がする。
そのたびにまるで、頭の悪い生徒が先生を仰ぐみたいな感じで、その意味について聞き返していたあたし……その頃はそういうレンの上から目線がうざくもあったけど、今ではそんなのもみんな、全部が全部、懐かしい思い出だ。
「つまりさ、カタストロフっていうのは、それまで信じていた価値体系がすべて根底からぶっ壊れるっていう終局的な意味の他に――若干、救いのようなニュアンスも含まれてるんだ。逆にいうと、すべてのものが根底からぶっ壊れるくらいのカタストロフがなければ、<救い>というものはやってこない。何故かといえば、その時に最後まで耐えきって残ったものだけが、<本当に本当のもの>ってことだからな。救いっていうのは、本来そういうことだ。で、俺はいつも頭の中からこのカタストロフって言葉が離れない……まあ、わかりやすく先にミズキのことを引き合いにだすとしようか。嵐さんは、大谷家で起きるカタストロフを避けるために、ミズキのことを一時的に離してベルビュー荘へ連れてくることにした。ミズキに限ってありえないとは思うけど、もしカタストロフが悪いほうに流れたら、ミズキが両親を包丁で刺して刑務所行きっていうシナリオもあったかもしれない。で、ミズキの場合はいいほうにカタストロフが流れて、ある日突然自分の部屋から出てくるようになった……そして俺はそれを見て思ったわけだ。この「いい流れ」を持ってきたのは、他でもない自分がそれまで軽蔑してた女が運んできたものだってね。そこで俺の心の中でもちょっとしたカタストロフって奴が起きて――俺はあんたにあやまろうと思ったわけだ。でもこのカタストロフってやつは、普段から意識するようにしてないと、そう簡単に理解はできない。普通の人間っていうのは大体、毎日金メッキを磨くことに忙しくて、最後まで残る純金のことについては思ってもみないだろうから……もし俺が、そっちの金メッキ磨きに熱心なタイプだったら、俺はあんたにアバズレ・ビッチの烙印を押したまま、今も関わりを断っていたかもしれないな」
「ふう~ん。まあ、あんたの言いたいことはなんか、漠然とではあるけど、わかるわ。あんたのいうカタストロフって奴が起きた時に、たとえば、地震でも雹でも雷でもなんでもいいわね。あたしがそれまで信じてた人が自分から離れていって、意外にも千鶴さんみたいな人がその時心を開いて助けてくれるかもしれないみたいな、そんな話?」
「まあ、大体そんなところかな。サクラは自分が最初から人に見た目で判断されるから、その千鶴さんのことも、理解したいと思ってるんだろ。とりあえず、金メッキ磨きに執着してない点についてだけは共感できそうな妹だけど、でも全然心を開いてくれないから、何を考えてるのかさっぱりわからない……そんなところか?」
「レン、あんたもしかして、人生カウンセラーにでもなったらいいんじゃないの?」
あたしは真剣な顔つきのまま、レンに向かってそう言ってやった。
「いや、俺はそういうのには絶対向かないな。向いてるとしたら久臣さんとかミドリさんみたいな人じゃないか?俺は絵描きであって、久臣さんみたいに<言葉の人>じゃないからな」
「ふう~ん。そんなもん?」
あたしがコーヒーをずずっとすすって飲んだ時――不意に、アトリエ入口の暗闇に、何か半透明な存在が横切っていくのが見えた気がした。
目をこすり、もう一度その暗闇に目を凝らすけど、やっぱり何も存在しない……。
あたしはまたゾクッと背筋におぞけのようなものを感じて、自分自身の体を抱きしめた。
「どうした?」
「ねえ、レン……あんたここにひとりでいて、本当に平気なの?時々、なんか幽霊みたいな存在とか、ポルターガイスト現象があったりするんじゃないの?」
「べつに、特に何も感じたことはないな」
レンは、いかにも馬鹿馬鹿しいといった顔つきをして、茶色のパステル鉛筆を動かし続けている。
「例のここの前オーナーだった叔父さんがここで首吊り自殺したなんて聞いてるから――単に先入観からそう思うんだよ。昼間は風に木がそよぐ音を聞いてもなんとも思わないけど、これが夜になると幽霊のすすり泣きみたいに思える……そういうことだろ?」
あたしはまた背筋がゾクゾクしてきて、口元からマグカップを離すと、それを近くの棚へ置くことにした。
