五話 下賤の者②
明けましておめでとうございます。
今年も楽しんでいただければ幸いです。
あの時、硬い鞠がぶつかっていたら、きっと痣ではすまなかったはず。
なのに彼は恩義背がましくそれを言うこともなく、立ち去った。
言えば、謝礼だって得られたでしょうに……。
まるで当然のことをするかのように、私を助けてくれた。
でも……。
これをこの方に説明したって、無意味だとも思ったの。
この方はいつもアラタに手厳しい。おそらく彼のことを好ましく思っていないのね。
とはいえ、責めることもできなかった。
この取り巻きの方は私と同じ貴族出身の男性で、男性は立てなければいけない。それがお父様の指示……。
「アラトゥスくんは、とても理知的だと思うけれど……」
それでもただ肯定したくなくて、なんとかそう、言葉を返したわ。
アラタは確かに言葉遣いは悪かったけれど、社会的な規則を率先して破るような方ではなかったし、きちんとしなければいけない時はきちんとできた。常識を踏み越える時を、彼はちゃんと選んでいたわ。
ただ、その行動を選ぶ時の基準が、私には分からなかったけれど……。
でも、取り巻きの方は、私の言葉には頷けなかったよう。
少し眉を寄せ、周りを歩く町人や奴隷を気にするように視線を巡らせてから、私に顔を寄せて、小声で言った。
「……前々から気になっていたのですが……。
セクスティリア殿はたいへんお優しい。ですが慈悲をかける相手はもう少し選んだ方がいい。
とくにアラトゥス。彼には関わるべきではありません。
あれは勉学のために学び舎へ来ているのではありませんよ」
その言葉は、さらに私の気分を害したわ。
皆様の前では挨拶くらいしかアラタと接していない。もっと話したいのを沢山我慢しているわ……っ。
なのにそれすら駄目だなんて、そんな指図をされる謂れはない。そう言い返したかったのは堪えたけれど、心の中で激しく反論していた。
私が学び舎にやられているのだって、勉強のためじゃない。
私という人物の価値を周りに知らしめるために行かせているのだと、お父様も常々おっしゃっているわ。
良い夫を吟味するためにやっているのだから、淑女らしく振る舞って、お相手に気に入られるよう努めよって……。
アラタをこんなふうに誹っているこの方だって、勉強のためではなく、社交の場として学び舎を利用している。それくらいのことは私だってちゃんと分かっているのよ。
けれど、それを指摘したところでやはり、意味はないのよね……。
本当は言い返したいのに、それができないのは悔しかった。けれど、お父様の言いつけを守らなければと必死で自分に言い聞かせて、代わりにこう聞いたわ。
「では、どんな理由で学び舎にいらっしゃっているの?」
すると彼は、我が意を得たりといった様子で、笑った……。
「おそらく出資者を探しているのでしょう。アラトゥスの父親は落ちぶれた興行師です。全く成績の振るわない、連敗続きの弱小剣闘士団ですがね」
…………。
……剣闘士団?
「剣闘士団って……」
あの、剣闘士団よね?
