密かな祈り
私のバイト先には五十を過ぎた冴えないおじさんがいる。とにかく冴えない。
バイト先には私と同じような女子大生が二人いる。私は二人と仲が良いし、遊びに行ったりもする。私達はバイトについて愚痴もよく言う。店の客で誰がお気に入りかも話す。でも、おじさんの話はほとんどしない。
だけど、私はおじさんが気になっていた。
…といっても、好きとか、そういう事ではない。そんな気はまったくない。若い女がおじさんを好きになる事はまずない。金を持っているなら別だけど。世のおじさんにはそういう変な期待はしないで欲しい。
私が気になっていたのは、おじさんが一体、何のために生きているのか、という事だった。
おじさんはいい年をしてアルバイトをしている。服装も綺麗じゃない。この年でアルバイトをしているのだから、これから金持ちになる見込みもないだろう。
私達はまだ若いから未来がある。希望がある。バイト先の女子大生三人はみんな彼氏がいる。私にも一つ年下の彼氏がいる。サークルで出会って、去年からの付き合いだ。
私達には先がある。つきたい職業、遊びたい事、彼氏とどこに行きたいか、どんな事をしたいか、そういう希望がある。
でもおじさんにはそういうものが感じられない。ほとんど希望というものが感じられない。というか生気が感じられない。生きているのか、心配になるくらいだ。おまけに誰も気にしていない。頭に浮かべる事もほとんどない。
そんな幽霊なような状態でどうしておじさんは生きているのだろう? 何を希望に生きているのだろう?
それが私には不思議だった。それで私は……聞いてみた。おじさんに。思い切って。怖かったけど、どうしても気になったから、私は聞いてみた。
これから書く事は私とおじさんの関わりについてだ。といってもそこにはドラマチックなものは一切ないけれど(そんなものはゴメンだ)。
※
おじさんと二人になる機会はあまりなかった。私の方でも、というか女子三人はおじさんと二人になる機会があるとそれを避けてきた。一方で、向こうはそういうのはあまり気にしていないようだった。
きっかけは些細な事だった。私が狭い休憩室で休んでいたら、ノックの音が聞こえた。
「はい?」
聞いたら、
「山崎だけど、入っていいでしょうか? 休憩の時間が遅れて、今取るように言われたんですが…」
私はちょうどいい機会だと思って
「いいですよ」
と答えた。おじさんは申し訳無さそうに背をかがめて、ドアを開けて中に入ってきた。ぺこりとお辞儀をすると、座布団を引き寄せて、部屋の隅に座った。私の事は気にかけず、スマートフォンを取り出して、画面を見始めた。
ほとんど話した事のない相手だったから緊張したけど、思い切って話しかける事にした。今話しかけないと、もうチャンスはないかもしれない。
「あの……山崎さん」
「はい?」
おじさんは顔を上げた。おじさんの耳の毛が一本長く伸びていて、それが気になった。
「ちょっと…いいですか?」
「はあ」
おじさんは私の顔を見ていた。なんていうこともない顔。イケメンとは言えないし、ブサイクというわけでもない。ただの、おじさんだ。力も金も持たない、持たざるおじさんだ。
「聞きたい事があるんですけど」
「はあ、仕事の事ですか?」
「…いえ、違います」
私は小さく深呼吸した。
「あの…聞きたいんですけど、変な質問で、すいません。ただ、どうしても聞きたかったので。もし、気分を悪くされたなら、小娘の馬鹿な発言だと思って流してくだされば大丈夫です」
「はあ」
「あの…どうして山崎さんはその…生きているんですか?」
おじさんは目をぱちくりさせた。
「あ、すいません。別に、そういう意味じゃなくて…ただ私は純粋な好奇心で…すいません、まだ若いもので。…ただ、私が気になったのは…その…失礼ですけど…とても、とても失礼な話ですけど…」
「はあ」
「山崎さんはもう結構お年を召していらっしゃるじゃないですか? もう五十は過ぎていますよね? それなのに、未だにアルバイトをしているという…いや、もちろん、いいんです。それはきっと個人の生き方で、人がどうこう言う事じゃないっていうの、それは、わかってます。ただ、私、気になったんです。山崎さんはこの年で、アルバイトで、いつも淡々と仕事をこなして、みんなと話さずそのまま帰りますよね。私、思ったんです。『この人は何を希望に生きているんだろう』って? 山崎さんは何か趣味でもあるんですか? それとも、実はお子さんがいらっしゃるとか? お子さんの成長が楽しみとか? …前に独身だと言っていたと思いますけど。ただ、その、私…気になったんです。山崎さんは一体、何を希望にして生きているんだろうって? 私、どうしてもそれが聞きたくって」
