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Side:みちる-1-

 飛鳥ミチルの両親は、ふたりとも教師だった。

 父親が高校の英語教師で、母親が小学校で特殊学級を担当する教諭だった。

 小さな頃から英語をなるべくネイティブに近い発音で話せるよう躾けられたミチルは、英語に関してはもともと、そう苦労なく話せる語学的才能があった。

 そこに加えて、大学でフランス語を選択し、語学クラブに所属していたことで、ドイツ語もかなり話せるようになった。

 そして教育大学を卒業後、両親と同じ教職に就き、最初に勤めることになった公立高校で担当したクラスを見送ったのち――中学時代の親友に言われた言葉がきっかけで、海外へボランティア活動をしにいくことになった。

『ミチルってさ、ほんとつまんないよね。せっかく四ヶ国語も話せるのに、高校で国語とか教えてるんでしょ?それって、意味なくない?もっと自分の才能を活かして世界へ自由に羽ばたきたいとか思わないの?』

 そうミチルに言った親友は、もし彼女がボランティア活動というものに携わっていなかったとしたら――彼女自身が人生の落伍者としか思えない人生を送っている人物だった。

 高校を中退し、薬漬けになって道端に倒れていたところを、あるボランティア団体に拾われたのだ。以来、そこで働いているとはいえ、少しそのことを鼻にかけているような節があると、ミチルは随分前から思っていた。

 でも、彼女がしているホームレスの人たちを支援する活動は確かに尊いものだし、それに引き換え自分は何もしていないとも思い、ミチルはずっと黙って彼女――渡邊エリカの話を聞いていた。

 中学では仲が良かったものの、高校は別々だったので、エリカがどんどんおかしくなっていっても、ミチルにはどうすることも出来なかった。薬を買うためのお金が欲しいと言って、呂律のまわらない口で電話をしてきたことさえあったけれど、ミチルは彼女の言った嘘を信じた振りをして、お金を渡したことが何度かあった。

「普通さ、そんな奴に金渡しても返してもらえないって思わない?それにこのままずっと強請られるような感じでお金を渡すことになったらどうしよう……とか、そう思わなかった?」

 ――もちろん、ミチルはそう思った。

 でも、高校時代、彼女にはエリカほど仲のいい友達が出来なかったので(というか、ミチルはクラスで完全に浮いていた)、ミチルにはミチルで必要だったのだ。

 エリカにお金を渡すという行為が、何故かというのは言葉でうまく説明出来なかったとしても。

「あたし、ミチルのことは確かに羨ましいとは思うよ。両親がふたりとも教師なんていうクソつまんない職業に就いてる人たちでも――少なくともうちの親よりは百万倍立派な人たちだもんね。でもさ、あたしミチルになりたいとは思わない。そんな安定志向の暮らし、あたしにはどう考えてもつまんないとしか思えないもん」

 ミチル自身、何故エリカに言いたい放題のことを言わせておくのだろう、といつも思ったものだった。

 大学へ入ってから、ミチルにはエリカなどいなくても対等に話せるレベルの仲のいい友人が何人も出来た。生まれて初めてのボーイフレンドが出来たのも、この頃だった。

 それでも、やはりミチルはエリカから呼びだされると彼女に会い、一方的な説教にも近いような、ボランティア活動の素晴らしさについて、耳を傾けることになったのだ。

「彼氏か~。なんかいいよね、彼氏って。それで、どこまでいってるの?」

 薬を得るために売春行為を何度もしていたエリカは、特定の恋人が長くいなくても、その方面に自慢出来ることがたくさんあるとでも言いたげに、ミチルにそう聞いた。

「どこまでって?」

 ミチルにはエリカの聞きたいことがよくわかっていたが、わざと誤魔化した。

「セックスのことに決まってるじゃん。ミチルって、結婚するまでは操を守るとかいうタイプでしょう?なんかいいよね。今時そんな子、滅多にいないもん」

 一応念ために言っておくと、エリカは馬鹿にしてそう言ったわけではなかった。

 そこには、「出来るなら自分もそうありたかった」という願望が言葉の中にこもっていた。

 何故といえば、彼女の初めての相手は義理の父親だったのだから……。

「前から思ってたけど、ミチルって恋愛に関して意外とクールじゃない?わたしのまわりの他の子なんか、初キスして「わーっ!!」とか、初セックスで「キャーッ!!」とか、大体そんな感じよ?あとはフェラチオってどうしてもしなきゃダメかなとか、断ったら嫌われると思う?とか、そんな話ばっか。ミチルの大学の友達とか、そこらへんどう?」

