動き出すエルミア
「う……ん……」
「とりあえず、これで大丈夫かな」
悪役令嬢ことアリシアを客室のベッドに寝かせると、彼女が握りしめていた『求人のチラシ』が床にひらりと落ちた。
手に取ってみると、チラシはしわと泥にまみれ、一部は汗で濡れて破れてしまい、印字も薄くなっている。
余程長い時間、握りしめていたんだろう。
一体、どうしてここまでこのチラシを大切にしていたんだろうか。
チラシをベッド近くの机に置いて考えを巡らせていると、部屋の扉が叩かれた。
「エル、入って大丈夫かしら」
「あぁ、大丈夫ですよ」
返事をすると、すぐに母さんとメイド達が入室する。
見やれば、メイド達が水の入った桶やタオルに加え、着替えらしいものまで用意していた。
「エル、レインズから話は聞いたわ。処置は任せて」
「うん、お願いするよ。母さん」
母さんの名前は『フィリア・ディルハルト』。
身長が150cmの妖精族で僕と同じ浅葱色の長髪と水色の綺麗な瞳をしている。
小柄な妖精族は大人でも身長が160cmぐらいだが、属性魔法の扱いを得意とし、容姿の成長が20歳で止まって、以降は死ぬまで老いることはない。
寿命は人族より長く、健康であれば大体100年以上は生きられるらしい。
「エル……様」
踵を返そうとしたその時、アリシアに愛称を呼ばれて驚き振り向くが、彼女は目を瞑ったままだった。
「お願いします。どうか、どうか働かせて……ください」
「大丈夫、ちゃんと僕が雇ってあげるから。今は体を治して、ね」
アリシアの頭を優しく撫でると、心なしか荒かった息が落ち着いたような気がする。
良かったと、僕は胸を撫で下ろした。
それにしても、本当にこの子の身に一体何が起きたというんだろうか。
断罪回避に向けて、6歳から今現在に至るまで八方手は尽くした。
結果、僕やディルハルト侯爵家は断罪されていないし、王都から届く先月の定期連絡では『第一王子アルガス・ジオ・グロリオサとアリシア・ヴァレンティアの仲は良好』という報告を得ていた。
まさか先月から今月にまでの短期間で、何か王都で問題が発生したのか。
いや、それなら報告が来るはずだ。
でも、そうした報告は受けていない。
そういえば、まだ今月はヴァレンティア家に潜入させているメイドからの定期連絡は届いていなかったな。
そろそろ届くだろうが、催促の連絡でもしてみるか。
「へぇ、エル。貴方って、そんな顔もできたのね」
「え……?」
母さんのにやついたような声にハッとすると、何やら生暖かい視線を感じた。
周囲を見渡すと、母さんを始め、メイド達が揃いも揃ってにやついている。
「なんですか。皆揃って、その顔は……」
「いいえ。ただ、もしかすると、この子が貴方の『ここ』を撃ち抜いたんじゃないかなぁって」
母さんは口元を押さえ、意味深に目を細めながら僕の左胸を指差した。
「な……⁉」
図星……なんかじゃない。
頭でそうは思っても、指摘で全身の血が沸騰しそうな位に火照っていく。
脳裏にはアリシアと目が合ったときの、映像がゆっくりと再生される。
顔は熱いし、手と背中は汗でびっしょり、喉まで渇いてきた。
これも、僕に流れる妖精族の血が騒いでいるんだろうか。
僕は否定するべく、慌てて頭を振った。
「ち、違います。目が合った時、胸がどきんとかしてませんし、絶対に一目惚れなんかじゃありません」
そう言ってつんと口を尖らせると、「じゃあ、後は任せましたからね」と言い残して踵を返した。
「あらあら、どうやら本当に撃ち抜かれたみたいね。後で彼女の容態を伝えに行くから、詳しい話をきかせてもらうわよ」
「知りません。それよりも、ちゃんとアリシア様の手当てをお願いしますよ」
「はーい」
母さんの軽い口調にため息を吐いていると、「でも、汗がすごいわね。とりあえず体を拭きましょう。皆、服を脱がすわよ」という声に「はい、畏まりました」というメイドの声が聞こえてきた。
