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九話 魔獣

 アラタが私を抱えて走ってくれたあの日。

 医務室の医師は、私をお嬢様と呼んだのに、アラタは名前を覚えられていたわ。

 そして男性医師は、床に転がったアラタをそのままにして、ただ見守るだけだった。

 私の迎えが来て、その後アラタがどうしたのかは分からなかったけれど……。

 ただ、普段以上に顔色を悪くし、(うずくま)っていた姿は、私の記憶に強く刻み込まれていたわ。


「それでは準師範級(パルス・セクンドゥス)、アラトゥス・ゲオルギウス! 対戦相手は魔牛!」

 司会進行(プラエコ)の声に、わぁっ! と、歓声が上がり、一人の人物が闘技場(コロッセウム)に足を踏み入れた。

 見間違いようのない親友の姿に悲鳴を上げてしまいそうになった私を、クルトがさらに強く抱きしめてくれたけれど、それは気休めにもならなかった。

「大丈夫。アラタは負けないよ」

 違うわ。勝ち負けなんて……そんなのどうだって良いの。

 思っていた以上に軽装のアラタは、鎧をほぼ身につけておらず、普段と変わりないような軽装だった。

 なんでそんな格好なの⁉︎ 他の出場者はもっとちゃんと武装していたじゃない!

 内心ではそんなふうに叫んでいたけれど、唇は震えてしまい、声は音になりもしない……。

 アラタは、周りの歓声など全く意に介していない様子で、スタスタと中央まで歩いて来て、一応決まりだし……みたいな手軽さで腰に手を伸ばしたわ。

 腰には皮帯が巻かれていた。

 私たちの座る位置からは見えていなかったのだけど、どうやら背中側に武器を携えていたよう。

 流れるような動作で動いた手には、さして長くもない小剣が二本握られていた。そしてそれを、目の前で交差するよう構えてみせる。

「開始の合図だ」

 クルトの声が耳元でしたの。そうしたら急に、ギャリギャリガラガラと、けたたましい音。

「なっ、何⁉︎」

「僕らの真下が、魔獣用の出入り口。今そこの鉄格子が開けられているんだ」

 私たちの座るこの位置の下に⁉︎

 ブワリと恐怖が全身を襲ったわ。

 魔獣……それは、私たち人類を脅かす危険な存在のこと。

 この都はかつて、魔獣の湧き出る森に対処すべく作り上げられた、辺境の城塞だったって逸話があるの。

 ここから東に半日ほどの場所に(くだん)の森の端があり、今はこうして闘技場(コロッセウム)で使われる魔獣の狩り場となっているそう。

 魔獣を生きたまま捕らえるのは、とても危険な仕事。その分実入りが良いとは聞くけれど、それがどれほどのものか、私には想像もできなかった。

 この都の歴史も含め、学び舎では色々学ぶわ。

 その中には、魔獣についてのこともあったのだけど……。

 とにかく、魔獣には近づくな。血を流すなと、一番初めの授業で言われたわ。

 彼らは人の味を知っている。

 かつて浴びるほどに(くら)い、腹に納めてきた肉の味を、本能が覚えているのだと。

 柔らかく、血の甘い人間を、捕食対象だと認識している。

 魔獣にとって人の血は、猫のマタタビのようなものなのですって。

 血の匂いをさせてしまえば、たちどころに見つかり、喰らい尽くされてしまう。

 だから、毎月血を流す女性は、男に守ってもらうしか生きる(すべ)がないのですって……。

「大丈夫。こちらまで上がってきたりはしないから」

 クルトが優しくそう言い、肩を撫でてくれた。

 違うわ……。

 魔獣がここに来るかもと考えて、怯えているわけじゃないの……。

 アラタがその魔獣と、たった一人で向き合うことに恐怖したのよ。

「アラタ……」

 怖くて目を背けてしまいたかった。

 だけどそれも怖い。

 どこに視線をやっていいのか分からず、自然とクルトに身を寄せてしまう。

 そんな幼児のような反応の私に、クルトは不思議そうに首を傾げたわ。

「サクラ、もしかして魔獣戦は見たことがないの?」

「……魔獣戦は、お父様が好まなかったから……」

 女の私がここに連れて来られるのは、お客様の接待役として。