「さあ……みんな、もう少し初々しい感じかな。合コンとかはあるけど、お持ち帰りされてホテルへ行ったとかいうのは、なんか都市伝説みたいな?そんな感じかも」

「都市伝説ねえ」

 つまんないあんたにしては、珍しく面白いこと言ったわね、というようにエリカは笑った。

 そう――ミチルとエリカの関係というのは、大体いつもそんな感じだった。

 エリカが親分で、ミチルが子分。そして子分は親分の言うことをなんでも聞かなければならない。まるでフリスビーを投げられた犬が、それをくわえて戻ってくるように。

 正直、大学にいた頃から、ボランティア活動に参加してみたら、とは繰り返し言われていた。

 でもミチルはそれを断り続けた……それが何故だったのか、今ならミチルにもその理由がよくわかる。

 ミチルはなんとなく<エリカ的世界の住人>になるのが怖いと無意識の内にも思っていたのだ。

 だから、なんでもいうことを聞く子分でも、その点だけは譲れないと思って抵抗していたのかもしれない。

<エリカ的世界の住人>とはつまり――明日、所持金が仮にたったの五十円であったとしても、「なんとかなるさ!」と笑って生きていける人たちのことである。

 もちろん、その点だけを強調するなら、<エリカ的世界の住人>たちは素晴らしかったともいえよう。

 けれども彼女たちというか彼らは、保険証も持っておらず、厚生年金もかけていないような人たちである。

 ミチルは両親から安定した職業に就くことの素晴らしさ、老後のために貯金することの素晴らしさ、また教職は実にやり甲斐のある仕事だと吹きこまれて育ったため、<エリカ的世界>のことを思っただけでも、無意識のうちにアレルギー反応がでたのかもしれない。

 けれども教職に就いて初めてクラス担任となり、彼女は教師という仕事に失望しきってしまった。そして悩んでいた時にエリカから再び「なんでそんなつまんないことで悩むわけ?もっと広い世界へ目を向けなよ」と言われ――長期休暇をとってエリカと一緒にアフガニスタンへ行くことになったのだ。

 それにしても何故アフガニスタンだったのだろう……もっと他の国でも良さそうなものなのに。

 ミチルはそう思ったが、子分としてエリカの言うことには逆らえない。

 そしてそこで紺野道弘というカリスマ的ボランティア活動者と出会い、ミチルの人生は変わった。

 誤解のないように説明しておくと、ミチルは紺野青年に恋心など抱いたことは一度もない。

 人間として彼のことは純粋に尊敬しているが、恋人とかなんとかいうことは一切考えられない……そうした意味合いにおいて、紺野青年は実に凄い人物だとミチルは思っていた。

 世界中からあらゆる人種のボランティアが集まっている中で、彼はすぐにリーダーとして頭角を現しはじめた。ちなみにこの紺野青年、ろくに英語もまともに話せないにも関わらず、人とコミュニケーションをとるのだけは抜群にうまかった。

 ミチルは通訳として彼と他の人間の間に挟まることが多かったけれど――紺野青年と同じく英語をあまり話せないエリカは、生まれて初めてミチルに嫉妬心を感じたらしい。

 そうなのだ。エリカは紺野青年のことが好きだった。そしてミチルは紺野青年に対して、凄い人だとは思うし、尊敬もしているけれど、そんな感情は一切抱いたことがなかった。

 けれど、エリカはミチルがどんどん親分のような存在になっていくのが耐えられなかったのかもしれない……結局、いくら否定しても、ミチルは紺野青年のことを心の奥深くで恋しているといった話の流れになり、エリカは三ヶ月もしないうちにアフガニスタンから帰国することになった。

