前編
四作目。
二話完結型のショートストーリーです。
目を覚ますと、そこは屋敷の中だった。
黒い壁。黒い天井。そのどちらにも明かりが灯り、重苦しい空間ながらに不思議と居心地は良い。
周りを見渡せば大きな本棚が幾つも並び、重厚な書物がぎっしりと窮屈そうに押し詰められていた。
窓は無い。
外の景色も当然見えない。
時計も無い。
これじゃあ、今が夜なのか朝なのかも分からない。
部屋の奥には扉がひとつだけ。
古い扉だ。錆びて、色褪せ、今にも腐り落ちてしまいそうだ。
見知らぬ屋敷。その一室。僕は椅子に座っている。目の前にはこれまた古いテーブルがひとつ。周りは本棚ばかり。時間も、場所も、何よりも僕がここにいる理由が分からない。
目が覚めたらここにいた。
そうだ。僕は眠っていたんだ。ずっとずっと、長い間眠っていた気がする。
「お目覚めになりましたか我が主」
透き通るような声がした。
僕は咄嗟に声の方を見る。
古びた扉。
その前にはいつの間にやらひとりの少女が立っていた。
白くきめ細やかな肌。
金色の煌めく宝石のような髪。
青く、大きく、汚れ一つない澄んだ瞳。
全てが完璧だった。
美しく、儚い。その少女に僕は思わず息を呑んだ。
「⋯⋯綺麗だ」
「当然でございます。このヘルツ、完璧なことが取柄ですから。それよりも我が主。まだ寝ぼけているのですか?」
無表情のまま少女が詰め寄る。
僕の隣に立ち、青い瞳で見下ろす。
「僕が寝ぼけている⋯⋯?」
「そのように見えますが。では少し確認を。私の年齢は?」
初対面であるはずの少女が問いかける。
当然知る由も無い。
美しい顔をじっくりと見ればどこか稚く、小柄な体からしても成人はしていないはずだ。
「十四歳ぐらいに見えるけど」
「なるほど。では私の好きな食べ物は?」
知らない。
考えて当たるわけも無いので、僕の好きな食べ物でも答えることにした。
「ちくわぶ⋯⋯とか?」
「⋯⋯ちくわぶ」
静かに少女が繰り返した。
表情に変わりは無いが、心なしか呆れているようにも見える。⋯⋯ちくわぶ美味しいのに。
「えっと、じゃあしめ鯖? それともらっきょう?」
「もういいです我が主。これは重傷ですね」
やはり無表情のままに、少女は大げさな動作のみで落胆を表した。
文字通りに頭を抱え、ハァっと発声しながら深く溜息をつく。
余りにもわざとらしい動きや表現に若干の違和感を抱くが、その意味を考えるよりも先に、少女の顔が急接近した。
可愛らしい顔が僕の視界を埋め尽くし、小さな吐息までもが聞こえる距離。甘く優しい匂いが鼻をくすぐり、真っすぐに見つめる彼女の青い瞳は僕の心臓を射抜くようだった。
「なっ、ちょ!?」
「暴れないでください我が主。荒治療ですが、目を完全に覚ますにはこの方法しかありません」
恥ずかしさから反射的に拒絶しようとした僕の体を押さえつけるようにして、少女が両肩に手を乗せる。力は弱い。でも、たったそれだけで僕の体は、まるで自分の物ではないかのように言う事を聞かなくなってしまう。
「では失礼します」
美しき少女が目を閉じた。
え、待って。これってつまりそういうこと⋯⋯?
ゆっくりと近づく柔らかい唇に目を奪われながらも、少女の奇行を理解した僕は慌てて叫んだ。
「まっ、待って!? まだ心の準備が——」
「とりゃ」
熱に支配された頭に、強い衝撃が走った。
バチッ、と電流が流れて弾けたような音。
続いて訪れたのは圧倒的な痛みで、僕は堪えることができずに地面に倒れた。
「ッゥ⋯⋯」
歯を食いしばり、悶え苦しみながらもようやく痛みが引いてきた所で、僕は不意打ちの頭突きを食らわせてきたアイツのことを、涙を溜めた目で睨んだ。
「急に何するんだよヘルツ! 痛いだろ!」
「申し訳ございません我が主。ですが、目は覚めたようですね」
「あぁお陰様でね!」
僕は乱暴に椅子を引くと、ドサリ、と腰を下ろした。
「でも頭突きをすることはないだろ。天才的な頭脳が壊れたらどうするつもりだ!」
「安心してください。出血はおろか、傷一つ付いてはおりませんので。ほら御覧ください。美しい限りでございましょう」
前髪をたくし上げ、ヘルツが額を見せつける。
「いや、お前じゃなくて僕の頭のことだ!」
「なるほど。てっきり天才的な頭脳と仰られたので私の事かと」
驚くように口に手を当てて、少しばかりヘルツが目を見開いた。
わざとらしい。
いつにも増してわざとらしい。コイツは僕の頭脳がどれだけ貴重であるかを理解していないのだろうか。
「いいかヘルツ。僕は——」
と、説教を始めようとした矢先、突如として屋敷全体を揺らす程の大地震が発生した。