 だから、試合を見る必要はなかった。

 私も見たくなかったから、率先してお客様と接する方を選んでいたの。

「そうだったのか。ごめん、そうとは知らず……てっきり見慣れているものだと思ってしまって……」

「ううん。それは良いの」

 アラタが出るのだって、教えてくれたのだもの。

 教えてくれたから、アラタがたまに負っていた怪我の意味が、私にもようやっと分かったのよ……。


 初潮を迎えた翌日から血が流れなくなるまで、私は学び舎には行けなかった。

 だからアラタが一体どれくらい、ああして苦しんだのかは分からない。

 次に顔を見た時には、いつも通りの彼だった。

 そうして取り巻く環境が変わったことに振り回されて過ごし、季節が一つ巡った頃かしら。

 またアラタが、学び舎に来ない日が続いたの。

 ようやっと顔を出したその日。アラタは以前の時以上に、酷い怪我を負っていた……。

 袖の下に包帯が巻かれているのがチラリと見えたわ。

 節々にも青痣をつくり、どこか足運びもおかしかった。

 それでもアラタは笑っていたのよ。

 仲の良い学友に茶化されて、なんでもないことみたいに声を上げて、笑っていた。

 だけどその日のアラタは、よくやっている鞠遊びもせず、休憩の時間は全て、ふらりと姿を消していたわ。

 直感で秘密基地だと思った。だからゾフィに無理を言って時間をもらったの。

 そうして駆けつけると思っていた通り、アラタはそこに、敷布を敷いて横たわっていた……。

 珍しく眠っていたから、起こさないよう、ただ遠目から眺めていたわ……。

 それだけ本当は辛いのだってことは、離れていても理解できた。

 眉間に深くシワを寄せて、浅い呼吸を繰り返している姿。

 身体を丸めて、右脚を抱え込むようにして。

 庇っていた脚……。きっと本当は、歩くことすら辛いのね。

 だけどそれを周りに見せまい、知られまいとしている。でも、やっぱりそれは大変なことで……。

 私がここまで近づいたことにも気付かず、眠ってしまうくらいに消耗してる……。

 アラタはそもそも、眠るのが得意じゃないの。

 夢を見るのが、嫌なのですって。

 夢の内容については教えてくれないわ。いつも誤魔化してしまう。

 だから、誰かが来るかもしれない場所で眠るなんて、普段なら絶対にしない……。

 私に見られているなんて知ったら、アラタはきっとここにも来れなくなる。彼の休む場所がなくなってしまう……。

 そう思ったから、気づかれないうちにその場を離れたの。

 けれどそれからというもの、アラタの急な休みと怪我は、繰り返された……。

 多い時は、怪我に怪我を重ねて来たわ。

 見かねたクルトが何かを言い、言い争いになっていたこともあったけれど、私には事情を聞くすべもなく、遠巻きに見守ることしかできなかった……。

 けれど私も、アラタがお父様からの暴力でそうなっているのじゃないって、薄々気づき始めていたわ。

 そして、その答えがこれ……。

 お父様から暴力を振われることよりも、もっと、ずっと、タチが悪かった!


 黒い巨体が、闘技舞台(アレナ)にのそりと身を乗り出してきたのが見えて、私の思考は遮られた……。

 骨張った背中。頭部の太い角。山のようなその大きさに、頭が真っ白になった。

 想像していたのより、ずっと大きい……大きすぎる!

 あんなものにどうやって挑むの? 掠っただけでアラタは吹き飛ばされてしまう!

「く、クルト……駄目よこれ……アラタが死んでしまう……っ」

 そう言ってしまって後悔したわ。

 言葉にしたら、もうそうとしか思えなくなって、勝手に涙が溢れ、視界が霞んでしまった。

「止めさせて。やっぱりこんなの、駄目よ。こんなやり方……っ」

 一歩間違えば命が危うい。そんな危険なことを黙って許してはいけないわ!

「私、お父様にお願いする。豺狼剣闘士団ルプス・ファミリア・グラディアートリアの出資者になってってお願いするから!」

 そうすればアラタは、こんなことしなくて済むのでしょう⁉︎

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