永遠の感謝をあなたに
フランカは走り去っていくエミの背中をじっと眺めた。次第に遠くなって、小さくなる彼女の背中は、幼い頃を彷彿とさせる。
「いつまで経っても、私の見るエミ様は変わらないのですね……」
背後から足音が聞こえてくる、エミが走り去った方向と反対側から。足音はフランカの方に一歩ずつ近づいていく。フランカは後ろを振り返り、背後にいる何者かに視線を向けた。
「ナイトメア!!」
人の形をしていた。でも、それが自分と同じ「人間」には見えなかった。身長は百八十センチほど。漆黒のマントは裾がボロボロで所々に凝固した血が付いている。仮面から覗く目は威圧と殺気に満ち溢れ、見つめられただけで足が竦んでしまう。
悪夢そのものだった。恐怖そのものだった。戦う前から、そんな弱気を思ってしまった。
「さっきぶりだな、別れは済んだか?」
フランカは服の裾に隠していたダガーを取り出し、刃先をナイトメアに向けた。ナイトメアも同じく拳を握り、戦闘体制を取った。
ナイトメアの素性は一切明かされていない。生まれも育ちも、本当の名も誰も知らない。ただし、彼が関与したと思われる殺人は数知れず。しかし誰も、彼自身を己の目で見たことがない。謂わば、噂に過ぎない存在でもあった。
フランカは意気揚々と目の前の敵に見せつけるような不適な笑みを浮かべる。それはまるであの時のような、若い日のような闘争の本能が蘇る。
「いいえ、別れではありません。約束ですから」
持っていた最後のダガーを空中高く放り投げた。あたり一面に霧が立ち込める。ナイトメアはフランカに向かって走り出した。霧を裂いて裂いて彼女の元まで走る。しかし何処にもその姿はなく、霧を裂いて出てくるのは灼熱の炎だけだった。
「貴様、望縁魔法を発動したな」
霧が晴れた。しかし、そこに広がっていた景色は路地裏ではなく、見えるもの全て焼き尽くす世界だった。世界の中心でフランカはダガーを地面に突き立てた。地面から突き出る炎は剣を表し、常に降り注ぐ火は生命を表す。
その世界に時間はなく、従来の世界の法則など通用しない。この世界はフランカこそがルールであり、彼女こそ絶対の存在である。ここはフランカが心の奥底で思い描いた魔法が常時発動している世界。
「私が唯一できる勝つための魔術。私の魔力全てを注ぎ込んでようやく発動できた。ですが大変申し訳ございません、エミ様。ご命令は果たせそうにないです」
天にも届きそうな勢いで飛び上がった。その姿はまるで鳥のようであった。太陽のような熱気を纏い、炎を自在に操る姿は見るもの全てを焼き焦がす。
「穿て矢よ、大地焼き裂く光となりて」
自分自身を矢のように放ち、一直線の軌道を描きながらナイトメアに向かって突き進んだ。全てを焼き尽くす炎と共に、光のような速さで彼女は渾身の一撃をぶつけた。
ナイトメアは拳を握った袖から黒い流動体を流れ出した。その流動体はまるで生き物のように意志を持っているような挙動をしていた。流動体は地面を流れるとナイトメアの影と同化し、姿を隠した。
フランカは戦いながら、不自然に思うことがあった。ナイトメアはこれほどの灼熱を全身に浴びても汗ひとつかいていない、身体中を掻きむしることもなかった。その耐久度は生物の垣根を超えている。ナイトメアは人間ではないと言う憶測が頭の中で駆け巡る。
やがて、二人は激しくぶつかり合った。火花が散り、轟音が鳴り響く。二人が起こした衝撃波は一瞬にして結界内の炎を散り散りにした。ナイトメアは圧倒的な威力を誇るフランカの全力に、押し潰されそうになる。
「私の最後!!」
手の中にずっと隠し持っていたナイフをナイトメアの脳天に貫くよう全力で投げつける。超近距離から投げられたそれは人の目では追うことができない。
「終わりだ!! ナイトメア!!!!」
炎が彼女の声に呼応するように、さらに激しく燃え上がる。地獄の業火なんて火力不足に思えてしまう。
その瞬間、ナイトメアが全てを見透かしたように、フッと笑う。
「お前のような奴の殺し方は知っているぞ!!」
ナイトメアは、投げられたナイフの軌道を既に見切っていた。首を横に傾け、飛んできたナイフを軽々と避けた。
最後の希望と言えるであろうナイフはナイトメアの仮面をかすり、ただ側面を削るに過ぎなかった。瞬間、フランカは滝のように血を吐き、目から黒い流動体が涙のように流れ落ちる。
「グッ……!!」
ナイトメアの袖から流れ出ていた黒い流動体はスパイクとなりフランカの腹部を奥まで穿った。彼女の内部に入った流動体は彼女の身体中を蝕んでいく。血中や内臓、神経系にまで到達し、身体の自由を奪い取る。
「上からの指示でお前の身体は殺さないようにしろと言われている」
結界の壁が崩れ始めた。天井からはいつも通りの太陽の光が差し込む。燃え続けていた炎は勢いを失い、灰となって風に飛ばされていった。
やがて結界は完全に崩壊し、結界の中心だった場所には体中から血を流すフランカが倒れている。
散らばった流動体がナイトメアの袖に吸い込まれていく。小さな竜巻のように細長くなりながら袖の中に集まっていく。
ナイトメアは倒れたフランカの頭を踏みつけ、冷酷な眼差しを向ける。
「最後に言い残す言葉は?」
フランカは途切れ途切れの呼吸で最後の言葉を言う。その表情はどこか安堵したような安心しきっている顔だった。
彼女は指先すら動かせないほど衰弱し身体は次第に冷たくなっていく。
喉に血が溜まった嗄れた声で呟く。
「……エミ様……約束……ごめんなさい」
ナイトメアはフランカの首を切り落とした。
フランカの首が足元に転がる。ナイトメアはそれを拾い上げ、真っ黒い布に包んだ。
「この女、エミ・ローレンに認識阻害と魔力障壁の術を施しやがった。これじゃあ居場所を掴めない。最期まで用意周到だな、これがメイドってやつなのかもしれないな」
雨が降る。最初は微かに肌を撫でるように、やがて大降りになる。
その日のエミ・ローレンの捜索は終了した。町の至る所に彼女の手配書が貼り出された。多額の懸賞金がかけられ、彼女の生死は問わず、見つけ次第直ちに報告しろという内容だ。誰もが金目当てにエミ・ローレンを探し始めた。至る所から目撃が相次ぐがどれも信憑性に欠けるものばかりで捜索は困難を極めた。