当然知っていたけれど、アラタの雰囲気とそれが全く結びつかなかったものだから、聞き返してしまった。
でも、取り巻きのその方は、私が剣闘士団自体を知らないとでも思ったよう。
「剣闘士団というのは、娼館と同じようなものですよ」
娼館⁉︎
吐き捨てるように放たれた音に衝撃を受けてしまって、私は次の言葉を逸したの……。
「ようは、奴隷や娼婦の寄せ集めです」
「で、でもアラ、トゥスくんは……」
アラタと言いそうになって、とっさに誤魔化して、言葉を続けた。
「奴隷を連れていないわ……」
奴隷や娼婦を多く抱えているというなら、彼だって奴隷を連れて来れるはず。
でもアラタは一度だって学び舎に、奴隷を連れてきたことがない。
彼は平民であるから、労働力としての奴隷なんて持っていないのだと安易に思っていたのだけど……彼を知った今なら、それも違うのだと理解していた。
「剣闘士団を名乗るのも烏滸がましいくらい、見窄らしい一団なのですよ。だから連れ歩く奴隷もいないのでしょう」
――違うわ。
彼は、体裁のための手を必要としていないだけ。
私たちみたいに見栄を張る必要がないだけよ。
高貴な身の者は、いついかなる時も奴隷を連れているもの。
自分の手を使うなんてはしたないこと。代わりに使う手を持たないなんて恥ずかしいこと。
そう教わるから、私たちはいつも奴隷を連れ歩く。必要とは思えない時だって奴隷を使う。
でも彼は荷物くらい自分で持つし、やりたいことは自分の手足で行える。
そしてそれを恥ずかしいことだなんて、微塵も考えていないのよ。
実はクルトまでもが、学び舎に連れてくる奴隷に、授業が終わるまで好きにして良いと、こっそり自由を与えてしまっていることだって知っていたわ。
奴隷も上手く丸め込まれているみたいで、それを告げ口したりもしていないのか、いつも平気な顔をして共に学び舎までやって来る。
他の誰も気づいていない様子だったけれど……授業中、主人に全く注意を払わず、楽しそうに講義内容へ集中している奴隷は、私の目にはとても奇異に映っていた。
なんとも不思議な関係性。けれど……クルトにとってもそれは、ごく普通のことなのだと思う。だって彼は自分の血と奴隷の血が、同じ祖を持つと知っているのだもの。
「何よりあれの父親は酒浸りで借金も嵩んでいるとか。先日もツケが溜まりすぎて酒を出さなくなった酒場で暴れ、アラトゥスが連れ帰りに来たと耳にしましたし、その父親に殴られていたそうで……」
なんですって?
その時 背中側から何かがドン! と、当たったものだから、私はよろけてまた別の誰かにぶつかってしまった。
人の多い屋台通りは、いつもなら周りに注意しておくのだけど、言葉を交わすことに夢中で、意識できていなかったのがいけなかったわ。
「申し訳……っ」
慌てて謝ろうとしたれど、その言葉は酒気の強い息が顔にかかったせいで引っ込んでしまった。
飛び出しかけた咳を必死で飲み込んだわ。
失礼にもほどがある行為だと思ったのもあったけれど、私がぶつかった人が刀疵だらけの大男だと気づいてしまったから……。
飲食店が並ぶここは丁度昼時。当然お酒を飲んでいる人も大勢いた。だから絶対、気を緩めてはいけなかったのに……っ。
「なんだこのヤロウ、謝罪もなしか?」
澱んだ瞳でそう言われて、身が震えた。
だけど私以上に隣の彼と、荷物持ちの奴隷二人が恐怖に青ざめていたものだから、なんとか震えを抑え込んだわ。
必死で身を立て直して、衣服の裾を持ち上げて、小さく会釈。
「申し訳ございませんわ。私の不注意でした。お怪我はなかったかしら?」
「見て分かんねぇか? せっかくの酒がコボれちまって膝が濡れた。おかげで寒くてかなわねぇ!」
言われて見た膝は、ほんのちょっぴりだけ、赤い染みができていた。
けれど次の瞬間に肩をぐいと掴まれ引き寄せられたものだから、恐怖を通り越して頭が真っ白になってしまったの。
「言葉だけの詫びなんざイラねぇなぁ! 謝意は行動で示シテもらわねぇとよ!」
……仕方ないわよね。酔ってらっしゃるのだもの。
しばらくお相手をすれば、溜飲を下げて解放してくださるかもしれないわ。
お酒を楽しまれている方の接待は家で何度もやっていること。大丈夫、いつも通りで良いのよ。
自分にそう言い聞かせて、なんとか震える手を握り込んで誤魔化した。
けれど、酒気の強い息が耳と首にかかって、ゾクリと背筋に悪寒が走り、肩の手が動いて私の首筋を撫でたことで、悲鳴を上げそうになったその時。




