平和の反対
〈王城政務室〉
激昂したベルベッドは机に積み重ねられた書類を壁に叩きつけた。目の前にいるナイトメアに指を差し、怒りの感情を叩きつけた。
「なぜだ!? なぜ小娘一人捕まえることすらできない!?」
部屋中にベルベッドの怒号が響く。怒号の後には静まり返った静寂の空気が流れる。
「……なんとか言ったらどうだ、ナイトメア」
怒りの矛先をナイトメアへと切り替える。怒りというよりも八つ当たりのような。
「ああ、そうだな……小娘は捕まえられなかった。が、代わりなら捕まえた」
ナイトメアは机の上で手を翳した。裾の中から黒い流動体を雫のようにして机に落とした。
それは、時間と共に人の頭と同じ大きさの球体に変化した。徐々に流動体の表面が剥がれ落ちる。中から、真っ白になったフランカの生首が顕になった。
ベルベッドが不敵な笑みを浮かべ、フランカの頭を両手で持ち上げた。
「これは保存状態がいいな、まだ使えるぞ。身体の方はどうしてる?」
「身体の方も保存してあるが、殺した場所に放置したままだ」
「ならば今日中に回収させる。エミ・ローレンが居なくとも、こっちがあれば、なんとかなるしな……」
ナイトメアの裾から黒い流動体が滝のように流れる。それは部屋中のカーペットを覆い尽した。ベルベッドが放り投げて部屋中に散らばった紙が流動体に、沈み込むように呑み込まれる。
散らばった紙を集めた流動体が机の脚を這いずりながら上に上がって行く。机の上の流動体が通った所は、キッチリと積み上げられた紙束が置かれていた。
「教えろ。お前の目的は一体なんだ? なぜ執拗に、あの小娘を追いかける?」
ナイトメアが問いかけた。彼にはベルベッドが何を企んでいるのか、一切分からない。命令の内容も「小娘を殺せ」という一言だけで、何のために殺さないといけないのか伝えられていない。
ナイトメアにとって、ベルベッドの命令を聞くことは不本意だ。しかし、彼にはベルベッドの命令を嫌でも聞かざるを得ない、とある理由があった。
「口の聞き方がなっていないな」
フランカの頭をドンッと床に叩きつけ、恫喝的な目でナイトメアを睨み、ドスの利いた声で彼を威圧した。ナイトメアを指差し、彼に向かって怒鳴り散らした。
「教えて下さいだろ!? 貴様自分の立場を弁えろよ!! 貴様程度の相手、今すぐにでも殺してやることだってできるんだぞ!? この愚民が……」
ベルベッドは固く握った拳で机を殴った。その拳は怒りに震えており、足も何度も小刻みに動いていた。彼の交感神経が過度に刺激されていることが顕著に現れている。
ナイトメアが目でベルベッドの眉間を貫通させるくらい睨む。前に出ながら、剣のような形状に変化させた流動体をベルベッドの顔に突きつけた。
「立場を弁えろだと? 俺とお前の間に、立場などあるとでも思ったか?」
殺伐とし、息苦しいような雰囲気が漂う。ナイトメアの目はフランカを殺したときと同じような、薄暗い輝きを放っている。黒い剣は今にもベルベッドを斬り伏せそうなほど力と殺意が込められていた。
「ナイトメア……」
ベルベッドは呆れまじりのため息を吐き、突き立てられた剣を右手の親指と人差し指で摘んだ。
「これは、なんのつもりだ?」
外の天気が荒れる。風が強くなり、窓はガタガタと音を出しながら震える。外壁に打ち付ける雨の音が部屋の中に響く。
ナイトメアがどこか、遠い声で返答した。
「殺してやる。仲間の復讐だ」
その言葉を発するのと同時、ナイトメアは剣から槍へと形状を変化させた。槍は長く、鋭く、敵を深く穿つ。自由を奪われた剣を使うよりも、槍に形を変えてしまった方がこの状況では戦いやすい。
ベルベッドが摘んでいる部分は槍の柄の部分となり、ごく僅かな距離にナイトメアの槍が迫る。
間一髪、槍を摘みながら身体を後ろに仰け反り、迫り来る槍から避け切った。
「チッ、外したか」
刹那、ナイトメアはすさまじい衝撃を腹部に感じた瞬間に、後ろに投げ飛ばされていた。血反吐を吐きながら、弾丸のような速さで部屋の扉を破壊した。扉とぶつかる瞬間に裾の中の流動体を大量に垂れ流して、緩衝材のように壁に集め、衝撃を和らげた。
