Side:レン-6-
俺はサクラが店から出ていったあと、再び棚のどこかにラピスラズリの岩絵の具がないかどうかと探しはじめた。
今描いている絵を制作するために、前もってかなりの分量を買っておいたはずなのだが――あと残り一瓶あったはずと思っていたのに、どこにもないことに気がついた。
ここから歩いて五分くらいのところに、今にも潰れそうな小さな画材店があるので、いつもそこで岩絵の具を俺は買うことにしている。ほんの十分程度ギャラリーを離れるだけだが、一応電話のほうは携帯に転送されるようセットし、店のドアのところに「すぐ戻ります」という札をかけておくことにする。
こうしたことというのは、吾味さんとの間ですでに取り決めがしてあった。
たとえば、誰かに個展のスペースを貸す場合、B5くらいの宣伝パンフレットのようなものを作って、それを近隣のお店に置いてもらうことにしている。そうした時に俺は短い時間とはいえ、ギャラリーに鍵をかけて離れなくてはならない。
どのみち、平時からそんなにたくさん人がくる画廊でないゆえに、短時間ならギャラリーを離れても何も問題はないと吾味さんには言われているのだ。
まあ、そんなわけで俺はラピスラズリの絵の具を買うために、暑い日差しの中を画材店に向かって歩いていった……そしてその途中、サクラの乗っている車と一瞬すれ違った。
あいつは俺の存在に気づかなかったようだが(気づいたらたぶん、あいつのことだからクラクションくらい鳴らすだろう)、フェアレディZに乗ったイケてるお姉さん風の女を見送って、俺はふとこう思った。
そういえば、まるであいつが自分のおふくろででもあるかのように、あいつが結婚することはないと自分が思いこんでいたのは何故なのだろう、と。
五時になり、ギャラリーを閉めると、俺はマーラーの交響曲を聴きながら、これでもう何者にも邪魔されることはないという安堵感を持って、創作活動に打ち込むことにした。
そして絵が完成するまで――深夜の二時半までアトリエにいて、それから妻の待つアパートへ戻った。
普通に考えたら、俺が浮気しているとミチルが勘違いしたとしてもまったくおかしくはない。
でも、実際のところ俺はこういう時間帯に帰ることがとても多かった。
本当は三時半、あるいは四時半、五時半まででも、ずっと絵を描いていたいと思うこともよくある。
たぶん俺がもし結婚していなかったら、ここに歯ブラシや髭剃りなどを持参して、泊まりこんで制作を続けることも出来たかもしれない。
けれども、一応ギャラリーに来た客が目の下にどす黒い隈のある男に驚かないためにも――俺はこのあたりが限界だろうと考えて、アパートへ戻ることにしていた。
ミチルには、先に寝ていていいと言ってあるけれど、彼女は俺が帰ってくると、必ず起きてきた。
「お仕事、ご苦労さま」
「ああ、いいよ、べつに。適当にお茶漬けでも食べるから」
というのが、俺たちの間で毎日のように交わされる会話だっただろうか。
正直なところを言って――俺は今、ミチルと話すことが何もない。
昼間訪ねてきたサクラとのように、<本当のこと>というのか、何か物事の本質に触れるようなことを話すでもなく……むしろ、そこに触れないように、差し障りのないことを見つけて会話をしているような感じだった。
「きのうは、命の電話のボランティアに行ってきたのか?」
「うん。いつもどおり二時間くらいの予定だったんだけど――最後に受けた電話の人と長く話しこむことになっちゃって。気づいたら三時間くらいになってたけど」
「そっか。大変だな」
命の電話で交わされた電話の内容は、守秘義務というものがあるので、当然それが身内の者であっても話すことは出来ない。
ゆえに、俺たちの会話というのは大体、ここらへんで終わってしまい……ミチルは「じゃあ、あたし寝るね」と言って、再びベッドに横になるのだった。
まだ結婚して二年にしかならないのに、俺とミチルとの間には会話がなくなるのと同時に、セックスもあまりしなくなった。
おそらくミチルもそう思っているに違いないが、どうしてこんなことになっているのか、俺にはよくわからない。もしかしたら、あのままアフガンに居続けたほうが、俺はミチルと夫婦としてうまくやっていけたのかもしれないとすら思う。
でも俺は――もうあの灼熱の砂漠の国へは戻れないと思っていた。
絵を描いていられるという今の恵まれた環境に、い続けられる限りい続けていたいとしか思えない。
そして、毎日俺は画廊のガロへ行くのが楽しみで仕方なかった。
