恋とはかくも愚かなもの
白浜さん、あなたは一体何だったのですか――
*****
野湖町。
人口およそ三千人の、山と湖に囲まれた小さな町。
高校一年の夏休み初日、美波は自室でクラスメイトから借りた『うしおととら』を熟読していた。
「おまえはそこでかわいてゆけ、か……」
ページを閉じ、しみじみと余韻をかみしめる。
「よし、読書感想文はこれでいこう」
満足げに第7巻を胸に抱き、目を閉じた、その時――
ピンポーン ピポピポピポピポ!
静寂を破るように、インターホンがけたたましく鳴り響く。
階下から母の声が飛んだ。
「美波〜、渚ちゃん来てるわよ〜!」
(こんな朝っぱらから何の用……)
寝巻きのスウェットのまま玄関へ向かうと、渚が立っていた。
顎に手を当てて考え込んだかと思えば、口元を覆い、落ち着きなく視線を彷徨わせている。こんな渚を見たのは、「夢に佐藤健が出てきて『結婚しよう』って言われた」と真顔で告白してきた時以来だ。
「おはよー。どうした、こんな朝早く」
渚はガシッと肩をつかみ、真剣な目で告げる。
「落ち着いて聞いて……」
……まさか、死んだのか、誰か。
「やまむらの試食コーナーに、吉沢亮の上位互換がおった」
美波は脱力し、肩をつかむ手を払いのける。
やまむら――町で唯一のスーパー。小さいが、町民は皆ここで食材や日用品を買う。
「そんなものは存在しない。国宝を舐めるな……」
「マジなんよ! 来て!」
ええ〜! 着替えもせず、『うしおととら』第7巻を片手に、美波は渚に手を引かれ、スーパーやまむらへ走った。
*****
生肉売り場のウインナーコーナー。
――いた。
美波は我が目を疑った。
美しすぎる。あまりにも。
爪楊枝に刺したウインナーを配る青年の指は、細く長く、骨ばっているのにしなやかで美しい。手首の動きひとつにまで品が宿り、まるで映画のワンシーンのようだ。
ふと顔を上げた瞬間、柔らかく目元がほころび、その笑顔は光を直視したときのように胸を刺す。名札には、涼やかな筆跡で「白浜」とあった。
中年マダムたちはうっとりとウインナーを受け取り、去り際まで振り返っている。
「行こ、行こ」と渚が小声で促すが、白浜の美しさに当てられて美波は軽い呼吸困難を起こし、足がもつれた。
「どうぞ」
――声まで完璧だった。柔らかく、低く、包み込むような響き。
差し出されたのは、たこさんウインナーを逆さに刺した、薔薇のように美しい一品だった。あっという間にウインナーは売り切れ、白浜さんはバックヤードへと消えていった。
(な、なんでこんな小さい町の試食コーナーに、あんなイケメンが……!?)
翌日から噂は一気に町中へ広まり、やまむらには開店前から長蛇の列ができた。ウインナーの薔薇を巡ってマダムたちが小競り合いを起こすほどであった。スーパー側は「早朝待機」「出待ち」を禁止し、違反者は“スーパー出禁”と通達した。
スーパー出禁――それはつまり、この町で生活できなくなるに等しい。
灯油も買えない、正月のもち米も手に入らない、子どものおやつも調達できない。町民にとって、それは『やまむらの渇え殺し宣言』だった。
白浜さんに恋焦がれるマダムたちは、さすがに戦略を変え、美容室に通い詰め、洋服を新調し、若返りを目指して筋トレを始めた。やまむらの売り上げは跳ね上がり、店舗規模の拡大計画まで動き出した。町もなんだか活気づいていく。
「……美波、やっぱ早くスーパー着きたいよな」
「だよね、みんなに負けてらんないよ」
そうして2人は、少しでも早く開店ダッシュできるよう早朝のクラウチングスタートの練習を始めるのだった。
「フ!」
*****
白浜さんの試食コーナーには、今日も町の精鋭たちが集っていた。
「ほほほ……なんと芳醇な香り……!」
試食を口に含んだマダムが、恍惚とした面持ちで言葉を紡ぎ出す。
「薔薇ひらく 舌にひとひら 夏の味」
続いて、腰の曲がったおじいちゃんが列に加わった。
「ほっほ……この旨みはまるで、初恋の味じゃな……」
そしてぽつりと、
「血圧よ 今は上がるな 豚の花」
五・七・五の愛の俳句を添えて、にこにことレジへ向かっていく。
それを見た美波と渚は、悟った。
(語彙力がなければ、この美を正しく伝えられない……!)
その日から二人は国語の自主勉強に取り組み始めた。夜は詩や小説を読みふけり、机の引き出しには、新品の単語帳がぎっしりと詰まる。
ある日、いつものウインナー売り場へ駆け込んだ二人は、目を疑った。
白浜さんが――いない。
(まさか……異動!?)
慌てて店内を探すと、生鮮コーナーの一角に立つ白浜さんの姿を見つけた。
今日は小鍋で、オリーブオイルで焼いた魚を配っている。
「……なぜオリーブオイル……」
渚が息を呑む。
(あれは……スペインの香り……)
配られた一口を噛みしめながら、二人はすぐに議論を始めた。
「やっぱスペイン内戦後のオリーブオイル文化って、イベリア半島の地中海沿岸史抜きでは語れないよね」
「そうそう、あと植民地政策の影響も……てか白浜さんの焼き方、たぶんアンダルシア風だよ」
魚の一片にまで歴史と地理の背景を見出し、語り合う二人。
白浜さんは、そんな二人に柔らかく微笑み、
「お口に合いましたか」とだけ告げて、次のお客へと魚を差し出した。
その一言が、また二人の学びの炎に油を注ぐ。
(……次は世界史もやらなきゃ!)
***
しかし――。
夏休みが終わり、学校が始まった九月初旬。
やまむらに白浜さんの姿はなかった。どうやら夏休みが終わって、地元に戻ったようだった。
残されたのは、学力が妙に上がりすぎた二人と、白浜ブームで発展した町だけだった。
やまむらの外観は改装され、通りには新しいカフェが立ち並び、マダムたちは筋肉を誇るようになった。
それでも、試食コーナーの一角はぽっかりと空いている。
「……白浜さん」
「また、来てくれますよね」
その日も二人は、生肉売り場の片隅で、遠くから漂う肉の香りに、夏の名残を探していた。