「レン、あたしもうそろそろ帰るわ。あたし、霊感とかなんかとかそういうのは全然ないし、そういう類のものに対して凄く懐疑的な人間よ。でも、やっぱりなんか変なの。もしかしたら、雨に濡れて、エアコンの効いた部屋に長くいたせいかもしれない。なんかさっきからやたら悪寒がするっていうか――」
「もう帰るのか?」
そう言って、レンはどこか名残惜しいような目つきをした。
彼は、あたしに対して「さっさと帰れ」という顔をしたことはあっても、何かの折に引き留めようとしたことなんて、これまでただの一度もない。
「もう少しいれば?今、エアコンの設定温度を上げてくるよ。各部屋の温度を調節するのは、事務室のほうにパネルがあるから……ちょっと待っててくれ。すぐ戻るから」
「レ、レン……」
一体今日の彼はどうしちゃったんだろうと思いつつ、あたしは少しだけ嬉しくもあって、背もたれのない木製の椅子に、もう一度腰かけ直した。
でも、やっぱりまた背筋がゾクっとしてきて――あたしはまるで、まわりに何か目に見えない存在がいるんじゃないかと疑うように、背後をきょろきょろ振り返ってみた。
しかも、レンの奴がなかなか戻ってこない。
あたしはなんだかだんだん怖くなってきて、バッグをつかむと、アトリエから出ることにした。
事務室にいるレンのところまでいって、「やっぱり帰るわ」と一言いえばいいだけだと思ったから……。
けれど、アトリエを出る前にふとレンがどんな絵を描いているのかとキャンバスのほうを振り返ってみて驚いた。
あいつは、あたしのことをモデルにして絵を描いていたのだ!
「遅くなって悪い。なんかボタンを押しても全然変化なくて……エアコンの説明書みたいの、引っくり返して見てたんだ。でもやっぱりよくわからなかった」
「……………」
あたしは、咄嗟に自分が絵のモデルにされているとは気づかない振りをして、部屋から出ようと思った。
どうしてかはわからないけど――この時あたしは、幽霊云々のことじゃなくて、ひどく狼狽していた。
昔、自分の誕生日に暗闇の中で鏡をのぞくと、自分の死に際の顔が見える……なんていう話があったけど、何かそれに近いようなショックを受けた。
自分の<本当の姿>なんて、実は見てもあまり気持ちのいいものではない。
「レン、やっぱりわたし……」
帰るわね、なんて言わなくても、椅子の上にさっきまでくるまっていた布を置いて、バッグを手にしているのだ。
レンには当然そのことがすぐわかったはずだと思う。
すると奴は、何故かとてもショックを受けたという顔をして――アトリエの入口のところであたしの手を引くと、おもむろにキスをした。
「……………っ!!」
それがあんまり突然かつ、思いもかけないくらい情熱的なものだったので、あたしは暫くの間、ただレンのされるがままになっていた。
でも流石に壁に体を押しつけられて、首筋に彼の唇の存在を感じると、それ以上のことは続けられないと思った。
それであたしは、レンの奴のことを突き飛ばし――逃げるように走って、画廊のガロを飛び出してきたというわけだ。
外ではすでに雨はやんでおり、どこかひっそりとした夏の夜の清涼感が漂っていた。
このあと最悪だったのは、駐車場のフェアレディZが雹の大きな塊にやられて、フロントガラスにヒビが入っていたことかもしれないけれど――あたしはそんなことなんてどうでもよかった。
あのままもしレンに抱かれることさえ出来ていたら、こんな車、廃車にするしかなかったとしても、本当にどうでもよかったのだ。
……というのが、ほんのついきのうにあった出来事。
でももうあれから、二十万光年ほども時が過ぎたんじゃないかと思われる。
これでもしレンが本当に<ただの男>なら――直接顔を合わせるのをその後避けるとか、あるいは間接的な方法としては、メールで「ごめん。あの時はどうかしてた」とでも伝えてくるだろう。
けれど、あたしの知っている水嶋蓮という男は、そういうことは絶対にしない。
そういう部分の白・黒はっきりつけたがるところは、性格があたしとおんなじなのだ。
だからこそ、あたしたちはしょっちゅう口喧嘩にも近いような軽口ばかり叩きあっているのかもしれないけれど……レンは近いうちに、直接あたしに会いにくるだろう。
そして自分の口で、どうしてあんなことをしたのか、説明してくれると思う。