その時、山崎さんは一度も見た事のない表情を見せた。
山崎さんは薄く笑っていた。その顔には、どこか残忍な雰囲気があって、いつもの山崎さんとは違う感じだった。私にはよくわからないけど、きっと普通の人はこんな風に笑ったりはしないだろう。
「ふふっ…そうですね…」
山崎さんはスマートフォンを机の上に置いた。
「面白い事…いい事を聞きますね。…確かに、川田さんの言う通りかもしれません。私はおっしゃる通り、無趣味ですし、仮に趣味があったとしてもそれを生きがいにするタイプの人間ではありません。…それから、子供もいませんし、結婚もしていません。家族ももういません。親は亡くなってしまったし、兄弟は元からいません。全て、川田さんのおっしゃる通りですよ。おっしゃる通り。私は何の未来もなく、亡霊のように生きているんです…」
山崎さんは笑い続けていた。
「そうなんですか、失礼な事を言って申し訳ありません。…ただ、私どうしても気になったんで。教えてください、山崎さんは一体、何を希望に生きているんですか? 失礼な話ですけど、どうして今もアルバイトなんですか? どうして若い頃に努力して、何者かになろうとしなかったんですか? 昔は、夢や希望はあったんですか? どうして努力しなかったんでしょう? …すいません、失礼な質問で。でもどうしても気になるんです。一度、聞いてみたくって」
「持病がありましてね」
山崎さんはぽつんと言った。
「持病がありまして、私はあなたの言うような夢や希望といったものを持つ事ができなかったんですよ。若かった時間は病との闘いで終わりました。おかげで学校にもほとんど行けませんでしたし、働くどころではなかった。ずっと闘病をしていました。それで気がついたら、普通の人が取れるような人生のコースは取れなかったというわけです。……いや、わかりますよ、これは言い訳ではないかと。そう言われるかもしれませんね。実際、その通りですよ。私も、知っています。世の中には病気だったり、事故で両足を失ったりしても、努力を重ねて何者かになった人もいますよね。ほら、あの、四肢がないタレントがいたでしょう? …あんな人みたいに。でもね、私はそうする気がなかった。だから、あなたのおっしゃりたいように、病気で夢も希望も持てなかったと私が主張するのは、本当は言い訳に過ぎないんですよ。確かに、私は若い頃の大部分を闘病に費やしましたが、そこから何かをやろうという気はなかった。…だって、それこそ、闘病生活を本にして出版社に出してもらうようお願いするとか、色々な事が考えられたんですからね…」
「病気だったんですか」
私は申し訳ない気持ちになった。
「すいませんでした。よく知りもせずに…」
「謝る事はないですよ。実際、私は病気を言い訳に何もせずに生きてきたんだから。あなたのような前途ある人が私のような中年男を軽蔑するのはごく当然の話ですよ」
「それで…病気は今も?」
「こうした持病というのは完全に治る事はありません。今ももちろん続いています。死ぬまで続くでしょう。それで、あまり働けないのです。だから今のシフトが精一杯です」
「ですが、それならきっと、国からお金を貰って生活する事もできるんじゃないですか? 今はそういう制度があるでしょうし…」
「ああ、ありますね。私は貰う事ができますし、実際に、貰って生活していた期間もありました。でもああいうのはうんざりしましてね。まるで自分が国に生かされているゾンビみたいになって気持ち悪かった。変な話、不安なんですね。考えるわけですよ。『もし病気が治ったらどうしようか?』とか『自分は病気のフリをして国から金をもぎ取っているだけじゃないか?』とか。色々考えると気持ち悪くなったので、少なくてもいいから働いて生きていきたいと思って、それからはフリーター生活をしています」
「そうですか…事情も知らずに失礼な事を言って申し訳ありませんでした。そんな状況だったなんて…」
「いや、本当に謝る必要はないです」
