客観的基準を持たなければ流されるまま
私は無名の存在だが、それでも、私の書く文章に対する評価の仕方にはある偏りがある。
私は書く前から(この文章はポイントが付きそうだな、アクセスも増えそうだな)とか(この文章は駄目だろうな)とか、ある程度予測する。あくまでも大まかにだが、その予想は実際のポイントやアクセスと合致する。
私の予想は、実際にこれまで書いた文章が、今までどう評価されてきたかという蓄積から出てくるものだから、ある程度当たるというのはそれほどおかしな事ではない。
これは逆に言えば、聴衆には一定の好みがあるという事だ。もちろん、私の書いたものを読む人は数は少ないから、データサンプルとしては足りないに違いない。ただ、私の身に起こっている事を大規模にしていけば、聴衆や観衆には明らかにある一定の傾向が見つかるだろう。
この傾向を分析し、それに対していつも的確なコンテンツを生み出し続ければ、その人はヒットメーカーになれる。人気ユーチューバーとか、テレビ番組を作る人はそういう事をしているのだろう。
その場合、どういう作品が良いかという基準を大衆に委ねるという事になる。大衆に自らの基準を明け渡したタレント、ヒットメーカーのような存在が、今では神格化されている。
私自身の場合に戻ってみると、私のような無名の書き手にさえ、評価に偏りがある。「いいね」「ポイント」「アクセス」には傾向がある。この傾向を私は見る事ができる。
もちろん、私にとって、「ポイント」や「いいね」を付けてくれる人は私の仲間であり、応援者であり、ありがたい存在なのは間違いない。ただ、「ポイント」や「いいね」がどういう傾向の作品に付けられているかという事実が、書き手の私には無意識的な圧力となる。これは、今の世の中で作品を発表する人間には避けられない事柄だろう。
この圧力に屈すると、私はみんなが喜んでくれるようなものばかり書く事になる。私の書くもので言うと、日本社会批判のようなものは比較的受け入れられやすい。だから、圧力に流されると、私はそういう傾向のものばかり書く事になる。
私は、人の評価とは違う自分の客観的基準を持っている。またこの客観的基準に関しては毎日強化している。本を読んで考えたり、美術館に行って絵を見たりするのは自らの中の客観的基準を鍛えるという意味合いが大きい。
私は自分の書いたものの価値は、他人の評価ではなく、自分の基準に照らし合わせて判断するようにしている。それによると、私の書いた文章の良いものは、アクセス数が少なかったり、「ポイント」、「いいね」が少ない事がよくある。
私は別に「マイナーな作品をもっと評価してくれ!」と言いたいわけではない。ただ、作り手というのは、自分の中に客観的な基準を持っていなければならないと思うだけだ。もちろん、そんなものを投げ捨てた人が評価される世の中だろう。タレントはよく言っている。「他人から見た自分が自分だ」と。
「他人から見た自分が自分だ」というのは、この社会においては金言なのであろう。自分の基準を持たず、人々の喜ぶ事だけを目指す存在は立派な人なのだろう。ただ、私はそんな人は作り手だとも、書き手だとも、一切認めないというだけである。その判断は私の中の客観的基準によって行う。
人は「お前の客観的基準なんて知らないし、どうでもいい。それよりみんなを喜ばせる人のほうがいいに決まっている」と言うだろう。もちろん、そういう人達が支配した世の中だからこそ、私は「自分」というものを世界から防御する為に客観的基準を持っているというにすぎない。
自分の中に客観的基準を持たなければ、クリエイターは世の中に流されるままだ。自分の中に基準を持つという事は、自己批評的視点を持つという事を意味する。それは自分の中に批評家を一人置く事だ。自分の中に批評家がいなければ、作り手は、ただ世の中に流されるままに終わってしまう。
思えば、バッハは「神」という名の批評家を自分の中に置いたのだろう。バッハは、地上の人間に誹謗されたとしても、神が満足するような音楽を作ろうと努力したのだろう。自分の中に基準を持つ事は、あらゆる芸術家に要求される事だ。それを持たない者は、私は、芸術家でもなんでもないと思う。もちろん、これを作るのはそれなりの時間と労力を必要とするが。