 そしてエリカのかわりに派遣されてきたのが溝口清二さんという、三十代半ばの、年以上に老けてみえるおじさんだった。

 首都のカブールから孤児院まで戻ってくる途中で、彼もまた紺野青年と同様にさらわれたのだが、何故か彼だけすぐにタリバンの武装勢力から解放されていた。それが何故だったのか、理由のほうは判然としない……けれども、ミチルが思うには溝口さんは真っ黒に日焼けして相当現地人化していたので、そのせいだったのではないかと、なんとなくそんな気がしている。

 苦労の末にようやく孤児院の建物が建設され、これからさらに本格的な活動を……と思っていた矢先のことだっただけに、紺野青年を失うということは、他の孤児院を運営するスタッフの誰にとってもつらい痛手といえることだった。

 そして紺野青年の次にアフガニスタンの孤児院へやってきたのが――水嶋蓮という名前の、紺野道弘の高校時代からの親友だという青年だった。

 ミチルは彼がアフガニスタン孤児院の、入口付近に立っていた時のことを、今もよく覚えている。

 重いナップザックを三つほど背負い、汗だくになっている彼は、今にも倒れそうな顔色だった。

 誰も紺野のかわりになれる奴などいない……そういう雰囲気が運営スタッフ全員の共通した意識だったけれど、ミズシマ青年は彼なりに多国籍スタッフのメンバーに馴染んでいき、彼にペルシア語を教えるのは、ミチルの役割ということになった。

 正直なところをいって――ミチルのミズシマレンという青年に対する第一印象は、あまりいいものではなかった。

 何故といって、他の国の女性スタッフメンバーがほぼ全員、色のついた感情で彼に接することが多かったからである。

 スウェーデン人のセルマ・ヘイデンが、イタリア人のカテリーナ・ミデリにこう言っていたのを、ミチルは今もよく覚えているくらいだ。

「レンみたいな男にだったら、小指で撫でられただけでイッちゃうわよ」

「撫でられるって、一体どこをよ?」

 くすくすとカテリーナが笑う。

「決まってるでしょ。体中どこでも、よ。東洋人って、意外に神秘的よねえ。ミチヒロは特に恋愛感情を抱くようなタイプじゃなかったけど、それでもリーダーとしてカリスマ性があったし。そして今度はレンってわけ」

「確かにね。キム・ソンヨンが言ってたけど、日本ってアジアの中の一国って感じじゃないんだってよ?つまり、経済大国とかなんとかいう意味じゃなくて――アジアの中の韓国とか中国っていう感覚じゃ捉えられない、<日本>っていう全然別のアジアに属さない感じの国なんですって」

「ふうん。まあヨーロッパの中じゃイギリスみたいなもんかもね。イギリスって、絶対ヨーロッパって感じじゃないでしょ」

 ――そうした彼女たちの話を聞いたために、ミチルのレンに対する態度というのは最初、かなりのところ冷淡なものだった。

 もちろん、スタッフとして協力すべきところは協力するが、壁を一枚隔てて接するような感じで、あなたがそれを壊さない限り、わたしからは絶対に歩みよることはない……といったような態度で、ミチルはミズシマ青年と接し続けた。

「俺、アスカに何か悪いことしたっけ?」

 他の女性スタッフがみな好意的なのに――自分だけが距離をとっているから、そのことが気になったのかもしれないとミチルは思ったが、その手には乗らないとばかり、彼女は引き続きミズシマ青年とは壁を隔てて話すことにし、むしろ現地人と瓜ふたつといった感じの溝口氏と仲良くすることのほうを選んだ。

 エリカもそうだけれど、こういう場所に<恋愛感情>などというものを持ちこむ浮ついた人間が、ミチルは許せなかった。

 その点についてもやはり紺野青年は偉大だったとミチルは思ったが、それでも長く時を共に過ごすうちに――彼女にも、他の女性たちが何故そんなにレンのことを「いい」というのかが、わかってきたのである。

