十七話 視察隊②
じんわりと涙が滲んできて、慌てて上を向いた。
そうか。私は学び舎で、派閥争いもしていたけれど、自由も得ていたのね。
ゾフィが毎日学び舎についてきてくれるようになってから、私はお父様の目を気にせず振る舞えるようになった。
自分の気持ちのままを言葉にして喋れるようになった。
クルトとの逢瀬の時間だって、自由に振る舞うことを許されていた。
婚約が解消されたら、それを私は全て失うのだわ。
「……でも、それでも……」
クルトに自由を返したい。
これ以上を彼から奪いたくない。
あの人を私みたいな籠の鳥にしては駄目。
もう充分よ。今まで私は、本当なら得られない特別な時間を沢山もらってきたじゃない……。
「サクラ、泣いているの?」
足音なんてしなかったはずなのに、息がかかるほど近くから、クルトの声がした。
振り返ろうとしたら、長い両腕が私を包み込むように回され、あっという間に抱きしめられていたわ。
「ク、クルト……っ⁉︎」
どうして私がここにいるって知ってるの?
一瞬その疑問がよぎったけれど、きっとゾフィだと思った。あのこはクルトのことをたいそう気に入っているもの。
「泣いてないわっ、月を見ていただけよ」
どうせ暗いのだから、見えはしないと思った。でも――ごまかす前に、クルトの長い指が私の目元を拭い、涙を掬い取る。
「サクラ、僕らに隠しごとをするなって言ったのは君だ」
「っ、……これは……」
「二人の時、僕に気持ちを偽るのはやめてくれ」
「……ごめんなさい……でも、貴方の祝いの席に、水を刺したくなかったのよ……」
望んだ道じゃないのに、クルトは誠心誠意、尽くしてくれた。彼の努力を汚したくなかった。だけど確かに彼の言う通り、隠しごとをするなと言ったのは、私だった……。
なら私は、自分の言葉を守らなければね……。
「……ねぇクルト、もし……もし主席百人隊長に選ばれるようなことがあったとしても……辞退していいわ」
意を決して、私はその言葉を口にした。
「どうして? 僕の妻になるのはそんなに嫌?」
「そうじゃないわ! そうじゃ、なくて……」
たとえ主席百人隊長になったとしても、お父様は貴方と私を結婚させたりなんてしないって、私は肌で感じているの。そんな戯れごとに振り回される必要なんてない、貴方の貴重な時間を、もう無駄にしたくないの!
そう言いたかったけれど、言えなかった。お父様の思惑を口にすることが、どうしてもできなかった……。
「心配しなくても、主席百人隊長への道がとても険しいことは、君も知っているだろう?」
「それは、もちろん分かってる……けど……貴方ならあるいはと、私は思ってるわ……」
だって貴方は、本当に頑張っていたけれど、それ以上に……。
平民や人夫たちと笑って土に塗れていた貴方は、本当にとても輝いて見えたのよ。
「貴方は、人を動かせる人になるわ。それは元老院議員なんかにならなくてもそうよ。貴方は、貴方の輝くべき場所で輝くべきと、私は思うの」
だからもう、私のことは気にしないで、元老院議員になんてならなくていいのと、言葉を続けるつもりだったのに。
「サクラ、僕は今ね、本当に、心から、元老院議員を目指しているんだよ」
予想外の言葉に驚いてしまった。
「嘘」
アラタに何か、吹き込まれたの?
「嘘じゃない」
「でも貴方には、学者になる夢が……!」
だからこそ貴方はあんなに輝いてみえたのじゃない!
「それよりも、欲しいものができたんだ」
腕に力がこもって、さらに強く抱きしめられた。
首元にかかる、熱い息。
「サクラ、僕は君を妻にしたい。君を手に入れたいんだ」
耳をくすぐる言葉の意味を、理解したくなかった。
「僕と君じゃ身分が違う。難しいということは、初めから分かっていたんだ。でも諦めたくなかった。だから、たとえこれで婚姻が叶わなくても、僕は君の婚約者であり続けるためなら、なんでもする。何度でも、どんな課題を出されても、喰らいつく覚悟で今日まで来たんだ」
彼が全部分かっていたことに、愕然とした。
そして本心から私を求めているという言葉に、身が震えたわ。
だって私がクルトにむけているのは愛情じゃない。
私は――。
――私はさっき、ずっと、アラタのことばかり考えていた。
「……私は貴方に相応しくない……」
なんてこと。
こんな時に気づくなんて。
自分でも、自分が信じられなかった。
私がアラタに向けていたものも、友情じゃない。
――私、アラタのことが好きなんだわ――。
クルトにここまでさせておいて、私……なのにクルトを、見ていない。
「見ていてほしい。僕は必ず、主席百人隊長になる。務めを果たして、次の課題に挑む。たとえ今、君の気持ちが僕になくても構わない。ただの友情でも構わない。それでも僕は、君が欲しい」
言えるはずがなかった、こんなこと。
上位平民と貴族の私たちですら、難しいことなのよ。
平民の彼と私がつながる可能性は、万に一つもない。
考えるまでもなく、初めから分かりきってること――。
――あぁ、だから私、この気持ちを友情のままにしておきたかったのね。
理由なく繋がった特別な関係なら、立場や状況が変わってもずっと繋がっていられるかもしれないって、そんな希望を失いたくなかったのよ――。
今日までご覧いただきありがとうございました。
あとひとつおまけ、一巻 終話を追加して終わります。
また続きができた時、こちらに続けて更新しますね。




