聖女のために鐘は鳴る
ゴーン……。
ああ、まただ。
灰色の空に重々しく広がっていく音を聞きながら、私は唇を引き結ぶ。
「鐘の音が嫌い?」
背後からの声に振り返ると、私と同じくらいの歳の少年が立っていた。
中性的で繊細な見た目の子だ。背はあまり高くなく、輝く肌とまつげの長い丸い緑の目。亜麻色の髪をリボンで一つに結んでいる。
こんな寂れた路地裏にいるのはふさわしくない男の子だ、と思った。だって、何となく高貴な雰囲気が漂っていたから。
「……好きなわけないでしょ」
少年をジロジロと観察しながら、私は彼の質問に答えた。
「だって、分かっちゃうじゃない。教会の鐘が鳴ったら、また誰かが死んだんだ、って」
この王都にある教会の時計塔の鐘が鳴らされるのは、お葬式の時だけだ。
そして、その葬儀の鐘の音は、ここのところ毎日鳴っていた。
「君は優しいんだね。全然知らない人の死を悼むなんて」
「……確かに人が死ぬのは悲しいわ。でも、それだけじゃないっていうか……」
私はここからでも見える時計塔に視線をやった。
「あの人たちは生きる意味も分からないまま死んでいったのかな、って考えてたのよ」
「生きる意味?」
「……あのね、私の両親は流行病で死んだの」
数年前から、この国では疫病が流行っていた。
まだ治療法も見つかっておらず、多くの死者も出ている。教会の鐘が鳴り止む暇もないのは、そのせいだった。
「私も同じ病気にかかったんだけどね。でも、奇跡的に助かったの」
「その割には嬉しそうじゃないね」
指摘を受けてドキリとした。私は時計塔から視線をそらす。
「だって……お父さんもお母さんも、もういないんだもの」
両親を失った私は、孤児院で暮らすことになった。けれど、一人ぼっちになってしまった寂しさが消えることはなかったんだ。
「私、引き取られたばかりの頃はよく泣いていたわ。『こんなことなら、助からなきゃよかった』って。……そんな私を見かねて、院長先生がこう言ったの」
――あなたが生き残ったのには、きっと意味があるはずです。その『意味』が見つからない方が、よっぽど不幸だと思いませんか?
「……私、これ以上不幸にはなりたくないから」
両親が死んでどん底の気持ちなのに、これ以上最悪なことが起こるだなんて、考えただけで身震いする。
「……つまり今の君は、生きる意味を探してる真っ最中ってことなんだね。……もしかして、手こずってる?」
少年の言葉に私は頷いた。
だって、『生きる意味』だなんて言われても、ピンと来なかったから。私は重要な地位にあるわけでもないただの平民だ。何のために生きてるのか、なんて今まで考えたことすらなかった。
そんな私に『生きる意味を探す』なんて使命は、重すぎるように感じられたんだ。
「……僕には君の『生きる意味探し』の手伝いは無理かもしれないけど、気持ちを楽にしてあげるくらいならできると思うよ」
私があんまりにも暗い顔をしていたからなのか、少年が励ますような声を出す。
「僕、シグルドっていうんだ。君は?」
「……ニーナ、だけど」
「じゃあ、僕がニーナの大嫌いなあの鐘の音を、『好き』に変えてあげるよ」
少年は時計塔を指差した。
「僕もあの鐘を鳴らす。ただし、一回じゃなくて二回だ」
「……何それ。回数が増えただけじゃない」
「違うよ。鐘が一回鳴るのはお葬式の時でしょう? でも二回鳴ったら……そうだ! 僕が君に会いたがってる、ってことにしよう! 集合場所は時計塔だよ!」
言うなり、シグルドは駆けて行ってしまった。私は呆気にとられる。
「何なの、あの子……」
そうは言ってみたけれど、不思議と心が軽くなっていた。誰かに悩みを話せたことで、すっきりしたのかもしれない。
ゴーン、ゴーン……。
シグルドの言った通り、鐘が二回鳴った。その音色が、私の心にこびりついていたモヤモヤとしたものを拭い去っていくのを感じる。
……シグルドってすごい。まさか、本当にあの鐘の音を悪くないと思える日が来るなんて。
何だか、今なら『生きる意味』でさえ簡単に見つけられそうな気分だった。私は軽やかな足取りで時計塔を目指す。
その時の予感は当たった。それから間もなくして、私は『星』を……類い稀なる力を手に入れたんだから。
****
――十年後。
「また今日も治せなかったのか、星の聖女」
国王陛下の寝室から退出すると、待ち構えていた第一王子から嫌味な声が飛んだ。私は頭を下げる。
「申し訳ありません。回復にはまだ時間がかかるようで……」
