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十話 魔獣

 恐ろしい光景だった。

 砂を蹴立てた魔牛が、アラタに向かい足を進める姿は。

 魔牛ははじめから酷く興奮していて、明らかに正気ではない様子。

 前脚で砂を掻き、頭を振って、今にも飛びかかりそうにみえた。

闘技場(コロッセウム)の臭いのせいだよ……。さっきまであそこで剣闘士たちが血を流していたろう? その匂いが充満しているからね」

 闘技舞台(アレナ)の砂は、本日も多くの血を吸っていたわ。

 人の血で酔う魔獣にとって、それは、最高の興奮剤。

「だから危険を減らすため、野獣戦は前座として初戦に組まれることが多い」

 知っているわ。

 私だって学び舎で、そう習ったもの。

 だけどアラタの試合は三戦目。敢えて砂に血を吸わせたうえで挑む戦い。

「アラタは、人とやり合うよりもずっと楽だと、そう言ってたよ……。魔獣は本能に準じて行動する。血に酔えば、当然食らうことしか考えない。その方が、断然やりやすいんだって……」

「そんなはずないでしょう⁉︎」

 血に酔った魔獣は、恐れを知らない。

 傷を負うことも厭わず、ただ喰らいついてくる怪物と化すのだと聞いていた。

 それしか考えられないようになるのだって。

 魔獣にとって、人の血は猫のマタタビ……。

 だけどそれは一般的に言われていることで、貴族であるなら違うのだということも、知らされる。

 魔獣にとって、人の血は、猫のマタタビなんかじゃない。魔薬なのだって。

 血に酔った魔獣はさらなる快楽を求めるようになるの。

 食らえば食らうだけ興奮し、痛みを感じなくなるのですって。

 だから、何をしたって止まらない。ひるまない。食欲の限界も無い。死ぬ瞬間まで食らい続ける化け物になるのだって!

 魔獣の咆哮に、ビクリと身が竦んだわ。

 そうして次の瞬間、その巨体がアラタに向かって突進していったの。砂を蹴散らし、脇目も振らずに!

「アラタ――‼︎」

 ついそう叫んでしまったけれど、それは魔牛の咆哮に掻き消されてしまった。

 いや、止めて、止めさせて!

 アラタが殺されてしまう!

 とっさに座席を立ち、手摺りを越えようとした私を、クルトが掴み引き戻した。

「サクラ、落ち着いて!」

「落ち着いていられるわけないでしょう⁉︎ アラタを助けなきゃ……っ」

「君が行ってなんになる⁉︎」

 怒鳴られて涙が溢れた。

 その様子を見てクルトはしまったと思ったのね……。私をぎゅっと抱きしめたの。

「ごめん。怒鳴って悪かった……」

 クルトに怒鳴られるなんて初めてだったから、私も少し冷静になれた。

 アラタが魔牛の突進をひらりと(かわ)した姿を見て、安心できたというのもあったわ。

 そうね……。私が舞台に乱入したところで、なんの助けにもならない……なら、クルト。

「やめさせてちょうだい……」

 アラタを守って。

 そう言ったのに、クルトは首を横に振った。

「駄目だよ。興奮した魔獣は死ぬまで止まらないって、知っているだろう? どちらにしろ仕留めるしかないんだよ」

「ならば皆で倒せば良いじゃない!」

「駄目なんだ……。この試合はアラタの希望で組まれたものだ。それを中止させてしまったら、彼が責任を問われる」

 ……なんですって?