しかし、ナイトメアは勢いのまま、部屋の扉を突き破って、廊下の壁に身体を叩きつけられた。
「キャアッ!!」
廊下を通ろうとした使用人の目の前にナイトメアが吹き飛んできた。持っていたグラスを床に落とし、悲鳴を上げながら、走って廊下の奥まで逃げていってしまった。
ナイトメアは床に手をついて必死に起き上がろうとした。左膝を抱えようとした瞬間、彼の右胸を槍が貫いた。数秒もしないうちに槍は淡い光となって消えていった。
「なんだ……今のは……? 何が起きた?」
呼吸が荒くなり、流れる血が顔を伝って床に滴り落ちる。ピタピタと血の雫が廊下の絨毯に垂れる。痛みで何倍にも重くなった頭をゆっくりと上げた。ナイトメアはその目でベルベッドの姿を見上げた。
「まさか、ベルベッド、お前!!」
ベルベッドは盾を持っていた。それは神々しく煌びやかで、絵画のような美しい盾。円盤形で壁掛けの時計よりも少し大きく、盾の中心部分には光が当てられ、紅く輝く宝石が取り付けられている。
ナイトメアはもう一度、膝を抱え込みながら立ち上がり、壁に手をついてなんとか倒れないようにバランスを取った。
「その盾は……神具の一つのクレア・ティオ……なぜ……? お前が持っている?」
星製神格具:通称を「神具」と言う。人間が地上に出現するよりも、前から存在していた武器や道具の総称。製造目的も方法も不明。
一つ有力な仮説として、これらの神具はかつての地上に存在していたとされる神々が使っていたと考えられている。
ナイトメアは途切れ途切れの呼吸でベルベッドに尋ねる。ベルベッドは盾の宝石を指で優しくなぞりながら答えた。
「これか? 南の部族を殺して奪っただけだ。この槍も神具の一つ、マクス・ウェルだよ。神が祀られてるとか言う祠を壊して取ってきた。全ては計画のためだよ」
「ああ、そうか」
ナイトメアは悟った。ベルベッドという、人の皮を被った悪魔の存在に、放っておけば世界そのものを恐怖で支配しかねない力があることに。
「なぁ、改めて聞く……」
ナイトメアはベルベッドの目を真っ直ぐに見つめて、視線を外さなかった。目でベルベッドの動きを牽制するためだ。
流れ出た流動体を服の裾に戻し、口元に付着した血を拭い取った。
「お前はこの世界を支配したいのか?」
「……フッ」
この質問にベルベッドは腹を抱え、高らかに笑い始めた。さっきまでの威厳ある整った顔はだらしなく崩れた。廊下と部屋中にベルベッドの笑い声が響き渡る。
しかし、ナイトメアはベルベッドと違い、真剣な面持ちだ。仮面に隠れて、表情はよく伝わらないが、視線からは深刻さが滲み出ていた。
「ナイトメア、なぜそう思った?」
壁に寄りかかっていたナイトメアは、立つ力を失い、背中が壁に擦りながら座り込んだ。遠い空の星を見るようにベルベッドを見上げる。
「同じなんだ……俺が殺した支配者どもと、お前は同じ目をしている。ただし、一つ違うところがあるとすれば……お前の目はもっと邪悪だ。深淵を引き摺り出さんとばかりする悪魔を感じる」
ベルベッドは絨毯に流れるナイトメアの血を辿るように彼の元まで歩いた。ナイトメアの前まで行くと、同じ目線になるようにしゃがんだ。
「この際だから、お前には話しておいてやる。俺が望むことはただ一つ、俺自身が新たな魔王となることだ」
「……は?」
瞳孔が小さくなる。それと対照的に彼の目つきは上瞼を引きつらすように変わった。深い驚きを吐き出すように口からため息を零す。
意識が朦朧としていて、よく分からないが、目の前の男は正気の沙汰じゃないことは理解した。思わず笑ってしまいそうなほど、面白おかしい。
「何を言っているんだ? 魔王? 意味が理解できない」
ナイトメアの言葉に眉を寄せ、残念そうに下を向く。
改めて顔を上げると、今度は憐れみの表情を彼に向ける。
