十一話 除け者
アラタが私を担いで、医務室に飛び込んだからでしょうね。
私はアラタにとって特別な存在なのだと、そう認識されていたのでしょう。
「もし、ちょっとよろしいか?」
学び舎の柱廊中庭で巻子本を読んでいた時、話しかけて来た男性がいたの。
異国の血が濃いのか、私たちより少し浅黒い色の肌をしていたわ。
なんとなく既視感があって首を傾げたけれど、いまいち誰か思い出せていなかった。
学び舎に通う学生にしては歳がいきすぎていたし、かといって教師陣にいた覚えはないし、労働奴隷にしては服装が綺麗だし……。
「どちら様ですか」
ゾフィが警戒して、私とその男性の間に身を割り込ませたわ。
初潮を迎えてから、不躾な男性が増えてしまった。そして私がそれをあまり好んでいないのだと、理解してくれていたから。
その男性は、警戒するあのこの様子に怯んだのか、困ったように頭を掻いて言い淀んだ。
でも、ここで立ち去るのもなと、考え直したのでしょうね。
「あ、その……ここのところアラトゥスを見かけませんので、どうしているかご存知でないかと」
アラタ?
その名が出たことで気がついたわ。
あの時の男性医師なのだって。
「まぁ! 先だってはお見苦しいところを……」
「いえ、体調不良は誰しも起こることですし、我々はそのために常駐しているのです。貴女はその後、体調の方は?」
「……お陰様で。今はもうなんの支障もございませんわ」
教室は居心地悪くて、こうして中庭に逃げて来ている……だなんて口にできなかった。
だから表面上の恙無さを取り繕ってそう言ったのだけど、男性医師はそれを言葉通りに受け取ったよう。それは良かったとにこやかに笑ったの。
そうして、またふと、表情を改めて……。
「それでその……アラトゥスなのですが」
「申し訳ございませんわ。私も存じ上げないのです」
そう言うと、男性医師は眉を顰めて考え込んでしまった。
その表情が、とても真剣であったものだから私……彼の考えていることが、とても気になってしまったの。
だって、医師の彼がアラタを気にするって、普通ならば考えられない。
それだけ、彼とアラタに接点があるのだとしたら、それはただの交友関係とは思えなかった。
丁度その時、アラタが不可解な大怪我を負っていたのを、私は知っていた。だからそのことに関わるのではないかと、そう考えたの。
「あの、差し支えなければ言伝ましょうか? お急ぎでしたら、家に使いを走らせることもできますので、お任せくださいな」
家の場所なんて知らなかったけれど、豺狼剣闘士団を探せばよいだろうって、軽く考えていた。
すると男性医師は、パッと表情を明るくして。
「そうですか。では、いい加減診察に来いと伝えていただきたいのですが」
診察……? じゃあやはり、あの怪我のことを……。
「この前は仕方がなかったと理解しているのですが、ならなおのこと、一度きちんと症状を診断させて欲しいと」
何度も言っているのですが、のらりくらりと逃げられてしまって……。と、男性医師は頭を掻いて。
「大丈夫だとは思うのですが、万が一ということもある。悪化してからでは手の施しようがないかもしれないし……」
……違うのだわ。
「……アラトゥスは、どこをそんなに悪くしてらっしゃるの」
私の声音で、男性医師はハッとしたよう。
てっきり知っていると思っていたのにと、そんなふうに考えているのが狼狽えた様子で理解できたわ。
このまま誤魔化されてはたまらないと思ったから、私も引かないことにした。
「仰って先生。私も、アラトゥスのことが気掛かりなのです」
彼は、あまり自分のことを話してはくださらない方だもの……。
「こちらから動かなければ、いつまで経っても踏み込ませてくれないって、私、分かっているつもりです」
アラタは社交的だし、交友関係も広い。
でも、それが表面的なもので、彼の深部に触れることを許された人物はまだいないのだって、私は理解していたわ。
クルトが一番、深い場所に立ち入らせてもらっていると思う。その次が私……。
だけど私、それでは嫌だと、とっさに思ってしまったの。
「お願いします先生、仰ってくださいまし。私にとって彼は、なくてはならない大切な方なのです」
私の友達と言える方は、たったの二人。