「素直にできないと言えばいいだろう。……さあ、用が済んだら帰れ。ここは役立たずの平民がいつまでもいていいところではない」
これ以上は第一王子の機嫌を悪くするだけだ。私はもう一度「申し訳ありません」と謝り、その場を立ち去った。後ろから、王子の鋭い視線が追ってくる。
曲がり角にさしかかり、やっと彼の攻撃的な眼差しから逃れられて肩の力を抜いた時だ。今度は、「きゃあ!」という悲鳴が聞こえてきた。
階段の下に人だかりが見える。その中心で、使用人の女性がうずくまっていた。
「……っ」
落ちた時に捻ってしまったのか、女性は足首を押さえて苦悶の表情を浮かべていた。周りにいた使用人仲間や偶然通りかかったらしい貴族たちが、「お医者様を呼んで来ないと!」と慌てている。
その様子を見た私は人波を掻き分け、怪我人の元へと向かった。
「あ、あなた様は……!」
私の顔を見るなり、怪我をした女性は目を丸くした。私は「大丈夫ですよ」と微笑む。
「癒しの光よ……」
使用人の傍にかがみ込んだ私は呟いた。すると、私の周囲を飛んでいた光の欠片たちがゆっくりと形を変えていく。
まるでベールのような形状となって、使用人の足へと吸い込まれていった。
「あっ……」
使用人が小さく声を上げる頃には、彼女の怪我はすっかり治っている。周囲からは感嘆の声が漏れ出た。
「さすがは星の聖女様の再来……」
「国を救った力、何度見ても感動いたします!」
「なんと素晴らしいのでしょう!」
皆は口々に純粋な賞賛の言葉を述べる。怪我が治った使用人など、涙まで流してありがたがっていた。私はそれに対し、「大したことはありませんよ」と応じる。
ゴーン、ゴーン……。
私の耳が、かすかな鐘の音を拾う。
きっかり二回鳴らされた後に鳴り止んだその音に、私の心臓が跳ねた。
「すみません、失礼します!」
まだまだ褒め言葉やお礼を続けようとする周囲の人たちに一言言って、私は走り出した。段々と表情が緩んでいくのが止められない。
****
星の聖女の再来。私は皆からそう呼ばれていた。理由は、私が神話時代に国の危機を救ったと言われている女性――星の聖女と同じ癒やしの力を持っているからだ。それに、力だけではなく見た目も似ているようだ。
私の周りには、光の粒が集まってできたような大小の白色の球体がいくつも浮いていた。これが『星の聖女』の由来だ。この『星』は、癒やしの力が実体化したものなんだとか。
それに、私の長い銀髪も初代星の聖女と同じらしい。
と言っても、昔からこうだったわけじゃない。前は黒髪で長さもせいぜい顎の辺りまでしかなかったのに、ある日を境に色が変わって、座ったら床に着くくらいまで伸びてしまったんだ。
その『ある日』というのが、私が『星』を授かった時だった。
それ以来、私は国中を渡り歩いてこの力を使い続けた。疫病患者の治療のためだ。
その試みは上手くいった。私が念じるだけで、お医者様も匙を投げたような重症患者さえたちどころに良くなってしまう。他の怪我や病気についても同様だった。
それでもまだ病を根絶できたわけではないけど、皆は私のことを『国を救った星の聖女様』ともてはやしているんだ。
どんどん早くなる鼓動を聞きながら王宮を出た私が向かったのは、教会の時計塔だった。
塔の中の階段を登り、いつもの部屋のドアを開ける。すると、中にはすでに見知った青年がいた。
「相変わらず早いね、星の聖女様。君はどこにいても鐘の音を聞きつけてくる」
青年は緑の目を細めて笑う。それだけで、私は天にも昇る心地になった。
「シグルド殿下こそ、毎日のように私を呼びつけて、お暇なんですか?」
私はわざとおどけた態度で返事する。青年は「別に暇じゃないよ」と返した。
「でも、ニーナに会うためなら時間くらい作るよ」
そう言って青年――シグルドは私に椅子を勧めた。
十年前のあの日に私が出会った少年が、実はこの国の第二王子だと知ったのは、ずっと後になってからだった。
『星の聖女の活躍を知った国王陛下が、直々にお褒めの言葉を与えたいと仰っている』って言われて王宮へ行ってみれば、陛下の傍らに王子としてシグルドが控えていたんだ。
あまりにも驚いたものだから、陛下からどんなお言葉を賜ったのかも忘れてしまったくらいだ。
どうやら好奇心旺盛なシグルドは、よく住民に化けて城下を散歩していたらしい。