山崎さんは笑っていた。
「謝る必要はないですよ。概ね、あなたのおっゃしる通りなんですから。確かに私は怠惰な人間です。あなたの言う通り、私は病気を言い訳にして、何も努力しなかったんですよ。それは、本当の事です。病気でもなんでも、例えば小説を書くとか、漫画家を目指すとか、色々な道はあったでしょう。でも私はなんにもしませんでした。だから、謝る事はないし、本当にあなたの言う通りですよ。…いや、お恥ずかしい話でしてね、若いあなたが疑問に思うのも当然だと思いますよ。何にもない空っぽの中年男が何故生きているのかと、何を拠り所にして生きているのか、と。あなたには前途があり希望があるのに私には何もない。何故、私が自殺しないのかと…」
「いえ、そんな……」
「私もね、考えてみたんですよ。考えた事があります、そうした事についてね。足りない脳みそで、考えました。私もやっぱり疑問だったわけです、あなたと同じように。あなたと同じ疑問を私も自分自身に対して持ちました。「何故私は自殺しないんだ?」って。これは謎でした。本来なら自殺してしかるべきなんですよ。あらゆる目標、夢、理想がなければ、自殺するしかないんです。それ以外に答えはないでしょう? …それでも私は生きている。若いあなたからは軽蔑されるような状況にいても、私は生きている。何もない、空っぽの人生。それなのに何故私は生きているのか? 何故、自殺しないのか? …私も随分と考えました」
「はい……それで……どうだったんですか?」
私はおそるおそる聞いてみた。
「それがですね、お恥ずかしい話、何の答えも出なかったんです。単に「死にたくないから」と考えてみましたが、これだって答えじゃないわけですしね。私、頭が悪いんで、考えても何も答えが出なかった。ただ、生きているんです、私。…何の希望もなくね。それで、私はもう考えるのをやめました。きっと、その時が来ればなるようになるだろうと思いましてね。一粒の麦……いや、これは余計なお世話でしたね。そうです、私はもう考えるのをやめました。馬鹿な私がこれ以上考えても仕方ないと悟って、諦めました。それで私はただ生きているんです。あなたの言われるような疑問を自分で考えてみたけれど、何にも浮かばず、諦めました」
山崎さんは力のない笑いを浮かべていた。
「…本当にごめんなさいね。あなたの期待するような答えが出なくて。申し訳ない。ただ、私も自分の頭の悪さを自分で改善する事はできないんでね。それで、考えるのをやめたわけです。ですから、私には日々があるだけです。あそこ…あそこに書いてあるシフト(そう言って山崎さんは壁に貼ってあるシフトを指さした)、あれが全てなんですよ。お恥ずかしい事に。私は毎日、あのシフトを見ます。(今日は仕事があるな)とか(明日は休みだな)とか考える。私に何かあるとすれば、それだけです。要するにあなたのような若い人にとっては単なる踏み台に過ぎないアルバイトが私にとっては終の棲家なんですよ。…恥ずかしい事に」
「それは…変な事を言って、どうもすみませんでした」
「謝る事はないんです」
山崎さんはまだ笑っていた。
「本当に、謝る事はないんですよ。むしろ、はっきりと言いたい事を言ってくれるあなたのような人が私は好きでしてね。心の中では軽蔑しているのに表では尊敬しているかのような態度を取る、そちらよりはずっとすっきりした態度で、いいですよ。その方が好きです。それにね、あなたくらいの年の人がそういう疑問を持つのは当たり前です。なにせ、あなたには未来がありますからね。私と違って…」
「未来…」
「そうです、あなたには未来があります。それに反して、私には何もない。いわば徒手空拳でしてね。何のいいところもない、その日暮しの人生。生きている事に意味があるのか。これで随分と思い悩んだ事もありましたが。でも、年を取るいい事の一つは、頭が馬鹿になるんで、難しい抽象的な思索はあまり続かないんですよ。それで、私も楽になりました。実を言うと、私も若い頃は野心があったんですがね。それは、もう消えました。…いえ、野心は、最初からなかったんですね、今思うと。世俗的な、つまりあなたのような人が思うような夢や希望は最初からなかったんですよ、最初から。それでも私は生きていた…今、私の肩には五十年を越える時間が降り積もっています。その重みで毎日、肩が凝りますよ、ハハハ。…でもまあ、この時間の堆積にもさしたる意味はない。私の家系は私で途絶え、それで全ては終わりです。まあいずれは人類も滅びるでしょうが、それはそれでその時の話です。そこまで考えても仕方ない。唯物論者には希望はないんですよ。で、私には…日々しかない。時間が「今」しかない。あなたのような未来ある人とは違います。あなたは、私を軽蔑して当然です。それが普通の若者の取る態度ですよ。何も間違っていませんよ」