アリシアの服を脱がす、だって⁉ その言葉だけで、思春期的な映像が脳裏で次々と再生されていく。
「さぁ、エルは早く出て行きなさい。それから、振り向いちゃ駄目よ」
「そんなこと、言われなくてもわかってますよ」
母さんの揶揄うような口調に、僕は『絶対わざとだ』と心の中で舌打ちすると、売り言葉に買い言葉のように発し、慌てて客室から退室した。
まったく、母さんめ。
額に手を当ててやれやれと頭を振っていると、「エルミア様」と名前を呼ばれる。
振り向くと、そこにはレインズが真顔で畏まっていた。
どうやら、僕が客室にいる間に何かあったらしい。
「……どうした」
「今し方、王都のヴァレンティア家に潜入しているダリアの名でこちらが届きました」
「これは……」
レインズから受け取った封筒の裏には、右下に小さく『緊急』という日本語が書かれていた。
この世界の文字や言葉は日本語じゃない。
では、どうして手紙に日本語が使われているのか。
それは僕が情報収集するため、様々なところに潜入させた諜報員が使用する『暗号』として利用しているからだ。
日本語は習得するのは大変だが『ひらがな』『カタカナ』『漢字』『漢数』という種類が多く、表現の幅も広くて使い勝手がよい。
言葉の意味についても、この世界で調べる方法は皆無。
異世界において、これほど暗号に適した言語はないだろう。
すぐに封を開けて内容を読みたいところだが、廊下のど真ん中では人目に触れる。
「わかった。すぐに執務室に戻ろう」
「アリシア様の傍にいなくてよろしいのですか?」
「残念だけど、今の僕に出来ることはない。彼女のことは母さんに任せるよ」
僕はため息を吐くと、執務室に向けて歩き出した。
手紙の差出人の名前は『ダリア・マルセット』。
彼女もレインズ同様、僕が記憶を取り戻してからディルハルト家で採用した少女の一人だ。
ダリアは幼い頃から頭の回転が速く、器量よしに加えて容姿端麗だった。
だからこそ、一番難しくて大変であろう悪役令嬢の『ヴァレンティア公爵家』にメイドとして潜入してもらっている。
その彼女からの報告は、先月まで『異常なし』だった。
しかし、現実はアリシアがディルハルト家を突然訪ねてきて、この『緊急』と書かれた手紙がダリアから届いたのである。
もしかすると、まだ『断罪回避』は終わっていないのかもしれない。
僕は足を進めながら考えを巡らせ、横目でレインズを見やった。
「ただちに各地の諜報員へ緊急事態が発生したと連絡をいれろ。どんな些細なことでもいい。現状のヴァレンティア公爵家とアリシア・ヴァレンティアの情報を集め、3日……いや2日以内に報告。それから、緊急事態解除の指示をするまでは定期連絡を3日ごとに変更。そして、これは決して演習ではないと、伝えろ」
「しかし、連絡は内容を確認してからの方がよくありませんか?」
「手間を惜しむな」
レインズの問い掛けに足を止めると、僕は彼を見据えた。
「手紙を見ようが見まいが、どちらにしても情報収集の指示は出す。結果は変わらない。それに、今は一刻を争う」
「承知しました。差し出がましいことを申しましたこと、お詫びいたします」
「いや、気にするな。それから、ダリアの身にも危険が迫っているかもしれない。各地の『隠れ宿』にも連絡を頼む」
「畏まりました。手配を進めておきます」
レインズは会釈すると、心なしか急ぎ足でこの場を去った。
彼とダリアはディルハルト家で幼くして出会った、いわゆる幼馴染みというやつだ。
互いに想い合っているようだが機会に恵まれず、今もその関係は進展していない。
「心配なら、心配だと言えば良いのに」
僕は肩を竦めると、目的地である執務室に急いだ。
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