でもクルトは、友達ではあったけれど、それだけではなかったわ……。
政敵……。
そして夫候補。
だから利害関係なんて存在しない、意味すらもなく繋がれたアラタとの縁は本当に特別。
私にとってそれは、今までの人生でたったひとつ、唯一のものだった。
「教えてくださいまし。どうかお願い致します。あなたも控えて、少し場を離れておいてちょうだい」
私の言葉に奴隷は逡巡したものの、一礼して距離を取ってくれたわ。
それによって、医師は私の気持ちの強さを理解してくれたのでしょう。溜息を吐いて、頭を掻いた。
「……私がアラトゥスに怒られてしまいます」
「言わなければ分かりませんわ」
キッパリとそう言ったら、医師は目を見開きフッと笑った。そうして、こう言ったの。
「アラタみたいなことを言う」
貴方も彼を、アラタと呼ぶ方なのね。
「他言しないと誓います。知らなければ、いざという時に彼を助けることも叶いません……。私は、そんなことは嫌なのです」
そうしてその医師、ルシウスが教えてくれたのが、アラタが生まれながらにして、心臓に疾患を持っていることだった。
血を送る力が弱いのか、心の臓のどこかに穴が空いているのか……すぐに息が上がってしまい、苦しくなってしまう。場合によっては、強い痛みを伴うのだって。
「アラタには内緒ですよ」
「ええ。勿論」
アラタには、言わないわ。
◆
「今だってもう、限界なのかもしれないの……」
あの一歩が、アラタを苦しめているかもしれないの!
「だからお願い、クルト、アラタを助けて!」
私の訴えに、クルトは言葉を失ったわ。
けれど、彼の返事は、私の想像するものではなかった。
「……サクラ……知っていたの?」
それは、クルトには伝えていたのだって……私にだけ知らされていなかったのだって、そういう意味っ⁉︎
悔しかった。
私は彼らに、並んで立てる存在じゃないのだって、そう思われていたのだわ!
私の怒りは、クルトに正しく伝わったのでしょう。
彼は、驚いたように私を見て、困ったように眉を寄せて、諦めたように息を吐いた。
「本当はね、ここに君を連れてくることも駄目だって言われていたんだ……。だけど君が知るのも時間の問題だと思った……。この催しは知られてきてしまったし、近いうちに君の耳にも入るだろうと」
そう言ってから、クッと一度、言葉を止めて、苦悩するみたいに顔を伏せたわ。
「……僕たち以外の口から、このことを知った時、君は悲しむと思った……。だから今日もアラタには内緒で連れてきたんだ。だけど君は……悲しむよりも、怒るんだね」
「みっともない女だということくらい、指摘されなくても重々承知しているわ。貴方がお嫌なら、いつだって婚約は解消して構わない!」
ついそう言い返してしまった。
だって私、自分が彼に相応しいだなんて、これっぽっちも思ってやしないもの。
だけどクルトは、そう言った私をさらに強い力で抱きしめた。
「僕が君を、そんなふうに思うはずないって、分かってくれないのかい?」
どこか苦しみを押し殺したような声音だった。
それで私、クルトを傷つけるようなことを口にしてしまったのだって気づいたわ。
いつも優しいクルトに、私はきっと、自分で思っていた以上に甘えていたのね。
「ごめんなさい。貴方がそんな人じゃないって、分かっているのに……。私……私だけが蚊帳の外に置かれていたことが嫌だったの……」
貴方たちと私の関係は……親友だって思っていたのは……私だけの独りよがりだったのだって、認めたくなかったんだわ。
でも、普通に考えれば当然のことなのよね。
だって私は、女に生まれてしまった……。
「違う!」
だけどそこで、クルトは声を荒げた。
彼らしくない、強い口調だったわ。
「そういう意味で、黙ってたんじゃない。僕らにとって……僕にとって君はっ!」
そう叫んでから、また歯を食いしばってしまった……。
「アラタと君は、僕の宝……。二人は、僕の、親友だ」
そう言うなら、どうしてそんなに苦しそうなの? どうして話してくれないの?
……貴方も私には、話せないって言うのよね。
その苦しさの理由を、私にだけ、言えないんだわ……。
また歓声。
ハッとして身を起こそうとした私を、クルトは離してくれなかった。
手を離せば、私がまた手摺を乗り越えようとするって、思っていたのかしら。