ただの平民じゃないような気はしていたけれど、まさか自分がよく会っていた男の子が王族だったなんて夢にも思っていなかったから、未だに信じられないような気分だ。
「ねえ、これ見て」
私が椅子に座ると、シグルドは机の上に大きな紙を広げた。何かの設計図みたいだ。
「王都に新設する水道の整備計画だよ」
シグルドが紙の端にペーパーウエイトを置きながら言った。
「もしかして、前に言ってた疫病を完全に終息させるための町作り?」
「その通り。学者さんたちによると、感染源は水らしいんだ。だから今ある水道を……」
設計図の上に指を滑らせながら、シグルドは生き生きと話す。私はそんな彼を熱のこもった目で見ていた。
幼い頃からシグルドは何も変わっていなかった。線の細い体付きと澄んだ瞳。背は伸びたけど、それでも大柄な方じゃない。中身も昔と同じ純真なままだ。
そして、変わらないのは私も同じだった。もちろん、見た目の話じゃなくて、彼への想いのことだ。
いつからか、私はシグルドが好きになっていた。こうして二人でいるだけで、ときめきが止まらない。
「……っていう感じかな。ニーナはどう思う?」
計画図について一通り説明を終えたシグルドが尋ねてくる。私は腕組みした。
「シグルドの言いたいことは分かったけど……。でも、そんなことできるの? いい顔しない人だっているでしょ。第一王子とか」
シグルドと第一王子は兄弟だ。でも、あんまり仲がよくないせいで、しょっちゅう対立している。
今は国王陛下が病気で、それに代わって政務の大半を務めているのは第一王子だった。
こんな大規模な計画を遂行するのは、シグルドの独断では無理だろう。けれど、弟が嫌いな第一王子の賛同を取り付けるのは難しいとしか思えない。
「……そうなんだよね」
私と同じことを考えていたのか、シグルドの顔に影が差す。予想以上に落ち込んでしまって、私は慌てて「大丈夫よ」と言った。
「計画を実行に移せなくたって、私がいるじゃない。『星の聖女の再来』の私が、病気を治してあげる。だって、それが私の生きる意味だから」
私は誇らしげに胸を張った。
シグルドと出会った頃の私は、どうして自分が生き残ったのか分からずに、ずっと悩み続けていた。
けれど、こうして癒やしの力に目覚めてからは違う。今の私には、自分が生きているのはこの力で皆を救うためだって、はっきりと言い切ることができた。
だから、私は力を使うことに何の躊躇いもない。けれどシグルドは、「でも……」と不満そうな顔になる。
「いつまでも君に頼り切りっていうわけにはいかないでしょう? だってその力、いつなくなるのか分からないんだし……」
シグルドの言葉に、私は思わず両手をぎゅっと握りしめた。軽く唇を噛む。
伝説では、星の聖女はある日突然力を失ったと言われていた。だとするならば、星の聖女の再来である私にも同じことが起きないわけがない、というのがシグルドの見解だ。
力の喪失は私が最も恐れていることだった。だって、この能力は私の生きる意味そのものなんだから。この力がなくなってしまったら、一体どうしたらいいと言うんだろう。
「……私の力はなくならないわ」
暗黒の未来を思い浮かべるのが怖くなって、私は空元気を出した。
「まだまだ星の聖女として活躍しないといけないんだもの! シグルドのお父さん……国王陛下だって助けないといけないし!」
「……今日も王宮へ行ってきたんだよね」
私の恐れを見抜いているシグルドが話を変える。私は安堵しながら「ええ」と言った。
「お医者様たちも頑張って治療しているし、私も何とかしようとしてるんだけどね……」
せっかく話題を逸らしてもらったけど、今度はさっきとは別の意味で重たい気持ちになる。
国王陛下が謎の病で倒れたのは、二ヶ月ほど前のことだ。お医者様たちが招集されると同時に私も王宮へ呼ばれ、陛下の病気を治すべく力を使った。
でも、上手くいかなかったんだ。それ以来、週に一度は陛下の元に通っているけれど、何故か何回試しても私の癒やしの力が効く様子はなかった。
こんなことは初めてだ。今までは治せない病気なんかなかったのに……。
「お陰でまた第一王子に嫌味を言われちゃったわ。しょうがないと言えばしょうがないんだけど……。私、必要以上にあの人に嫌われてる気がするのよね」
兄弟だけあってシグルドと第一王子はよく似ていたけれど、私は第一王子のことが苦手だった。快活なシグルドと違って、何を考えているのか分からない人っていう印象だから。身も蓋もない言い方をしてしまえば根暗なんだ。