「…そうですか、すいませんでした。よく知りもしないのに、わかったような事を言って」
「いえ、ですから謝る必要はありません。あなたは正しいんですから」
山崎さんは腕時計を見た。すると、急に慌て始めた。
「あ、時間だ。すいませんね、もう休憩時間一分過ぎてますね。余計な事をべらべら喋って引き止めてすいません。もう出た方がいいですよ」
私はスマートウォッチを見た。時間だ!
「すいません、行きます」
私は慌てて立ち上がり、休憩室を出た。休憩室を出る時、山崎さんがドアを開けてくれた。私は部屋から出た。チーフに怒られなければいいけど。チーフ、うるさいから。
※
その後、山崎さんとはほとんど話していない。挨拶程度だ。
私は山崎さんと話した内容を他の人には話してない。…いや、正確には話そうとしたけど、うまく話せなかった。
サオリにこの件を話そうとしたけど、うまく伝わらなかった。
「私さ、どうしても気になって、山崎さんに質問したんだ。この間」
「え? 何? 山崎さん? へー、何を聞いたの」
「うん、山崎さんって、一体何の為に生きているんだろう?って。何を希望に生きてるんだろうって。…何かさ、ひどい言い方だけど、私があの人の立場だったら、生きてても仕方ないかもって思うんだ。私、それがどうしても気になって、質問しちゃった」
「えー、ひどい。それはひどいよー。ひどいねえー」
…会話はいつもやっているようなおちゃらけた感じになって、言いたい事は伝わらなかった。とはいえ、後から考えてみると、そもそも私は山崎さんの言葉の意味がよくわかっていなかった。
山崎さんの返答にはどこかしらシリアスな雰囲気、つまりいつも見ている「アルバイトのおじさん」を逸脱したものがあった気がしたけど、それがどういうものかはわからなかった。いずれにしろ、私が山崎さんとの件をサオリに話そうとしたのは失敗した。
※
それから何があったって? …何にもなかった。何にも。
私はその後、山崎さんと話さなかった。挨拶をする事はあっても、それ以上話す事はなかった。
店では人が入れ替わった。サオリが辞めて、もう一人の仲の良かった子も辞めてしまった。私だけが残った。私は別にそこが良いと思っていたわけではないけれど、シフトの融通が効くので便利だったから、わざわざ動く必要はないと思っていた。時給は安いけれど。
私は大学生として普通に生きていて、彼氏とディズニーランドに行ったりして、多分、普通の女子として生きている、と思う。
山崎さんは相変わらずで、何にも希望のないような顔をして、本人が言ったように、毎日のシフトをこなしている。山崎さんはその後、一度も遅刻もせず、一度も欠勤もしなかった。山崎さんの病気の件はチーフ以外は知らないみたいだ。
そんなわけでもう話す事はないんだけれど、最後に、私が見た山崎さんのある姿について、少しだけ触れておこうと思う。
帰りがけだった。
私は用事があって早退するところだった。休憩室に制服を置きに行こうとしたら、ドアが開いているのに気づいた。
まわりを見ると、チーフと目が合って「今、山崎さんが休憩中だから」と小さな声で言った。チーフはそのまま去っていった。
私はどうしようか迷ったけれど、音を立てないようにドアをもう少しだけ開けて、中を覗いてみた。着替えてたりしたら、待つつもりだった。
山崎さんの姿が見えた。
山崎さんは座った状態で、机に両方の肘をつき、両手を額の前で組み合わせていた。
(何をしているんだろう?) 私は見入ってしまった。眠っているのかと思ったけれど、それにしては姿勢が変だ。
山崎さんの口元が震えるように動いたのが見えた。何か、呟いている。山崎さんが目を瞑っているのもわかった。眠っているわけではないようだ。
見ているうちに、私の中で『祈り』という言葉が閃いた。(祈り? 祈っている?)