ミチルが作ってくれる朝ごはんを特にありがたいとも思わず、どこか自動的に食べ、ギャラリーへ行くと「こここそが自分の生きるべき場所だ」という感じで生き生きと働いてしまう。
実際のところ、ガロでの仕事というのは月に最低保証金として十七万もらってもいいくらいの仕事であったかもしれない。
まず、ギャラリー内の清掃にはじまって、絵の売買やそれに伴う帳簿の管理についてなど、吾味さんは俺を信用しきってほとんど任せきりにしているので――そういう彼の期待に応えるためにも、俺は自分の絵の制作のことよりそちらを完璧にきちっとこなすことに神経を使っていた。
正直なところ、絵筆のノリが実にいい時に限って来客があったり電話がかかってきたりするので、俺が本当の意味で画業に打ちこめるのは、ギャラリーを閉めた夕方五時以降であったといえただろう。
そして普段土曜や日曜や祝日というのは、ガロの休業日なのだが――スペースを貸して個展を開いている期間は、土日祝日関係なくギャラリーを開くということになっている。
そんなわけで、俺はだんだんとミチルとすれ違っていくようになり、その溝がどんどん広がりつつあるのを自分でも止めることが出来ないままでいた。
<絵を描く>という行為は、俺にとって圧倒的なまでの恍惚感の得られる作業だった。
その恍惚感とミチルのことを天秤にかけると、俺は正直彼女のことなどどうでもいいと思ってしまう。
そして深夜の二時半ごろに、どこか重い気持ちで自分のアパートへと帰宅するのだ……ひどい時には、何故俺はこの女と結婚したのだろうと、彼女の寝顔を見ながら思うことさえある。
でもおそらくは――こうしたことというのは、どこの家庭にも大なり小なり似たような形で存在している問題なのだと思う。
俺のまわりでも、早い奴で二十二、三くらいで結婚した奴がいて、彼らが一度飲み会でこんな話をしていたことがある。
「俺、もう女房と、飼ってる犬と子供のこと以外で、話すことなんかなーんにもねえもんな」
「うちなんか、もっとひどいぞ。女房が子供と犬と結託して、俺のことを仲間外れにするんだ。おまえなんか、給料袋を持ってこなかったら、屁の役にも立たないみたいな感じでな」
「ひでえっ!!」
なんていう会話を聞きつつ俺が思ったのは――(自分だけはそんなことにはならない)ということだっただろうか。
でも現実はやはり……そうなってしまうのだ。というか、今現在そうなってしまっている。
セックスのことに関していえば、説明がもう少し複雑だ。
俺はいつも、女性の中にミューズ性のようなものを見出せないと、その女と寝たいと思えない。
つまり、それはどういうことかというと、それは俺にとって一種の<憑依現象>なのだ。
これは随分あとになってから気づいたことだったけれど――たとえば、七津美さんがそうだった。
俺は彼女の中に何かミューズのようなものを見出し、繰り返し何度も彼女と寝た。
でもあとになって、彼女との失恋の痛手が癒えてからわかったことは、ミューズの憑依現象というのは、ひとりの女性にそう長く留まり続けることが出来ないものらしいということだった。
そういう意味において、俺はミチルをモデルにして絵を描きたいと思ったことが一度もない。
いや、正確には一度だけある……「シュネムの女」というタイトルで、ブルカを被った女性のことを、俺はミチルをモデルにして描いた。
でもその絵を描き上げて彼女と寝て以来――俺はミチルのことを本当に欲しいとは思えていないのだ。
だが、結婚した以上は<義務>があるというその責任から、俺はどこか習慣的にこのアパートの寝室へ戻ってきているのではないかという気がする。
俺がアフガンから帰ってきてから描いているのは、風景画が主だが、それはどこででも何故かミューズの憑依した女性を見かけなくなったからかもしれない。
俺に自制する気持ちがあるから、ある種のフィルターがかかって、誰のこともそう見えなくなったのか……それとも、女性は結婚するとある種の<巫女性>を失うとよく言われるように、俺も結婚したことでかつてあった何か大切なものを失ってしまったのだろうか?
奇妙な話に聞こえるかもしれないけれど、俺はもう一度それが来て欲しいと願っていた。
それとも結婚したことで、芸術の女神が臍を曲げて俺の元へはもう来てくれなくなったということなのか?
そして俺は思う……もう一度<彼女>が自分の元へ来てくれるそのためなら、どんな犠牲も厭わず払うということを。
それからもうひとつ不思議なのは――いつも感じていた<彼女>(言いかえるなら美の女神)は、今俺の元にいないというのならば、一体どこへいっているのかということだった。