 そして、レンから「俺、アスカのことが好きみたいだ」とストレートに告白される頃になると、ミチルも彼の魅力の前にすっかり陥落してしまったというわけだ。

 アフガンから帰国するという時、ミチルは両親に「これからはレンと日本で暮らしたい」ということを噛んで含めるように話し、でもそのためには「自分はアフガンにいたいけれども、両親がどうしても日本にいてほしいと望むから……」といったような体裁が必要なのだと、うまく説明する必要があった。

「まあ、そりゃあね。孫の顔を見るのはやっぱり、安全な日本が一番だろうよ」

 父はひとり娘の言葉に納得し、母が「だからといって演技までするのはやりすぎじゃないかしらねえ」と言う言葉を退けた。でも、随分あとになってから――この時の母の言葉は、実は正しいものではなかったかとミチルは思い当たる。

 つまり、ミチルの母は「これから結婚するのに、本音で腹を割って話せないようでは、いつかどこかで何かがうまくいかなくなるよ」といったようなことを忠告したのだ。

 そしてその母の言葉は結婚後、一年以上もたってから見事に的中したといっていい。 

 夫はたぶん、家にいるよりもギャラリー・ガロにいる時間のほうが長く、結婚して一年がたつ頃にはミチルに対してなんの関心も払わなくなった。 

 最初は、レンに限ってありえないと思いつつも、浮気を微かに疑って、真夜中に<画廊・ガロ>まで行ったこともある。もちろん、中には入らないし、こっそり外から様子を窺うだけではあった。

 結果として、レンは決して浮気などしていないと信じることは出来たものの、それでも、夫をギャラリー・ガロに取られているような、そうしたおかしな感覚はミチルの中で拭えなかった。

 ミチルが生まれて初めてつきあった男性は、彼が海外研修でアメリカへいくまで――キスまでしか関係が進展しなかった。彼はとても真面目な人で、ミチル自身も彼女が自分でそうと信じているとおり、とても真面目な人間だった。

 けれども、大学二年の頃からつきあっているその彼が、海外研修で一年ほどアメリカへ行くという時、どうしても関係を持ちたいと迫ってきた。向こうへいったら一年は帰ってこれないのだし、帰ってきたら結婚したいと思っているから、どうしても、と。

 ミチルはあとになってから、どうして彼の要求を拒まなかったのだろうと、そう思った。

 もちろん拒めば別れが待っていると予感したからそうしたのだけれど、結局のところ彼とは結婚しなかったのだから……。 

 一年の間、恋人同士として毎日のようにメールで連絡をしあったりはしたものの、彼が帰国した時、ふたりの間は何故か以前のようにはうまくいかなくなっていた。

 もちろん、彼は浮気していなかったし、ミチルもそうしたことは一切なかった。

 でもこのまま結婚してもうまくいきそうにないことがわかっていただけに、ミチルは彼と別れることを決断したのである。

 そしてその時に学んだことがひとつある。

 女には、男にはわからない絶対領域というものがあるということだ。

 別れる時、彼は「あの時ああしておいて良かった」といったようなことを、どこかセンチメンタルな顔つきで語っていたのだが、ミチルの気持ちは正反対だった。

 つまり、「結婚しないなら何故こんな男に自分の処女を捧げてしまったのか」ということだ。

 このことを友人に話すと、「まあ、いい人生経験、恋愛経験の肥やしとでも思うしかないわね」と言われて終わりだったけれど……やはり自分がそう感じたことは正しかったのだと、レンに初めて抱かれてからミチルは確信していた。

 もちろんそんなことを今さら後悔したところで、遅かったにしても。

 エリカが言っていたとおり、ミチルは恋愛に関してはとてもクールな人間だった。

 まわりの友人たちが初キスで「わーっ!!」とか初セックスで「キャーッ!!」とか言っている間、随分恋愛の自慢話を聞かされたけれど、ミチルは決して同じようにはならなかった。