外からは激しい爆発音が鳴り響き、部屋に灯された明かりが点滅する。
僕は体が倒れないように、座っていた椅子の肘掛けを必死に握りしめた。
数秒後。
揺れは次第に収まっていくと、屋敷の中には再び平和が訪れた。
「⋯⋯何だったんだ今の。地震か?」
「左様でございますね」
「でも外で何か爆発してたよな」
「気のせいです我が主。今のは間違いなく地震でございます」
ヘルツが断言する。
相変らずの無表情のため何を考えているのかは分からないが、彼女が言うのならば間違いはない。根拠は無いが、何故だかそう思えた。
「まぁいいや。ヘルツ、本棚から適当に魔導書を選んでくれ」
「了解しました我が主」
素直に頷いたヘルツは一番近くにあった本棚に近づくと、右から左へと視線を動かし、上の段から順番に本を選別していく。
そんな、小さくてどこか寂し気なヘルツの背中をぼんやり眺めていると、ふと疑問が浮かんだ。
「そういえば、結構激しい揺れだったのに本棚どころか本一冊落ちていないな」
「この屋敷全体には〝保存〟の魔法が施されておりますので。例え何十年、何百年、何千年の時が経とうとも、屋敷にある全ての物は魔法を施した際の状態を保つことができます。壊れることも、倒れることも、動くことも無い。⋯⋯私か我が主の意思を除いては」
ヘルツは説明を終えると、本棚から一冊の本を取り出して僕の前に置いた。
黒く分厚い本だ。
汚れも無い。状態も良い。これもその〝保存〟の魔法によるものだろう。
「なるほどな。だからさっきの揺れで椅子も動かなかったのか。普通なら椅子ごと倒れてるはずだし。でも、そんな高度な魔法を一体誰が?」
「この屋敷の主様でございます」
「僕が?」
全く身に覚えが無い⋯⋯いや、違うな。言われてみれば確かにそうだった気がする。何よりも、こんな魔法を扱える人間なんて、この世に僕以外考えられない。
「ふっ、やっぱり僕は天才だな。これこそがまさに大賢者だ」
気分を良くした僕は、さらなる高みを目指して魔導書を開いた。
常人を遥かに超える速度で黙読し、魔法の知識を理解していく。
文字を目で追い、脳に送り、ページを捲る。そうして十ページ目を読み終えた僕は、魔導書をパタリと閉じた。
「⋯⋯全部知ってる」
当たり前の事実に気づかされる。
だってそうだろう。僕は世界一の頭脳を持つ大賢者なんだ。この屋敷にある魔導書なんて、全て理解していて当然だ。
「暇つぶしにもならない。なんなら目を瞑ってもこの魔導書に書かれている全ての文字と術式を読むことだってできる」
「左様でございますか」
「魔導書はやめだ。なぁヘルツ。何か面白いことは無いかな」
「と、言いますと?」
ヘルツが首を傾げる。
「ほら、趣味になるような事とか。例えば〝料理〟ってやつをしてみたい。食材を用意してくれ」
「申し訳ございません我が主。この屋敷は〝料理〟禁止でございます」
初耳だった。
そもそも料理が禁止なら、僕らが普段食べている物に説明が付かない。って、アレ? そういえばいつも何を食べていたんだっけ?
少しだけ考えてみる。
が、どうでもよいことか。今重要なのは〝料理〟が禁止の理由だ。
「何で禁止なんだよ」
「昔、この屋敷の主様がそう決めました」
「なるほど。ルールは大事だしな。じゃあ〝ペット〟という物を飼うか。愛玩動物だ」
「申し訳ございません我が主。この屋敷は〝ペット〟禁止でございます」
「なるほど。やっぱりルールってクソだな」
僕は大きな溜息をついた。
一体誰だこんなルールを作った奴は。
叶うことならば顔を拝んでやりたいものだ。
「退屈な屋敷だよ本当。いっそのこと外に出たい」
「いけません我が主。それだけは絶対に」
隣に立ち続けたままだったヘルツが、一歩だけ近づく。
声色も表情も変化は無かった。
だが、有無を言わせないような圧を感じた。
「⋯⋯分かったよ。でも残念だ。外に出れば僕という大賢者の力を思う存分発揮できるのに」
「そのことですが。大賢者とは一体なんでしょうか?」
「知らないのかヘルツ。大賢者っていうのは魔法を極めし天才のことを指すんだ。そう、まさに僕のような!」
世界に存在する全ての魔法を網羅し、今では魔法について僕が知らないことは無い。この屋敷の魔導書を全て記憶しているのが良い証拠だ。
「これからは僕を大賢者様と呼ぶことを許可してあげよう」
「善処いたします我が主。ですが、大賢者と呼ばれるに相応しい人間は他に居るように思います。そちらの魔導書の最終頁をお開きください」
言われるがままに僕は魔導書を再び開く。