「兄様はあんまり身分が高くない人を見下してるところがあるからね。……知ってる? 兄様の婚約者に、ニーナが選ばれるかも、っていう話」
「わ、私!?」
突拍子もないことを言われた気がして、私は椅子から転げ落ちそうになった。
「それって、私が星の聖女の再来だから!? 絶対嫌よ、そんなの!」
「そうだよね。……よかった」
「あんな人、結婚相手どころか王様にだってなって欲しくないわ!」
シグルドが何か言った気がしたけど、感情が高ぶっていた私はほとんど気にも留めずに捲し立てる。
「国王陛下だってそう思ってるわよ! 私、前に使用人たちが話してるのを聞いたんだから! 陛下が第一王子を廃嫡して、シグルドを後継者に……」
「ニーナ、そんなのただの噂だよ」
冷静な声で窘められ、私は我に返って黙る。シグルドがやれやれと肩を竦めた。
「兄様の耳に入ったら荒れるから止めてね。あの人、プライドが高いから……」
「聖女様! 星の聖女様はおられますか!」
階段を勢いよく上がってくる音に、私たちの会話は中断する。室内に騎士が飛び込んできた。
「ああ、やはりシグルド殿下とご一緒でしたか」
私たちが幼馴染みで、この時計塔でよく会っているというのは、一部の人間にとっては周知の事実らしく、騎士は動じた様子もない。「何事?」とシグルドに聞かれ、騎士は額の汗を拭いながら姿勢を正した。
「国王陛下の容態が急変いたしました。医師の話によると、一刻を争う事態だそうです。聖女様、至急王宮へいらしてください」
****
私が王宮へ駆けつけた頃には、国王陛下は虫の息だった。寝室へ通された私は、蒼白い顔でベッドに力なく横たわる陛下を見て胸を痛める。
「聖女様……」
控えていた医師団が懇願するように声をかけてきた。私はすぐにベッドへ近寄る。
「癒やしの光よ……」
いつもと同じように私は力を解放した。体の周りを飛んでいた白い光の球がベール状になり、陛下の体を包み込もうとする。
「……!」
その途端に異変が起こった。まるで私の癒やしの力を拒むように、陛下の体の中から黒いモヤのようなものが湧き出てきて、それが光を押し返したんだ。
「……っ!」
私は焦りを覚える。いつもこうなのだ。
この謎の黒いモヤ。これにいつも邪魔をされる。このモヤが陛下と光の間に薄い膜のように漂っているせいで、私の力が充分に届かないんだ。
どんな病気も治せるはずの私が唯一彼の治療に手こずっているのは、これが原因だった。
「聖女様……」
医師団から心配そうな声が上がる。どうやら彼らには、この黒いモヤは見えていないらしい。私は表情を硬くしながら、「大丈夫、大丈夫ですから」と言った。
私は懸命に祈った。国王陛下の命は風前の灯火なんだ。助けるためには、何が何でも光を届けないといけない。
「お願い、光よ……」
私は両手の指を固く組み合わせる。
「お願い、お願いだから……」
しかし、私の願いが叶うことはなかった。
それから一時間後、陛下は眠るように静かに息を引き取ってしまったのだ。
****
陛下の葬儀が行われたのは、霧雨の降る翌日のことだった。
その遺体は棺に収められ、王宮の敷地内にある火葬場へと送られていく。棺の担ぎ手の後ろに王族や主立った貴族たちが列をなしてついていき、私もそれに従った。
すすり泣きがあちこちから聞こる。私は言いようのない無力感に駆られた。
どうして何もできなかったんだろう。これじゃあ……聖女失格じゃない。
貴族たちからの弔辞が次々と読み上げられ、棺が燃やされる。これ以上はとても直視できなくて、私は目を逸らしかけた。
しかし、奇妙なものを見てしまい、私は動きを止める。立ち上る煙に混じって、あの黒いモヤがすうっと空へ昇っていったのだ。
そのモヤは、今度は葬儀に参列していた第一王子の周りを取り囲み始めた。
明らかに異常な光景だ。でも、周りをそれとなく見回してみても、この異変に気付いていそうな人はいない。
そういえば、医師団たちもあの黒いモヤは見えていないような様子だったっけ。もしかして、あれは私にしか知覚できないのかもしれない。
私は急いでその場を後にした。妙に胸がざわついている。
「シグルド」
私は他の王族と一緒にいた喪服姿のシグルドにこっそりと声をかけた。人気のない場所まで連れて行く。
「……何?」
お父さんを失ったショックで、シグルドはすっかり憔悴しているように見えた。
