笑みと涙の少女
エミとフランカは町の薄暗い路地裏まで逃げ込んだ。人通りなんてない、捨てられたゴミが放置されているような路地裏。服に染み付くような臭いが漂う。
「ここまで来れば、きっと大丈夫です」
周りを見渡したフランカは、追手がいないことを確認した。エミが降りやすいように、若干腰を曲げる。
「エミ様、もう降りても大丈夫ですよ」
抱えられていたエミは下を見ながら、フランカの腕の中を滑るように降りる。
フランカは背負っていた剣を、エミに手渡す。
「エミ様、これをあなたに」
「この剣は一体何?」
「これはローレン家によって守られてきた聖剣『フレイ・ギブン』です。生前、貴方のお父様やお母様がお守りして来た剣です」
エミは幼い頃から両親に、この剣を守ることがローレン家の使命だと教わってきた。けれど実物を見るのは、これが初めてだ。ずっと邸宅の地下に保管され、有事の際以外にそこは開けてはならなかったからだ。
初めて見た聖剣は凶器というには美しく、優しすぎる見た目をしていた。本当にこれで人を、生命を、殺せるのか? と疑問にすら思ってしまう。
「これが聖剣……実在していたんだ」
「これからは貴方がこの剣を守る番です。それとエミ様、少しこちらに来てください」
「何をするの?」
「ちょっとしたことです」
フランカはエミのことをギュッと抱きしめた。裁判所から逃げ出すときよりも強い力で抱きしめる。エミがフランカに、こんなふうにギュッと抱きしめられるのは、幼い頃以来だ。
両親が亡くなって邸宅はエミ一人が守らないといけなくなったとき、雇っていた侍女たちは次々と離れて行った。けれどフランカだけは残ってくれた。エミの側にいてくれた。
それだけでエミは嬉しかった……
「フランカ……息苦しい」
「あと、もう少しだけです」
フランカの抱きしめる力が徐々に弱くなる。エミは身体の中から軽くなるような感じがした。エミが顔を上げるとフランカは優しく微笑む。彼女はいつもこうだ。
両親を亡くしてしまったエミが寂しくならないように、とエミのお母様のような優しさでいつも振る舞ってくれた。そんなフランカにエミは、いつまで経っても甘えてばかりだ。
「これでもう大丈夫です」
「何をしたの?」
「あの裁判所にかけられていた魔術がエミ様にまだ残っていたので、解除しました」
「どんな魔術だったの?」
「思考力が著しく低下してしまうものです。あの『審判の目』に術式が施されていました。恐らくは、ベルベッドが仕掛けたものでしょう」
「そうだったのね」
(だから私は裁判中に意識がはっきりとしないで、自分で自分のことが分からなくなったんだ。きっと傍聴席にいた人たちも同じ魔術をかけられていたんだ)
それよりも、腑に落ちないことがエミにあった。
「でも魔術の解除だったら抱きつく必要なんてなかったんじゃ?」
寂しそうな表情を浮かべるフランカの手は震えていた。彼女は自他共に認める最強だ。エミも今まで彼女よりも強い人を見たことがない、そんな彼女の手が震えている。これはきっと余程のことがあるに違いないとエミは渋々思った。
「……フランカ?」
「いいえ、すみません。これで最後と考えると、なんだか感慨深くて……」
「最後じゃないわ。一緒に邸宅まで戻りましょう。それで、いつも通りの日常を取り戻すの……」
「残念ながら、それは出来ません。エミ様、貴方の邸宅は既にベルベッドの兵達に包囲されています。その聖剣を持ってくるだけで苦労しました」
「そんな……それじゃあ、今後どうするの?」
「エミ様は今日中にここから、お逃げになってください。その聖剣とこれをお持ちなって」
震えた手で黒いローブとマスカレードマスクを差し出してきた。
確かにこれをつければ顔と身体を隠すことはできる。でも、それじゃ……
「フランカ、貴方はどうするの? 貴方はどうやってここから逃げるの?」
「私はここでナイトメアと交戦します。きっと、奴は近くいるでしょう。ですから、エミ様は今すぐ逃げて下さい。そのマスクには認識阻害の術が施されていますから身体だけでなく素性も隠せます」
「そんなのダメ!! 私も一緒にナイトメアと戦う!! だから貴方を置いて逃げることなんて……」
「いいえ、なりません。ナイトメアは強い。恐らく、私より数段も……ですから、貴方だけでもどうか生き延びて下さい。今の私には奴をここで足止めするくらいしか出来ません」
フランカの固く握られた拳は今にも血を流してしまいそうな程に力が込められている。もう片方の手には形状が変化していない、ダガーが握られていた。
フランカは今にも泣き出してしまいそうな声と表情で、エミを送り出そうとした。
「エミ様、今までありがとうございました……こんな私を側に置いてくれて」
(こんな最後は絶対に嫌だ。私もフランカも望んじゃいない。でもフランカが最後だと言うのなら、私だって一つ我儘を言ってやる)
「フランカ、私から命令するわ……絶対に生き残りなさい!!」
フランカは少し驚いたような顔になったが、すぐにいつものような笑顔になった。優しくて慈愛に満ちているエミが一番好きな表情。
「はい、その命令は必ず遂行いたします。だから、どうかお元気で……エミ様」
路地裏から飛び出すようにして走り出した。もう決して、後ろは振り返らない。
フランカなら絶対に生き延びてくれる。だって、血は繋がってないけれど私のことを心の底から愛してくれた人だから
