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真夜中の『One More Kiss』、あるいは酔いどれ天使のポリリズム

ボストンの夜は、魂を凍結させる。

2026年、2月。街を包む冷気は、逃れようのない現実として僕の肺腑を突き刺す。


『S・ビッグバンド』の初練習。あんなものは練習とさえ呼べない。ただの騒音の品評会だ。譜面を無視してエフェクターを鳴らすライアン、拍を愛欲で歪ませるマスミ、そして、その中心で「接続」を囁くポッター。

僕は、逃げ出した。


ダイナー『Red Lantern』のカウンターで、ビルのジャンクなパスタを胃に流し込んでも、苛立ちは消えない。それどころか、マングースを抱えたメグ・ポッターが隣で『おなら・グルーヴ』をハミングし始めたことで、僕の脳内回路はオーバーヒート寸前だった。


「……ショーン。キミ、また数字の迷路に迷い込んでる。……ほら、ビルのケチャップ、……ブルー・ノートの香りがするよ?」


「……黙れ。キミの言うことは、1から10まで理解不能だ」


僕は彼女を無視し、冷めたコーヒーを飲み干した。

僕はエリートだ。伝説のピアニスト、マックス・ハミルトンの息子。ジャズは数学であり、論理であり、1分の隙もないスウィングの構築であるはずだった。なのに、なぜ僕のタクトは、あの「ガラクタ」たちに届かない?


その時。

ダイナーの重い扉が開き、ボストンの冷気と共に、1人の男が滑り込んできた。

派手な原色のシャツに、不釣り合いな毛皮のコート。

ハンス・アクセル・フォン・シュタイン。

僕をこの泥沼に引きずり込んだ、世界的なジャズ・インプレサリオ――そして、救いようのないエロジジイ。


「ヨォ、ショーン! それに、愛しのメグちゃん! こんなところでジャンクフードを突っついている場合じゃないヨ。今夜は僕が、本物の『夜のジャズ』を教えてあげまショウ!」


ミルヒーは、僕の襟首を強引に掴み上げた。


連れてこられたのは、ボストンの裏路地に潜むジャズ・クラブ『One More Kiss』だった。

煙草の煙と安酒の匂い。そして、ステージからは心臓を直撃するような、低く重いウッドベースの音が響いている。

ミルヒーはVIP席にどっかりと腰を下ろすと、慣れた手つきで派手な扇子を取り出した。


「いいかい、ショーン。キミの指揮は、まるでお行儀の良いクラシックの授業だ。……譜面通りに吹かせて、何が楽しいノ? ジャズは、呼吸だ。セックスだ。そして、裏切りの美学だヨ」


「……裏切りの美学だと?」


「そうサ。キミが『1』だと思った拍を、『1.5』で返す。そのズレこそが、女の吐息のように聴衆を狂わせる。……それにはまず、キミ自身がその『論理の檻』から脱獄しなければならない」


ミルヒーが指を鳴らすと、ホステスたちが次々と現れた。

そして始まったのは、ジャズでも何でもない。

――野球拳だった。


「アウトォ、セーフ、ヨヨイのヨイ!」


ミルヒーの嬌声がクラブに響き渡る。

世界的な巨匠が、ストリッパー相手に服を脱いでいる。

地獄だ。ここもまた、別の地獄だ。

僕は絶望に頭を抱えた。この男の下で、僕は一体何を学べばいいというのか。

だが、隣に座っていたメグだけは違った。


「……すごい。……ミルヒー、……拍が、……消えてる」


メグの青い瞳が、狂乱の野球拳を凝視している。

彼女には見えているのだ。ミルヒーがジャンケンを出す瞬間の、絶妙な「ため」。

ホステスを惑わせ、思考を麻痺させる、予測不能なリズムの緩急。

それは、彼が指揮棒を振る時に世界を熱狂させる、あの「魔法」の正体だった。


「……やってやる。やればいいんだろう!」


僕は自暴自棄になり、目の前のテキーラを煽った。

灼熱の液体が喉を焼き、脳内の「数学的秩序」が、音を立てて崩れ始める。

1、2、3、4。

僕が守ってきた拍動が、アルコールによって歪んでいく。


気づけば、僕はステージに上がっていた。

ギブソンのフルアコを抱え、目の前のピアノにはメグが座っている。

奏で始めたのは、深夜の底に沈むような『My Funny Valentine』。

だが、それは僕が知っている曲ではなかった。


メグのフェンダー・ローズが、歪んだ倍音を叩き出す。

彼女の音は、僕の正解をすべて「間違い」だと嘲笑う。

いつもなら怒鳴り散らしているはずの僕の指が、なぜか勝手に動いた。

メグのノイズに応えるように。僕が嫌悪していた「ズレ」を、僕自身が紡ぎ出している。


「……あ」


脳裏に、あの事故の記憶が過った。

10年前。墜落する機体の中で感じた、重力からの解放。

恐怖と快楽が入り混じった、絶対的な死の気配。

それが今、メグの不協和音と「接続」された。


綺麗なだけのジャズなんていらない。

正しいだけのタクトなんて、クソ喰らえだ。

僕は、自分の論理を自ら破壊した。

弦を弾く指が、血を滲ませる。

メグのピアノが、僕の魂を解体し、再構築していく。

僕たちは、ゴミ溜めの中で、確かに共鳴していた。


翌朝。

目が覚めると、僕は『Red Lantern』の奥のソファに転がされていた。

横では、メグがマングースを枕にして、幸せそうに寝息を立てていた。


「……最悪だ」


僕は呟きながら、這い出した。

飛行機恐怖症も、ボストンという座標も、何一つ変わっていない。

けれど、ポケットの中には、昨夜ミルヒーから手渡された紙切れがあった。


そこには、殴り書きでこう記されていた。

――『S・ビッグバンド、最初の課題曲:A列車で行こう(狂犬アレンジ)』


僕は、隣で眠る「野生の天才」を見下ろした。

この「欠陥品」を乗りこなさなければ、僕は一生、この雪に閉ざされた街から出ることはできない。


「……ポッター。起きろ。……パスタを作ってやる。……食ったら、練習だ」


メグが、片目だけを開けて、世界を解体するような笑みを浮かべた。


「……ショーン。……今朝の拍、……すごく、……おいしそうだよ」

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