山崎さんは手を固く組み合わせたまま、動かなかった。口元のつぶやきは消えたものの、手が微かに震えているのが見えた。
(祈っている? …一体、何をだろう…)
私がなおも見続けていると、山崎さんがゆっくりと両手を降ろした。今にも目を開けて、こちらに気づきそうだったので、私は慌ててドアから離れた。
(何をしていたんだろう? 何を祈っているんだろう?)
私は不思議だったが、山崎さんが何に祈るかなんて想像もできなかった。それに山崎さんがどこかの宗教に入っているという話も聞かなかった。
休憩室から離れた私は、前から来たチーフとぶつかりそうになった。
「お、危ないよ」
私は気が動転していたけれど
「山崎さん休憩中なんで、制服ここに置いておきますね。いいですよね」
と一声かけて、空いている棚のところに畳んだ制服を置いた。その後、チーフが何か言っていたけれど、私はずかずか歩いて、そのまま店を出た。
それが私の見た「光景」だった。私には、山崎さんが何に対して祈っていたのか、全くわからなかった。…いや、そもそもあれは祈っているのではないかもしれない。例えば、考え事をする時にはああいう姿勢になるとか…。
ただ私はあの山崎さんの姿を見て、少しばかり気になったのだった。
(もしかしたら山崎さんにはただのおじさんとは違う特別な何かがあるのかな…?)
私の心にその問いが一瞬よぎった。山崎さんの話していた事、そしてあの祈り。それらを足すと、もしかしたら山崎さんは普段、アルバイトをしているおじさんとは違う特殊な何かがあるのかもしれない…。
(いやいや、そんなわけはない。そんな事、あるはずがない)
帰り道、私は駅までの道を大股で歩きながら、急いでそんな自分の思考をかき消した。そんな事はあるはずがなかった。私はつい、変な事を考えてしまうのだ。そういう子なのだ。
私は自分の思考をかき消すのに必死だった。
(いやいや、そんな事があるはずがない。もし山崎さんが特殊な才能がある人だったら、その才能で有名になっているか、お金持ちになっているはずだ。確かに、病気なのは可哀想だけど、とはいえ、あの人はただの未来のないおじさんにすぎないんだ。私は変な考えをしているだけなんだ。あの人はどこにでもいる無名の、社会の底にうじゃうじゃといる希望のない中年男にすぎないんだ…)
私はそんな事をずっと考えていた。駅に着いて、ホームに降りると、ちょうどやって来た電車に飛び乗った。電車に乗っている時も、私は頭の中の思考を打ち消すのに必死だった。
その時、私が電車から見た風景は、いつもとは違う風景だった。
何故そうだったのか、わからない。本当に、わからない。後から考えても、さっぱり意味がわからなかった。でも、私には雪が見えた。幻の雪が。街には雪が降っていないのに、細かい雪が地上に降り注いでいるように私には見えた。雪は夜の街に静かに降っていた。私は窓の側に立ってそんな不思議な風景を見ながら、自分の思考を取り消すのに精一杯だった。