幸い、フランカから貰ったマスクとローブのおかげで路地裏から出てきても「エミ・ローレン」本人だとバレることはなかった。町にはベルベッドの兵が総力を挙げてエミを探している。
「バレないうちにこの町から逃げなくては……」
走ってるとフランカと出会った日のことを思い出す。今でこそ彼女は優しいし、頼り甲斐があるけれど、初めてエミと出会ったときはそんなことなかった。
第一印象は最悪そのものだった。仕事中に平然とタバコを吸うし、人相は悪いし、口も悪いし、メイドなのに料理も洗濯もできない。おまけに仕事はよく抜け出してサボる。
お父様はどうしてこんな人を雇ったのだろう? と、ずっとエミは疑問に思っていた。エミがお父様にそのことを話しても「彼女には別の魅力がある」ばかり言って、ずっとはぐらかされるばかりで何も分からず仕舞いだった。
エミが六歳の頃。邸宅を抜け出して近くの森まで木の実を集めに行ったときのこと。お母様が作ってくれたモンブランをエミも作ってみたくなって、黙って邸宅から抜け出した。
ちょうどいい大きさの木の実を何個も拾いながら歩き回った。夜になり、だんだんと外が暗くなってもエミは集めるのをやめなかった。
あたり一面が闇に包まれたとき、エミは邸宅の場所が分からなくなってしまった。邸宅の近くだけで木の実を集めていた筈なのに、いつの間にか私は邸宅よりも遠くの方まで来ていた。夜は魔獣が活発になる時間帯。
早く邸宅に戻らないと行けなかった。でも彼女は邸宅までの道が分からない。エミはただ泣くことしかできなかった。泣き声に反応して近くの魔獣がエミの居場所に勘づいた。
更に時間が経って、エミの周りに腹を空かせた魔獣たちが影から忍び寄っているのを感じた。エミは必死に逃げようとするも、足がすくんで動けなくなっていた。ここは邸宅から距離が遠い。誰も助けに来れない。そう思っていた。
「お嬢さまぁ、どこにいんだよ? この辺から声が聞こえた気がしたんだけどな」
フランカの声が聞こえた。いつものように気怠そうな声。
エミは大きな声で彼女の名前を何度も呼んで、その場で何度も飛び跳ねて自分の居場所を示した。フランカがエミに気付いた。けれど彼女が気付くのと同時に魔獣もエミに向かって飛び出してきた。
「あ、見つけた。待ってろ、今そっちに向かう。あと大声を出すな、魔獣に喰われるぞ」
エミは口を抑え息を殺した。けれど遅かった、魔獣は大きな口を開けて飛びかかってきた。エミは声にならない悲鳴をあげた。
生きてる心地がしなかった。目をつぶって少しでも恐怖から目を背けるも、もう駄目だと思い、死を悟った。しかし、いくら時間が経っても魔獣は私を襲ってはこなかった。
「……もう魔獣はいねえよ」
フランカがそう言う。ゆっくりと目を開ける。幼い頃のエミにはかなりショッキングで、思わずその場で吐いてしまった。せっかく拾った木の実も吐瀉物に塗れてしまった。
エミの周りにいた魔獣たちが全て首を刎ねられて死んでいた。エミに飛びかかってきた魔獣も首を刎ねられ、魔獣の血が足元に流れる。
「大丈夫か? 歩けるか?」
「ううん、無理。歩けない」
「分かったよ」
フランカはエミを肩に担いで抱えた。本当はお姫様抱っこしてもらいたかったけれど、そんな我儘言えるほどエミに体力は残ってなかった。
フランカは私を抱えながらタバコを口咥え、火をつけた。
「それで、どうして黙って森に行ったんだ?」
「……お母様に、私が作ったモンブラン、食べて欲しかったから……」
「ハァ、なんだそんなことかよ」
フランカはタバコの煙が混じったため息を吐いた。歩きながらタバコを吸ってるから、エミが煙を吸い込んでしまい、思わず咽せてしまった。
「なんだ、そんなことで夜まで栗を探してたのかよ」
「……うん。でも、材料があって作り方分からないから意味なかった」
「じゃあ今度一緒にモンブラン作るか?」
「作れるの?」
「私はメイドだ。料理くらい簡単にできる」
「じゃあ今度一緒に作ろ! 約束ね! あと私タバコ嫌い!」
「ああ、そうだったのか……」
少し残念そうな顔をしながらフランカはタバコの火を指で弾いて消した。この日以来、フランカはタバコを吸わなくなった。
この日エミは、フランカの唯一無二の優しさを感じた。最後まで諦めずに自分を探してくれたフランカに心の底から感謝した。フランカの最悪だった第一印象はこの日で全部覆った。
エミが邸宅に戻ったときにお母様とお父様に鬼のように怒られて大泣きしてしまった。
大泣きしたエミを慰めたのもフランカだった。
エミを慰めたフランカも実は、メイド服を、血塗れ、泥まみれにしてしまったことを他のメイドたちから叱られた後だった。
フランカはエミにとって姉であり、親友のような、かけがけのない存在だった。エミはやがて彼女の背中を追うようになっていた。
エミが町の大通りを全力で駆け抜ける。
(雨が降ってきそう……今降られたら前が見えなくなる)
灰色の雲が空を覆い尽くし、ポツリポツリと微かな雨粒が空高い所から落ちる。
エミは頭の上に手を乗せて、雨を塞いで走る。これで多少の雨は塞ぐことができる。
けれど時間と共に雨は激しさを増していく。雨粒は大粒に変わり、地面を叩きつけるような勢いで降り注ぐ。
次第にエミの足が停まり始め、彼女は上を見上げた。まるで時間が止まったかのように、周りの雨音が遠ざかる。
「フランカ、私は貴方を待っているわ。だから、貴方も絶対、絶対に……」
エミの頬を一滴の雫が伝う。