最終ページの最後の行。そこには、この魔導書を作り上げた著者の名前が綴られていた。
「ゼーレ・ルンティア? 女か?」
「男性でございます。この屋敷に眠る魔導書の全ては、生前に彼が残したものとされております」
「これを全て⋯⋯?」
部屋の中に見渡す限り広がる本棚。敷き詰められた魔導書。それは優に百冊を超えており、この全てをたったひとりの人間が作り上げたなど俄かには信じられなかった。
「⋯⋯ゼーレ・ルンティア、か」
僕は視線を落とすと、魔導書に刻まれた彼の名前をそっと指でなぞった。
偉大な男だ。
心の底からそう思う。
僕は魔法が大好きだ。
新しい魔法を探すことも、作り出すことも。魔法にはいつだって驚きと可能性が詰まっている。
だが、そんな僕にもゼーレ・ルンティアのような偉業はきっと成しえない。人生の大半を捧げ、百をも超える魔導書を生み出すなど到底不可能だ。
ゼーレ・ルンティア。
コイツは凄い男だ。初めて他人に対して敬意を感じるよ。
この名前だけは決して忘れないようにしよう。
心に⋯⋯魂にその名前を刻もう。
ゼーレ・ルンティア。
彼こそが真の大賢者の名前だ。
「悔しいが認めるしかないな。だが、僕はまだ大賢者になることを諦めたわけじゃない。ゼーレ・ルンティアのように未来に魔法を残せるような偉業を⋯⋯」
未来。
その言葉を口にした時、僕の中にとある閃きが舞い降りた。
「⋯⋯未来。そうだ、未来だ! 未来にはまだまだ僕の知らない魔法がある! 未来に行けばその魔法を研究し、さらなる高みへ到達することができる!」
何故もっと早くに思いつかなかったのだろう。
未来に行くことができれば退屈な日々とも別れ、心行くまで新しい魔法を学ぶことができるじゃないか!
「やはり僕は天才だ! これでゼーレ・ルンティアのような大賢者になれる!」
「流石でございます我が主。ですがそれは少し、いえかなり卑怯では?」
「うぐっ⋯⋯い、いいんだよ! それよりもヘルツ。確かこの屋敷には〝未来へ渡る〟魔法について書かれた魔導書があったはずだ。たぶん!」
何故だか記憶が曖昧で確信はできないが、脳の片隅に薄っすらと断片的だが〝未来へ渡る〟魔法についての覚えがあった。
屋敷の魔導書は全て記憶したつもりだったが、僕もまだまだだな。
「了解しました我が主。既にご用意させていただいております」
ヘルツが突然、自身の服の中を弄り始めた。
大体お腹の辺りだろうか。
暫くもぞもぞと両手を動かしていたヘルツだったが、目当ての物を探り当てたようで、服の中から取り出したのは二冊の本だった。
一冊は赤い本。
もう一冊は青い本だ。
どちらも分厚く大きな魔導書で、一体彼女の服の中にどうやって仕舞われていたのか些か疑問ではあったが、僕の興味は完全に未知の魔法に奪われてしまっていた。
「それが〝未来へ渡る〟魔法の書かれた魔導書か!」
「⋯⋯⋯⋯」
「ん? どうしたヘルツ」
珍しくヘルツが押し黙った。
彼女は両手にそれぞれ持った魔導書を見つめ、何かを考えているようだ。
少しの間。
ヘルツは決心したように青色の魔導書を再び服の中に仕舞うと、残された赤色の魔導書を僕の目の前に置いた。
「こちらが〝未来へ渡る〟魔法でございます我が主」
「そうか。ちなみにもう一冊の魔導書はなんだったんだ?」
「あの本は魔導書ではなく私のポエム集でございます。良ければ音読いたしましょうか? 第一章『恋はしめ鯖』」
「⋯⋯いや、いいよ」
題名からして碌な物ではない。
僕は切り替えるようにして赤色の魔導書に手を伸ばした。
「これが〝未来へ渡る〟魔法⋯⋯」
今までに見たことが無い複雑な術式だ。
天才の僕ですら、じっくりと読み込まないと理解することすらできない。
「⋯⋯ふむふむ。って、オイ! ヘルツ! ここ破けているじゃないか!」
驚きの余り声を荒げて僕は魔導書を指差した。
序盤のとあるページが破れ、ごっそりと抜け落ちていたのだ。
「〝保存〟の魔法が施されているはずだろ?」
「恐らく〝保存〟の魔法が施される前からこの状態だったのでしょう。幸い、魔法の発動に関しては不要な頁のようですので問題は無いかと」
「なら、いいが⋯⋯」
少しだけ違和感が胸に引っ掛かるが、確かに読む限りは、この破けたページは魔法を扱うにおいて不要なものであるようだった。
「よし! それじゃあ読み終えたらすぐに魔法を発動させる準備に取り掛かるぞ! ヘルツ。当然、お前も来るよな?」
僕が尋ねると、ヘルツは真っすぐに此方を見据えて答えた。
「勿論でございます我が主。このヘルツ、どんなことがあろうともどんな時であろうとも、貴方様と永遠に一緒でございます」