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咲希という名の花を育てる物語 ~支配を脱ぎ捨て、私の人生を咲かせるまで~  作者: 灯野 しおん


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第39話 同僚たちの視線

引っ越して二週間。新居での生活にも少しずつ慣れ、毎朝、自分で淹れたコーヒーを飲んでから家を出るというリズムが、私の中に根を下ろしていた。


職場のデスクで資料を作成していると、水瀬先輩がそっと私のデスクに歩み寄ってきた。湯気の上がるコーヒーが二つ。一つが私の手元に置かれる。以前の私なら、受け取った瞬間に「すみません! ありがとうございます! すぐに仕事に戻ります!」と、反射的に謝罪にも近い礼を述べ、恐縮しきっていたはずだ。


でも、今の私は少し違った。


「ありがとうございます。少し疲れていたところだったので、すごく嬉しいです」


私は自然に顔を上げ、先輩の目をしっかりと見て笑った。水瀬先輩は少しだけ目を細め、驚いたように、そして心から嬉しそうに微笑み返してくれた。


「咲希さん、最近すごくいい顔してるね。……なんだか、雰囲気が変わったっていうか、芯が強くなった気がする。以前は、どこか常に何かに怯えているような危うさがあったけど」


その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

以前の私は、先輩の評価を「母に報告するための材料」としてしか見ることができていなかった。「先輩に褒められたら母に自慢できる」「ミスをしたら母に叱られる」――そんな計算や恐怖ばかりが先走っていた。私には、私自身の感情がなかったのだ。


でも、今は違う。先輩からの言葉は、純粋に「私という人間への評価」として、まっすぐに心に届いた。


「……そうですか。実は二週間前、思い切って一人暮らしを始めたんです。先輩に相談に乗ってもらった、あの部屋です。おかげさまで、誰のためでもない、自分のための時間を大切にできるようになりました」


「そう! 引っ越し、無事にできたんだね。本当に良かった……。あの時、咲希さんの目がずっと何かを訴えていたから、少し心配していたのよ」


先輩は満足そうに頷いた。私は深く頭を下げる。


「はい。本当にありがとうございました。あの時、先輩が背中を押してくれなかったら、今の私はありませんでした」


先輩は「大げさよ」と笑い、私の肩を軽くポンと叩いて自分のデスクへ戻っていった。


横のデスクでは、他の同僚たちが雑談をしている。以前の私は、その輪に入れず、彼らの会話の端々から「私は疎外されている」という被害妄想を膨らませ、自分の作業に没頭するふりをしていた。けれど、今は違う。彼らは私を排除しようとしているわけではない。ただ、彼らの日常の中に私がまだいないだけなのだ。


「あ、それ昨日テレビでやってましたよね。面白そう」


私は勇気を出して、会話の端っこに声をかけた。

彼らが驚いて振り返り、「え、見てた? あれさ、結局……」と自然に会話を広げてくれる。なんてことのない日常会話。でも、私にとっては、誰かの輪の中に「一人の対等な存在」として立っているという、信じられないほど素晴らしい体験だった。


その日の夜、私は桜色のノートにペンを走らせる。


『職場での会話が、もう以前ほど怖くない。

あの頃の私は、自分以外の全員が「私をジャッジする人」に見えていた。でも、今の私は気づいている。彼らはみんな、私と同じように悩み、笑い、懸命に自分の人生を生きている一人ひとりの人間なんだって。

私を縛る人もいなければ、支配する人もいない。ただ、同じ空の下で、同じ時間を共有している仲間がいるだけ。ああ、世界はこんなにも、優しくて広い場所だったんだ。』


デスクに向かう背筋が伸びる。画面に映る数字たちが、以前よりもクリアに意味を持って見えてくる。

誰かに認められるためではなく、自分自身が納得できる成果を出すために、指先がリズミカルにキーボードを叩いていく。


私は自分自身を解放することで、ようやく世界と、そして周囲の人たちと「正しく」関われるようになったのだ。私はもう、誰かの支配下にある駒じゃない。自分の人生を、自分の足で力強く歩んでいる一人の人間なのだから。

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