わたしがきのうの夜、また今朝起きてから夕方の今に至るまで考え続けているのは、その時に自分がどう反応したらいいのかということだった。
理想としては、「恋愛の女王をナメんな。あの程度のこと、こちらとどうとも思ってない」――といった態度をとれることかもしれない。でも、それはたぶん無理だろうとわかっている。
むしろ、あたしの態度は落ち着こうとすればするほど、挙動不審者のそれになっていき、動揺しているのがバレバレといった感じになるに違いなかった。
まるで、思春期の女子高生みたいに……。
そしてあたしはこのことを無限ループ∞状態であんまり長く考えすぎてしまったのだろう、自分でもそんなことはありえないとわかっていながらも、あるひとつの可能性についてあたしは妄想しはじめていた。
それは、わたしがクマちゃんと別れ、レンもまたミチルさんと別れ、わたしと再婚してくれるといったような、夢のレインボーロード的な話ではなく――あの時、わたしにキスをしたのは、本当に本物のレンだったのかどうかということだ。
画廊のガロを出ようとした時、ロビーは照明が落とされたまま、真っ暗な状態だった。
そして、カウンターから見て右側に位置する事務室からは、斜めに明かりが洩れていた……ちなみにアトリエがあるのは、そこから廊下を左に歩いていった突き当たりだ。
これはたぶん、わたしの気のせいに違いないのだけれど、あたしはその時事務室に、誰かがいたような気がするのだ。
もしこんなことを口に出して言ったとしたら、笑われるに違いなかったけれど――その時、もしまだ<本物のレン>がエアコンのことで説明書なんかを机に広げていたのだとしたら、わたしにキスをしたレンは、幽霊か何かだったのではないだろうか……。
つまり、あまりにも長くあたしはレンに片想いをしていて、その間に随分仮想レンと恋愛妄想ごっこを繰り広げてきたのだ。そのことをあたしの記憶から読みとった幽霊のような存在が、ちょっと悪戯をしてみたといったようなことだったらどうしよう……。
もしそうなら、レンのほうからわたしに連絡してくることはないだろう。
何故といって彼は<本物のレン>ではなく、その時彼は画廊の事務室でエアコンの温度設定について首をひねりながら調べているところだったのだから。そして、アトリエへ戻ってくるとわたしの姿はすでになく、帰ったあとだったというわけだ。
(でも、あの情熱的なキスは、本当に現実に起こったことよ)
そうあたしは、ベッドの上で自分の唇に指で触れながら思う。
もしあの感触が偽物なら、これまでわたしがしてきたセックスに纏わる行為はすべて、そもそも全部偽物だったということだ。
でも問題は――レンの奴が一体いつあたしに対して申し開きのようなものをしにくるかということだった。
レンの奴は結婚しているので、当然「どうかしてた。悪い。すまない」といったようなことをわたしに言ってくるだろう。その点についてはまず間違いがない。
まかり間違っても、「実は俺、あんたのことが……」なんていう展開だけはありえないし、絶対に期待してもいけないのだ。
わたしにしても、99.9%(毛深い以外)欠点がなくて、もっとも完璧に近い結婚相手であるクマちゃんのことを、悲しませてはいけない。
何より一番最悪なのは、ついうっかり寝てしまって、その後数か月に渡って関係を続けるも、ある日恋愛の魔法がレンのほうに消えてなくなって、その頃にはあたしもクマちゃんを失っている……といったようなシナリオだ。
あたしはレンとは、これからもいい友達としてつきあっていきたいと思っている。
そしてそのことのほうが、一時的に恋愛関係なんていうものになるより、遥かに貴重なことなのだと、あたしはずっと自分に言い聞かせてきたではないか……。
あたしはレンが不意に突然やって来た場合に備えて、部屋を掃除しておこうかと思ったけれど、そんな気力は微塵もわいてこなかった。
冷蔵庫からミネラルウォーターとベーグルを持ってきて、それをほんの少しかじって食べたという、今日のあたしの食事はたったそれだけ。
そしてあたしが、(流石にこんなことじゃいけないわ)と思い、意を決してベッドから起き上がろうとした時――インターホンが鳴ったのだった。
(もしかして、レン!?)