「百年前まで、この世界は魔王によって支配されていた。それは悲惨そのものだった。人間に生きる場所はなく、毎日のように大勢の誰かが死んでいく、世界は恐怖に満ち溢れ、残酷なんて言葉じゃ言い表せないくらいだ。そんな状況だから、誰もが魔王に屈服せざるを得なかった。だがしかし、そんな魔王の支配も長く及ばず。突如として現れた勇者との戦いに敗れ、死んだ」
ベルベッドは長々と過去の世界について、語り始めた。百年前の話だ。その時まだベルベッドは生まれてすらいなかった。それにも関わらず、知った風な口ぶりで話すベルベッドにナイトメアは苛立ちを感じていた。
魔王の支配に苦しんでいた訳でもない奴が、軽々しくその恐怖を口にすることはかつての犠牲になってしまった人たちに対する冒涜だ。
「で? お前は何が言いたい?」
ベルベッドは飛び跳ねるようにその場から立ち上がり、ナイトメアを指差し、威風堂々と話し始める。
「だが見てみろ! 魔王亡き今の世を! 魔王が支配していた領土を我が物とする為に、今となっては人間どうしが戦争を繰り広げ、その場所を奪い合っている。むしろ、魔王がいてくれた方が正しく思えるよ」
ナイトメアは彼の言葉に全く、共感できなかった。彼にはベルベッドの言ってることが浅すぎるように感じた。
ベルベッドはひどく残念そうな表情に作り、目頭を押さえ、まるで涙が溢れそうな仕草をした。
「悲しいことに、至福を肥やした肥満の貴族どもが甘ったるいケーキを食べてながら、自分が起こした戦争を傍観している。それと反対に、飢餓に苦しみ、食事なんて碌にありつけない子どもたちが、自分とは全く関係のない戦争の犠牲となっている」
彼が話した言葉に嘘偽りはなく、全て事実だ。簡単には変えることができない残酷な事実。ナイトメアはその時、深く思考を巡らせた。この世界に存在する本当の悪について。
ベルベッドは勢いよく両手を広げ、今にも振り下ろさんばかりの力強い拳を握り締め、天を仰いだ。
「つまり、この世界には支配者が必要なのだよ!! 魔王という強大な支配者がいなくなった今、誰もが新たな支配者になるために、くだらない争いばかりしている!! だが、そんなくだらない争いをしたところで魔王にはなれない。かつての魔王のような恐怖を再現することはできない!! だからこの俺が、魔王のような恐怖を彩る真の支配者となってやる。平和ボケした人間どもの眼をこじ開け抉り出してやる。魔法なんかじゃどうにもならない現実があることを叩きつけやる。際限ない恐怖の前では平等に不平等が降りかかることを思い出させてやる」
両手で頭を抱え、豪快に笑うベルベッドを横目に見ながらナイトメアは、呆れるような口調で彼に忠告をした。ただ淡々と、鋼鉄のように冷たい態度と口調でだ。
「そんなことお前の勝手だが、これだけは言っておいてやる。ろくな死に方できねえぞ」
ベルベッドはナイトメアを蔑むように鼻で笑った。僅かな冷笑、奇妙な笑み、それらが顔に表情として浮かび上がる。
「死に方かぁ……どうなるんだろうな?」
ナイトメアはベルベッドに貫かれた腹部を手で押さえつけながら、壁をよじりながら立ち上がる。
腹部に流動体を集め、腹に空いた穴を覆い止血する。血は流れなくなったが、まだ完全に治しておらず、ヒリヒリとした痛みが腹部に残る。
「お前の死に方には、多少の興味があるんでな、頼むからそのままでいてくれよ」
前屈みになってしまいそうなくらい痛みが響くが、前屈みになってしまうとベルベッドに頭を下げてるように思えるので、絶対に前屈みにならないようにナイトメアは耐えている。
「痛みに耐えてるところ悪いんだが、お前に一つ有力な情報がある」
「有力? なんだ?」
ベルベッドの言うことだ。期待はしていない。けれど、聞く価値はあると踏んだ。この音は一応この国の国王になるかもしれない地位の男だ。それなりの情報があるのだろう。
「エラフィール・セレーネの争奪戦参加が確定したそうだ」
「何!? エラフィールがか!?」