「彼の希望した組合せ(バール)なんだ。そして最近人気の興行でもある。興奮した魔獣を、あえて一人で相手するんだ」

 耳を疑ったわ。

 アラタがあの魔獣との戦いを望んだなんて。

「僕がここに来ることを許されているのはね、アラタの勝ちに賭け金を積む役としてなんだ。アラタの持ち金を全額ね」

 そうすれば、アラタは賞金と共に別の収入も得られるのだと、クルトは言ったわ。

「これが、アラタの譲歩の限界だ。僕たちに許されているのはここまでなんだよ」

「許されている限界って、どういう意味なの?」

 ワッと歓声が上がった。

 慌てて会場に視線をやると、魔牛の突進をギリギリで交わしたアラタが、その巨体を浅く小剣で斬りつけていたわ。

 魔牛の身体には赤く長い筋が刻まれた。けれど……それは表面を撫でたに等しいものだった。

 あの小剣を突き立てたところで、魔牛の心臓には到達しないに違いない。

 アラタは一体、あんな小剣二本で、どうやって魔獣を倒す気なの⁉︎

 焦る私の耳に届く、クルトの苦渋に満ちた声。

「サクラ……僕が言わなかったと思う? 僕も、アラタに言ったんだ。豺狼剣闘士団の出資者になるって」

 アラタの様子に視線を向けながら、クルトは苦しそうに表情を歪めたわ。

 彼だって本当は止めたいと思っているのだと、それでようやっと理解できた。

「だけどアラタは許してくれなかった……。彼の父親は、剣闘士団の興行師としての資質を持ち合わせていない。出資者の期待に応えられる戦績を積むことは不可能だろうって」

 言いながらクルトは、歯痒そうに眉を寄せた。

「でもあの男には、それが理解できない……。出資者から金を得ようと、どんな無理難題だって受けてしまうだろう。そうなれば、その皺寄せは剣闘士らに行くことになる。戦績を得ようと、闇雲に無茶な戦いへ挑ませることになるのだって」

 そうなれば、彼らはきっと死んでゆく……。

「その代わりに自分を犠牲にするっていうの⁉︎」

 また歓声。

 アラタが魔牛の突進を避けて横をすり抜けざま、尾を切り落としていたわ。

 周りはそれに拍手喝采。

 だけど、魔牛は全く意に介さない様子で、アラタに向き直った。

 血走った眼には、痛みに怯む様子など微塵も(うかが)えない。

 血の魔薬により、痛みなんて感じていないのかもしれない……。

「間違ってるわそんなの……。今までだって、何度も怪我を負っていたじゃない」

 そのうち、怪我では済まなくなってしまう……それが今日じゃない保証なんて無いわ!

 クルトの胸を、拳で叩いた。

 何度も何度もそうした。

 だけどクルトは私を抱く腕を緩めてくれず、それどころか、微動だにしなかった……。

 私の力では、クルト一人の表情すら崩せない……。

「それでも、挑むと決めたんだ。サクラ、これはアラタと、彼の父親との戦いなんだよ。アラタは考えがあってああしてる」

「どんな考えだって言うのよ! 自分の身を犠牲にするようなやり方、どんな理由だって納得なんてできないわ!」

 そう叫んだ私に、クルトは言ったの。

「アラタは花形になろうとしてるんだ」

 そうすれば、引退後に興行師となることを望まれるだろうし、彼の父親を団長(マスター)の座から引き摺り下ろすことも、可能になる。

「だからアラタは、アラトゥス・ゲオルギウスの名で剣闘士になる道を選んだ。アラトゥス・ゲオルギウスはね……アラタの祖父の名でもあるんだ」


 アラトゥス・ゲオルギウス。

 その名は、剣闘好きならば必ず知っていると言えるくらい、有名な名であるそう。

 アラタの祖父は元剣闘士で、引退後に興行師となり、そこからさらに伝説を築いた人。

 彼の剣闘士団は、小さいながらも各部門で頂点を取るような花形を、何人も闘技場へと送り出した。

 だから、アラトゥス・ゲオルギウスの名で、アラタ本人が花形と言われるまで上り詰めることができたなら……かつての英雄の孫である彼を、周りは必ず望む。興行師となる道を、強く希望されるだろうって。

 だけどそれを聞いた私には、絶望感しかなかったわ……。

 アラタには無理よ……花形は、無謀な挑戦でしかない。

 だってアラタは……っ!

「…………クルト、アラタはね……アラタは、心臓が弱いの……」

 アラタの秘密。

 彼は心臓が弱くて、長く激しい運動には耐えられない身体なの。

 医務室の男性医師が、私にそう、教えてくれたのよ……。

おはようございます。いつもご覧いただきありがとうございます。

昨日は寝落ちして挨拶できずでした。

本日も楽しんでいただければ幸いです。

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