あたしはライオンを発見した時のうさぎみたいに、ガバッと起き上がると、リビングにある電話のほうまで小走りに駆けていった。
こんなことなら、スッピンじゃなく化粧くらいしておくべきだったと思うけど、どのみちレンの奴には、そういう誤魔化しはきかないのだ。
あたしはTV電話のようになっているわけでもないのに、髪の毛を整え、気合を入れるように両頬を叩いてから、とびきり上品な声で応じた。
これで宅配便が届いただけだったりしたら、気が抜けるあまり、暫く動けなくなるかもしれない……なんて思いながら。
「はい?」
「あの、上月数馬です。昔、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』で、役者として鍛えてもらったデューク・サイトウ役の……」
――え?もしかしてあの数馬?
あたしは相手があまりにも思いがけない人物だっただけに、拍子抜けするというよりは、突然真人間に戻ったような感じだった。
何しろ、相手が誰であれ、部屋に入ってもらうには汚すぎるし(レンには以前「おまえ、もしかしてADHDか?女のくせに信じられない散らかりようだな」と、お褒めの言葉をいただいている)、かといって、霧島さんから電話で聞いた話によると、数馬は今相当落ちこんでいるということだったから――そんな彼のことを、「また今度」などと言って追い返すわけにもいかないと思ったのだ。
「わかったわ。今オートロックを解除するから、ちょっと待ってて」
数馬が十七階にあるこの部屋へ上がってくるまでに、まあ最低五分はかかるだろう。
それまでに居間のほうを少し見られるような感じにしておいて……邪魔なものは全部、とりあえず寝室に放りこんでおこう、うん。
そんなわけで、あたしは大慌てでパジャマから部屋着に着替え、髪の毛をブラシでとかすと、テーブルの上のものやソファの上のものを片付けはじめた。
「川上さんて、化粧落としてスッピンになるとそんな顔なんですか」とか、「せっかくいいマンションに住んでるのに、常時こんなに散らかっているんじゃ意味ないですね」とか、そういうニュアンスの読みとれる顔を数馬がしたとしても――まあ、しょうがない。
数馬はどうも、何かドラマの役が欲しくてあたしを訪ねにくるようだけれど、正直なところをいって、わたしが彼に対してどのくらい協力できるかというのは、限りなくあやしいものがある。
たとえば、わたしが今次のドラマの脚本をこれから書くところで、その打ち合わせにいった際に「△◇役は絶対上月数馬でお願いします!彼以外、役のイメージにあう俳優さんって、考えられませんから!」くらいのことなら、確かにわたしにも言えるけど……何分、今のあたしは次回作の構想すら思い浮かんでいない状態なのだ。
それに、都合よく数馬のイメージにぴったりな役のでてくる脚本も書けるかどうかわからない。
でも、『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』は、わたしに夢の持つ意味を教えてくれた、今も本当に大切な舞台だ。そしてその舞台が成功したのは一重に、主人公のデューク・サイトウを演じてくれた、上月数馬の功績が大きい。
そうした意味合いにおいて――わたしは彼に対して出来ることはなんでもしたいという気持ちはあったのだ、一応。