こんな状態の彼に話をするのは忍びなかったけど、ひどく嫌な予感がしていたものだから、私は先ほど見た光景を彼に聞かせることにした。
「何それ……」
話を聞いたシグルドは困惑の表情を浮かべる。
「じゃあ、そのモヤが父様を殺した、ってこと?」
「殺したっていうか……そうなるのかしら」
正確には、『治療ができなかった』なんだけど。
「そんな危険なものが、今度は兄様に取り憑いたなんて……」
シグルドは固く握りこぶしを作って、決意の表情を浮かべた。
「それが何なのか、僕、調べてみるよ。父様に続いて兄様も失うなんて、絶対に嫌だから……」
兄弟仲はよくない二人だけど、シグルドにも肉親としての情はあるらしい。硬い表情のまま、どこかへ行ってしまった。
「シグルド……」
シグルドは陛下を治せなかったことで、私を一言も責めなかった。それが余計に私を苛む。
今まで私は、あのモヤのことを誰にも言ったことはなかった。『臣民の動揺を防ぐため、治療中に知り得たことは口外しないで欲しい』と口止めされていたからだ。
けれど、そのせいで私は黒いモヤの正体を知ることもできずに、結果的に陛下を死なせてしまった。もし今みたいに誰かに相談していれば、もっと違った結末になっていたかもしれないのに……。
そう思うと、今度こそ私も何かしなければという気になってくる。
私が会場へ戻ると、ちょうど葬儀が終わる頃だった。私はシグルドの姿を探してあちこちを見回す。
「皆、よく聞け」
シグルドはここにはいなさそうだと判断した私は、会場を立ち去ろうとした。けれど、突然響く大声に足を止める。
祭壇の前に第一王子がいた。黒いモヤを体に纏わり付かせながら、参列者たちを睥睨している。
「私は父の死について、皆に言っておかなければならないことがある」
第一王子の言葉に、皆は顔を見合わせる。私も気になって、その続きに注意深く耳を傾けることにした。
「父は病気で死んだのではない。殺されたのだ」
まさかの告白に、皆の間に動揺が広がっていった。私も狼狽する。殺された、とはどういうことなのだろう。まさか第一王子には、あの黒いモヤが見えているのだろうか。
しかし、彼が発した次の一言は、もっととんでもないものだった。
「犯人はそいつだ。星の聖女ニーナ」
第一王子は大勢の参列者の中から私を指差した。何を言われたのか分からずに、私はその場に立ち尽くす。辺りは重苦しい沈黙に包まれた。
「伝説によれば、聖女に治せない病はないという。にもかかわらず、父は死んだ。聖女の治療を受けていたのに死んだのだ。これがどういうことか分かるな? その女が父を見殺しにしたのだ。もしくは、聖女であるということ自体が偽りだったのかもしれない」
どちらにせよこれは大罪だ、と第一王子は続けた。
「その女は罪を償わねばならない。即刻処刑せよ!」
周囲に轟くほどの大声に、誰も何も言えなかった。もちろん私もだ。
雨が止み、誰一人石像のように固まって動かなくなった中を、不吉な黒いモヤだけが、我が物顔で第一王子の周りを漂っていた。
****
それから数日後。私は馬車に揺られていた。
第一王子の言い分は、どう考えても道理に合わなかった。陛下を殺しても、私には何の得もない。それに私に癒やしの力があるというのは、今までの例からちゃんと分かっている。
けれど、そんな周囲の説得に第一王子は全く耳を貸さなかった。
シグルドも必死になって兄を説き伏せようとしたけど、それはかえって彼の気分を害してしまったようだ。誰もやらないなら自分がこの手で殺してやる、と言って、剣を片手に私に切りかかってこようとしたんだ。
それでも皆は一丸となって第一王子を説き続けた。その甲斐あったのか頑固な第一王子も遂に折れて、私は処罰を国外追放に軽減された。
着の身着のまま粗末な馬車に乗せられ、せき立てられるように王都から追い出される。シグルドと言葉を交わす暇さえないほどの慌ただしい出発だった。
「ああ……お可哀想な聖女様……」
馬車の外には、私の逃亡を防ぐための見張りの騎士たちが何人もいた。けれど、皆この役目を負いたくて負っているわけではないようだ。
「聖女様が陛下を害しただなんて、言いがかりに決まっているのに……」
「あの方は恩知らずです。聖女様のお陰で、どれほど多くの命が救われたと思っているのでしょう!」
「俺の母さんも聖女様に治してもらえなかったら、きっと今頃流行病で……」
嘆く騎士たちの声を聞きつつ、私は芥子粒のように小さくなっていく王都を小窓から眺めていた。