 そんなことをいちいち自慢するのは、低俗で馬鹿な女だけだと達観していたような節さえある。

 けれど、レンに「俺、アスカのことが好きみたいだ」と言われて以来――ミチルの中で生まれて初めて固かった恋という名の蕾が開きはじめた。

 そう――大学二年の時から三年つきあった初めての男のことなどは、ミチルにとっては今や過去の遺物と化していたといっていい。今のミチルになら、何故セルマ・ヘイデンが「小指で触られただけでイッちゃいそう」と言っていたのか、その言葉の意味がよくわかる。

 だから、レンが自分のことをあまり求めてこなくなった時、ミチルはとてもつらかった。

 時々、そうしたことがあっても、それはどこか「たまにはこういうこともしないと、夫婦といえなくなる」といったような、かつての強い情熱には遠く及ばない、以前ほどしっくりこない行為だったから……。

 けれど、慎み深い性格のミチルとしては「どうして最近、してくれないの?」などということは、口が裂けても絶対に言えない。

 女のプライドと見栄にかけて、絶対にそんなことを口に出してはいけなかった。

 ミチルは、どうすればレンにかつてあった自分に対する情熱が戻ってくるのか、それを取り戻す術を知りたかった。

 毎日豪華な食事を作って彼のことを待っていればいいのか、それともセックスレスで悩む女性に対して、カウンセラーがラジオで答えていたみたいに――セクシーな下着を身に着けて待っていればいいのか……もちろんこのうちの後者について、ミチルは実行しようなどとはまったく思わない。

 そんなことをすれば、自分は娼婦と呼ばれる女性と同じだとミチルは思った。

 今、ミチルが思うのは、次のことだけだった――それはつまり、もしあのままアフガンにい続けたとしたら、レンと自分の絆というのは、ずっと固く結ばれたままだったのではないかということだ。

 そして今、ミチルはアフガンの孤児院にいた子供たちから届いたメッセージカードを読み……涙を流していた。「Back my home」、いつでも戻ってきてとか、レンやミチルがいなくて寂しいとか、覚えたばかりのつたない英語で、そこには幼い文字が並んでいた。

(わたしはもしかして、この子たちを見捨てて、自分の幸せのことだけを考えたから、今こんな目に合っているのだろうか?)

 ミチルは特に自分に懐いていた、ムハンマドとその妹マリアムの写真を眺め、胸が痛くなった。

(今からでも遅くないなら、わたしはこの場所へ戻るのに……)

 でも、レンにはもうそのつもりのないことが、ミチルにはよくわかっていた。

 彼は、わたしではない何か別の存在と結婚していて、そちらに心を奪われているのだ。

 ミチルはじっと、それでもいつか夫の心が戻ってくればいいと思い、待ち続けていた。

 でももう無理なのではないかと思えること、そのうちに夫からもしかしたら離婚を切りだされるのではないかと思うと――そんな衝撃にはとても耐えられないと思った。

 もしそんなことにでもなったら、ギャラリー・ガロの前オーナーのように、自分も自殺してしまうだろう。

 それも、彼が今一番大切にしているあの場所で、あてつけがましい死に方をしてやろうと画策してしまうかもしれない。

 また、別れたくないがゆえに、結婚して以来一度も見せたことのない自分の別の顔――相当に見苦しくて、彼が直視したくない面もさらけだすことになるに違いなかった。

(でも、どうかそんなことになる前に)と、ミチルは近頃かなり本気で神さまに祈っている。

 イスラム教の神、アッラーを彼女は信じていないが、自分の願いごとをもし彼が叶えてくれるというのなら、毎日メッカの方向へ五度祈ることを死ぬまで続けても構わない、とさえミチルは思う。

(どうか、レンの心がわたしに戻ってきますように……それから、彼がもう一度わたしのことを<本当の女>として見てくれるようになりますように……)

 だが、その痛切な願いを、神が退けてよこそうとは、この時のミチルにはまだわからないことだった。




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