父さんを怒らせてはいけない理由
※しいなここみ様主催『この部屋で○○してはいけない企画』参加作品です。
『絶対にお父さんを怒らせたらダメよ』
これは、僕が小さかった頃から母さんに繰り返し言われてきた我が家のルールだ。
まあ、父さんは仕事が忙しくて、家族とゆっくり過ごす時間も少なかったから、あまり接点はないんだけど。
でも、どうしてなんだろう。
母さんに何度理由を聞いても、教えてはくれなかった。
『シュウは知らなくてもいいことよ。いい、絶対に怒らせないでね。
特に応接室では、怒らせる可能性があるようなことは絶対にしないで。いいわね?』
父さんは、機械部品メーカーを経営している二代目社長だ。従業員20人ほどの小さな会社で、ほぼ『町工場』ってとこだけど、けっこうすごい技術を持っていて、大手メーカーなどからも頼りにされてるらしい。
3階建てのビルの1階が工場、2階が事務所で、3階が僕たちの住む家だ。
2階の一角に応接室があって、よく取引先の人なんかが来ている。
ごくたまに、母さんや事務員さんが忙しくて、僕が代わりにお客さんにお茶を出すこともあるんだけど、父さんはいつもむすっとした顔で話をしている。
怒ったところを見たことはないんだけど、笑った顔も見たことないんだよね。
なんていうか、いつも同じ表情に見えるんだけど。
あの父さんが実際に怒ったら、どんな感じになるのかな? ──まあ、わざわざ見たいとまでは思わないけど。
やがて僕も中学生になり、少しずつ知っている人の数が増えてくると、だんだん世の中のことが分かってきた。
どうやら世の中には、アニメで見るような仲良し家族とは正反対の家族の形もあるらしい。
──そして、僕はある可能性に気づいてしまった。
『お父さんを絶対に怒らせてはいけない』とあれだけ言ってきたってことは──もしかして母さんは、父さんから家庭内暴力を受けているんじゃないだろうか。
そういえば、応接室にはウチの会社が今までに作った部品のサンプルがたくさん置いてある。
母さんが『特に応接室では絶対に怒らせるな』って言ってたのは、あれらが凶器になることを恐れてのことなんじゃないだろうか。
──それからしばらく、僕は両親の様子をこっそり観察し続けた。でも、特にふたりが揉めている様子もないし、母さんがどこかに怪我をしている様子もない。
うーん、これは僕の考えすぎだったのかな。
そんなふうに思い始めたある日──僕は初めて、父さんの怒る姿を目撃してしまったのだ。
夏休みの午後、自分の部屋で宿題を片付けていると、母さんから連絡があった。
『ごめん、この後お客さんが来るから、簡単に応接の片付けしといて!』
まあ、この程度の手伝いはよくあることなので、特に気にせずに2階に降りていくと、応接の中から父さんが電話で誰かと話している声が聞こえてきた。
『──そ、そんな、無茶ですよ! こんな納期の間際になってから仕様変更なんて!? ──ちょっと、もしもし! もしもーし!?』
ああ、小さい会社は切ないなぁ。大企業からの無茶振りとかにも応えなきゃならないし。
『──冗談じゃない! たった1ミリ削るだけって言ったって、それを何千個やらなきゃいけないと思ってるんだ!』
──あれ? これってもしかして、怒ってる?
僕が好奇心にかられて、こっそり覗いてみようとドアに近づくと、部屋の中から『ドン! ドン!』という鈍い音が聞こえてきた。
これって、何か物に当たり散らしているとか──?
そして、そうっとドアの隙間から覗いてみると。
『ふざけるな! 現場を知らない奴が気軽に言いやがって!
そんなに、簡単だと、思うんなら、お前が、やって、みろってんだ!』
罵声を発しながら──父さんは地団太を踏んでいた。
そう、子どもなんかがわがままを言う時に、地面を何度も踏みつけるアレだ。
──何だよこれ。
僕が呆気に取られていると、やがて父さんは床の上に仰向けに寝転び、手足や頭を激しく振りながら暴れ出したのだ。
『くそーっ! やってられっかよー! もうやめてやるー! チクショーっ!』
……それは、小っちゃな子どもがおもちゃ売り場なんかで駄々をこねてる姿そのものだった。
僕はそっとその場を離れて、事務所内の母さんのデスクに向かった。一応、秘密を知ってしまったことは報告しておくべきかと思ったので。
「ああ、シュウ、応接は片付けてくれた?」
「いや、そのつもりだったんだけどさ。中で父さんが、その、『怒ってた』から……」
「あちゃー、ついに見ちゃったかー。ああなっちゃうと長いのよねぇ」
母さんは天を仰いで溜息をついた。
──元々、父さんは子どもみたいに喜怒哀楽がはっきり出るタイプだったらしい。でも、そのままでは会社を継いだ時に古参社員たちにナメられかねないので、あまり感情を表に出さずに仏頂面でいるよう意識したんだとか。
まあ、日頃そんなふうに感情を抑え込んでる分、たまに反動がああやって出ちゃうんだろうな。
「さすがに、あんな姿を子どもに見られたら、父親としての威厳も何もあったもんじゃないしね。
もちろん、取引先の人にも絶対に見せられないから、応接室では要注意だったのよ。
──で、シュウ。お父さんのあの姿を見て、正直どう思った?」
「いや、もうドン引きだわ。──あれ、そういやこの後、来客があるんじゃなかったっけ?」
「忘れてた! 早くお父さんをなだめてこなきゃ!
あー、めんどくさいなぁ、もう」
ぶつくさと愚痴る母さんに、僕はもうひとつだけ訊いてみた。
「ねぇ、母さん。そんなめんどくさい人と、よく結婚する気になったよね?」
「それがねぇ、あんなとこも『可愛い』と思えちゃうのが、恋愛の怖いとこなのよ」