「これが私にふさわしい末路なのかしら……」
ポツリと呟く。
人を助けることが自分の生きる意味だと思っていた。けれど、私は陛下を救えなかった。死なせてしまったんだ。
そんな私は、もう生きている資格がないんじゃないだろうか。このまま寂しい辺境で一人で朽ちていくのがお似合いなのかもしれない。
皆は私への処分に不満があるようだったけど、他ならぬ私が心のどこかで納得してしまっている部分があったのだ。
けれど、何の心残りもないと言えば嘘になる。
「せめて、お別れくらい言いたかったな……」
シグルドのことを考えて、私はうつむいた。
小さい頃からずっと大切だった人。これから国を追い出されてしまう私は、きっともう彼には会えないだろう。
もし許されるなら、「さようなら」って言った後に、「大好き」と伝えたかった。彼と出会ってもう十年だ。どうしてこんな簡単な一言を今まで口にしてこなかったのか、私は心の底から悔やんだ。
ゴーン、ゴーン……。
目の前が真っ暗になるような絶望を味わっていた時だ。とても小さいけれど鐘の音が聞こえてきて、私は顔を上げた。
「シグルド……」
呼んでるんだ、私を。
もしかしたら彼は、私が追放になったのを知らないのかもしれない。今まで通り気軽に会えると思って、鐘を鳴らしたんだろう。
そう考えた瞬間に、自分の身に起きたことを粛々と受け入れていたはずの私の心は大きく揺れた。会いたい、とこれほど強く感じたことはない。シグルドの顔を見る最後のチャンスかもしれないんだ。それなのに、無視をしてしまってもいいんだろうか。
不意に馬車が止まった。外から扉が開かれる。
「どうぞ、聖女様」
騎士たちに出るように促されて、私は目を見張る。皆は微笑んでいた。
「聖女様、行ってください」
「どうか私の馬をお使いくださいませ」
「あのいけ好かない第一王子の鼻を明かせるのかと思うと、スカッとしますねぇ」
皆、私が本当はどうしたいのか分かっているらしい。何故か涙が出そうになったけど、私は目元をきつく擦った。
「……ありがとうございます」
私の心は決まった。
確かに、もう私に生きている意味はないのかもしれない。けれど、それならそれで、最後に好きな人の顔を見ておこうと決めたのだ。
****
騎士に馬を借りた私は、王都の町を駆け抜けた。時計塔の前で下馬して、建物内の階段を一段飛ばしで走り抜ける。そして、いつもの部屋のドアを開けた。
「シグルド!」
中にいる想い人の胸に飛び込もうとした私は固まった。そこにいたのは、シグルドだけではなかったんだ。
「で、殿下……」
シグルドの兄王子を私は凝視してしまう。第一王子は眉を吊り上げた。
「貴様、何故ここにいるんだ。今頃はとっくに王都を出ているはずだろう」
「……僕が呼びました」
シグルドは厳しい顔で兄を見つめる。
「ニーナにも本当のことを知ってもらいたかったんです」
「本当のこと?」
何故第一王子がいるのか説明が欲しかったが、シグルドの言葉も気にかかって聞き返すと、「父様の死の真相だよ」と彼は言った。
「……単刀直入に尋ねます、兄様。父様を弑したのは兄様ですね?」
シグルドの言っている意味が分からず、私は彼を凝視してしまった。一方の第一王子は、仮面を着けているような無表情だ。
「……どういうこと? ちゃんと教えてよ」
睨み合ってしまった兄弟は、それから一言も喋ろうとはしなかった。やっと衝撃から立ち直った私はシグルドに質問する。
「第一王子が陛下を殺したって……どうしてそう思うの?」
「……見えてるでしょう、君には。黒いモヤみたいなのが」
今も第一王子の周囲を漂っている、あの謎のオーラのことを言っているようだった。私は頷く。
「でも、実は君だけじゃないんだよ。もう一人だけ、見えてる人がいたんだ。兄様だよ。作った張本人だからね」
シグルドは不可視のモヤを見ようとするように、兄の周りに視線をやる。
「ニーナから葬儀の日に話を聞いて……僕、王宮の地下にある書庫へ行ってみたんだ。そこで、古い文献をいくつも当たった。それでね、ついさっき、やっとその正体が分かったんだ。あれは一種の呪いだよ。神話時代、星の聖女と対立していた者たちが作り出したものなんだ」
実の兄の罪を暴くように、シグルドは一言一言、ゆっくりと話す。
「あの呪いを受けると、癒やしの力を受け付けなくなってしまうんだよ。それだけじゃない。呪われた人は徐々に弱っていって、最後には死んでしまうんだ」