込み上げてくる歓喜。それと同時に湧き上がる負の感情。憤怒、復讐、執念、それらの感情がナイトメアの心の中で増幅する。感情が激しい波のように全身に広がる。叫びたくなるくらい気持ちが高揚したが、腹に響くと嫌なので叫びはしなかった。
「ようやくだ! ようやくこの時が来た! 俺があの女を殺す……いや、殺すだけじゃ終わらないな、俺の復讐は」
「嬉しそうだな、腹の痛みも治ったか?」
「腹の痛みなどそもそもない、それより、この俺も争奪戦に参加する」
ベルベッドはナイトメアのこの答えを待ち望んでいたかのように、予め用意していた答えをナイトメアに告げる。自分の予想通りすぎて思わず、ニヤついた顔が隠し切れない。
「だろうと思った。ついでに、お前の仲間も解放してやるよ。小娘は連れて来れなかったが、メイドの方を持ってきてくれたんでな……で? 仲間は何人だっけ? 二人だったか?」
ナイトメアは拳をギュッと握り締め、後ろの壁に鉄槌を叩きつけた。壁から小さな塊がボロボロと落ちる。叫び声のような怒号で怒鳴った。
「お前が監禁していたのは、エルファとフェルナンドとザルダードの三人だったが、エルファはお前が拷問の末に殺した!! 忘れたとは言わせない!!」
ベルベッドは上の空で「そんな奴いたか?」という顔でナイトメアの仲間を思い出す。昂るナイトメアを落ち着かせるように、冷静な態度を取った。
「ああ、そうだったな。今から、その二人を解放する。その代わり、お前にはもう一つ任務を遂行してもらう」
「任務?」
またこいつの元で働かないといけないのか、と嫌悪感を抱いた。しかし、こいつの機嫌を損ねたら、また仲間に危害が加わるかもしれない。そう考えたナイトメアは嫌々ながら聞くしかなかった。
「ラバル島の果実を俺の元に持ってこい。それだけだ」
「ああ、それくらいのことならしてやっても構わない」
「お前という奴はつくづく気に触る」
ベルベッドは壊れた扉を踏みながら自分の部屋へと戻っていった。二羽の伝書鳩を鳥籠から出し、鳩の首元にある小さな筒に小切手のような紙を入れた。
伝書鳩たちはベルベッドの腕から勢いつけ、窓の外へと飛び去った。
---ミランダ収容所---
五人の騎士によってを逃げ道を塞がれながら、一人の男が収容所内の廊下を陽気に歩く。腕と足に繋がれた鎖をまるで鞭のようにして空中でぶん回す。
騎士たちは今にも男を殺さんとばかりに剣を構え始める。
「流石はナイトメア! あんたを信じてよかったぜ! 俺は今後とも、あんたに着いていくぜ!!」
ザルダード:ナイトメアの部下
超人的なパワーで彼の目に見える物全てを破壊し尽くす。彼の脅威的な力は大人が何人相手になろうと敵わない。魔術は然程優れていないが、全ての戦いを己の力のみで切り抜けてきた。
---ヴェネル最高刑務所---
その刑務所はドリーヴァ王国が所有する海上刑務所。建物の最深部は深海にあり、囚人の罪の重さが重くなるにつれ、階層が下がる。つまり、最深部にいる囚人たちは国家転覆罪や大量虐殺犯などが殆どだ。
最深部に落ちたなら最後、死ぬまで地上には上がってこられない。最深部から釈放されるなんて異例中の異例だ。
そうつまり、フェルナンドの釈放は異例なのだ。
刑務官たちによって最深部から檻が引き上げられる。ギチギチに張られた鎖に引っ張られ、深い深い深淵の闇から徐々に姿を現す。
地上の微かな光に檻が照らされ、中の様子が薄っすら明るみになる。
「もうここから出るのか? 案外、静かで好きだったんだがなぁ、この場所は」
檻の中で太々しく胡座をかき、膝に肘をつき頬杖をつく。その姿は監禁されていた囚人には見えず、家で寛ぐように安らいでいた。
フェルナンド:ナイトメアの部下
白髪の髪を靡かせ、華麗に敵を斬る。身体のどこにも傷は見当たらず、幾千もの戦場を無傷で生還してきた。強さだけを求め続け、自分よりも弱い奴には一切の興味を示さない。
ナイトメアに忠実に従い、どんな命令だろうと完膚なきまでに遂行する。
優れた剣術と魔術を持ち、その強さは時に首領ナイトメアを凌駕する。