私は口元を手で覆った。陛下が倒れたのは病のせいだと皆が思っていた。しかし、本当は呪いによるものだったというのか。
「呪いは対象を死に至らしめた後、術を行使した人の元へと帰っていく。そして、次の標的に取り憑く隙を今か今かと待つんだ」
「術を……行使した人……」
私はショックを受けていた。
シグルドがあのモヤについて調べていたのは、兄を危険にさらさないためだった。それなのに、そのモヤを作り出したのは兄本人だったのだ。しかも、彼はモヤを使って父親を殺していた。こんなひどい話があるだろうか。
私は第一王子を見つめた。相変わらず表情が抜け落ちたような顔だったが、やがてその唇が小さく動く。
「……それで?」
不遜に言い放った第一王子は、邪悪な笑みを浮かべた。
「そうやって本当のことを嗅ぎつけて、それで私に勝ったつもりか?」
第一王子は高らかに両手を天に掲げた。黒いモヤが一瞬でその濃度を増し、私は鳥肌を立てる。今まで感じたことがないくらいのおぞましい気配がそこから漂っていた。
「どうせお前は私を見下しているんだろう、父上と同じように。廃嫡されて当然、と。訳の分からない平民としか婚約を結べなくて当たり前、と……」
「兄様……」
シグルドは力なく首を振った。
「僕はそんなことを一度も思ったことはありませんよ。それに父様だって……。それなのに、兄様は……」
シグルドは顔を歪める。ますます濃くなるモヤに隠れ、すでに第一王子の姿はほとんど見えなくなっていた。
「兄様はありもしない妄想に取り憑かれて、父様を殺した。そして、その罪をニーナに着せようとした。邪魔者を……いっぺんに片付けるために……」
シグルドは悲痛な声でそう言ったけど、すぐに強い口調で「もうやめましょう、兄様」と兄に忠告する。
「もう呪いを使おうとしないでください。それは危険なものなんです。これ以上は兄様の身が……」
「黙れ」
モヤの向こうから第一王子が言った。
「王は私だ。何人たりとも私に命令はできない。そうだろう? ハハ……ハハハハッ!」
嘲りを含んだ高笑いが響いた。
「そう、私が王なんだ。私……私が……わた……し……が……」
第一王子の声が段々とくぐもっていく。私たちが異変に気付いた時には、すでに遅かった。
「な、何を……! やめ……! 息……が……」
第一王子の体がモヤに取り込まれていく。彼は渾身の力でそれを振り解こうとしていたが叶わない。その存在ごと消し去ろうとでも言うように、モヤが王子の体と共に小さくなっていく。
「兄様っ……!」
シグルドが兄を助けるために慌てて近寄ろうとした。
「来るな、来るな、来るなっ……!」
第一王子が断末魔の声を上げる。その刹那、彼を取り巻いていた呪いの一部が黒い雷のようになってシグルドを直撃した。
シグルドが床に倒れ伏すのを見て、私は絶叫する。
「シグルド!」
第一王子の体を完全に取り込んだモヤが霧消する。その後には何も残っていなかった。
「シグルド、お願いだからしっかりして!」
第一王子の死体すら残らない壮絶な最期を目の当たりにして、私は狂ったようにシグルドの名前を呼んだ。
しかし、シグルドは目を閉じてぐったりとしており、ピクリとも動かない。まだ脈はあるけれど、このままではシグルドが死んでしまうと焦った私は、星の聖女の力を使うことに決めた。
「癒やしの……光よ……」
声が震え、舌ももつれて上手く言葉が出てこない。
それでも私の周りの『星』たちは形を変え、輝くベールでシグルドを包み込み始めた。彼の緑の目が微かに開く。
「ニーナ……」
シグルドは弱々しく私の名前を呼んだ。
「よかった……ニーナ……」
「何にもよくないわよ!」
私は長い銀髪を振り乱して叫ぶ。
「あなた、呪いを受けたのよ!?」
「……そう、呪いだよ」
シグルドは笑う。
「ニーナのせいじゃなかったんだよ……。ニーナは……ちゃんとした聖女……なんだ……」
私は瞠目した。死に瀕しているというのに、シグルドが気にしていたのは私のことだったのだ。
「まだ、君の生きる意味は……失われていない……。だからニーナ……。これからも一緒にいてよ……。だって僕、ニーナのことが……」
シグルドは苦しそうなうめきを上げる。シグルドの周りを、黒いモヤがうっすらと覆っていた。呪いの残滓だ。
「そんな……シグルド!」
私は血の気が引くのを感じた。
「ダメよ! シグルド! シグルド!」
シグルドの呼吸は段々と弱くなっていっていた。このままだと、じきに心臓も止まってしまうだろう。陛下もそういう風にして死んだんだから。
「嫌……!」
私は震えながらさらに強く念じた。癒やしの光がますます強くなっていく。
「私だって一緒にいたいのに……こんなところでお別れなんてしたくないのに……」
黒いモヤが光を押し返す。光はシグルドには届かず、彼の死は間近に迫っていた。
「シグルド……」
自分の無力さを噛みしめた私は落涙する。
シグルドは『私の生きる意味は失われていない』と言ってくれた。でも、ここで彼を助けられなかったとしたら、これから先、何のために生きていけばいいのか分からなくなる。
「……あっ」
不意に、私はあることに気付いた。
私はシグルドと一緒にいたいと思っている。彼と一緒に、生きたいと思っているんだ。
暗く染まっていく思考の中に、一筋の光が差したような気分だった。どうすればいいのか、私は本能的に直感する。
「光よ……」
深く息を吐き出す。全身全霊を込めて、私は祈った。
「彼の者を救え。光よ、癒やしの光よ。……全ての光よ!」
辺りが目も眩むような輝きに覆われた。
光のベールは広がる。どこまでも、どこまでも。星が爆発したように際限なく光り、煌めきは波のように伝播した。
けれど、それは一瞬のことだった。気が付けばいつもの光景が広がっている。それと同時に、私の中から何か温かいものが抜け出ていくのを感じた。
「うっ……」
小さな声を上げて、シグルドが身を起こした。ぼんやりとした顔つきで自分の両手を見つめる。
「僕……生きてる……? ……ニーナ!」
こちらに視線をやったシグルドは、一気に意識が覚醒したように目を丸くした。私は部屋の壁にかかっていた姿見に目をやる。
そこに映っていたのは、この部屋に入ってきた時とは違う私だった。床につくくらい長かった銀髪は黒くなり、肩の高さよりも短くなっている。それに、体の周りにも『星』は飛んでいなかった。
「……私、もう星の聖女じゃなくなったみたい」
シグルドは衝撃を受けているようだったけど、私は驚かなかった。だって、こうなると分かっていたから。
恐らく、私は強すぎる癒やしの力を制御するため、普段は無意識に力をセーブしていたんだろう。
でもこの非常事態に当たって、私はその制御を解除した。そして、全ての力を出し切ったんだ。その結果、こうして私は『星』を失った。
それは同時に、私から癒やしの力が失われてしまったことを意味する。
「僕の……せいだ……」
シグルドは呆然となっていた。
「ごめん、ニーナ……。僕……君にひどいことをした……。君の生きる意味は人を助けることだったのに……。それなのに……」
「シグルド、謝らないで」
私はまっ青になっているシグルドの手を握りしめた。
「これは私が決めたことなんだから。もう癒やしの力で皆を救えなくなってしまってもいい、って。だって、別の生きる意味を見つけたんだもの。……ううん、本当はずっと前から探し当ててたのかもしれないけど」
私はシグルドに抱きついた。
「シグルド、大好きよ。これからも私と一緒にいて」
好きな人と共に過ごすこと。『生きる意味』を、私は大層に考えすぎていたのかもしれない。これからどんな風に生きていきたいか、どうなりたいか。ただそれだけのことだったんだ。
「ニーナ……」
顔は見えなかったけど、シグルドの声は震えていた。私の背中に腕が回される。
「僕も……君のこと、大好きだよ……」
私に生きる意味を与えてくれた人からの愛の告白。それを聞きながら、私はこれからの幸福な未来に思いを馳せずにはいられなかった。
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王位を継承するはずだった第一王子がいなくなり、次の王には弟のシグルドが即位することが決定した。
王となったシグルドは都市の改造計画を実行。その政策は功を奏し、聖女の力を借りずとも国から疫病は根絶された。
この功績をもって、人々はシグルドを『救国の王』と称えた。まるで雲の上の人のような呼び名に、さすがの私も神々しさを感じずにはいられない。
けれど、それはあくまでも『王』としてのシグルドに対してだ。
ゴーン、ゴーン……。
二度鳴らされる鐘の音。それは、シグルドからの合図だった。この音を聞いたら、私はどこにいてもすぐに時計塔へ駆けつけることにしている。
昔は片思いの相手に会うため。そして今は、夫と二人だけの睦まじい時間を過ごすために。