02
帰りがけに、紙で渡すように言われています、と彼からもらった契約書類には、細かい文字がびっしりと並んでいた。
ウキオロシは、契約が満期となる半年の間に、多くて六回まで来てもらうことができる。定期的に次回の訪問日時を連絡するが、必要ないと感じたらキャンセルができる。
また、途中でウキオロシが不要となったら契約を解くことができるのだそうだ。
しかし大切な決まりもあった。小箱に詰められたウキは、よほどのことがない限りすぐに溶かしてしまわなければならない。そうしないと、それはまた心の母屋に降り積もり、だんだんと固く凍り付いてしまうのだそうだ。
他にも細かい契約内容が続いていた。
下ろしたウキの内容を、家族や友人であっても決して語ってはいけないこと。
ウキオロシの作業員と個人的な連絡のやり取りをしないこと、等々。
小箱の上蓋は、きっちりとはまり込んでいたが少し力をこめると案外と簡単に外れた。
開けたとたん、夜の冷気とともに囁きのようにかぼそい声が
「ウキは五四件です」
と告げた。
中には、薄い灰白色のかたまりが詰まっていた。あんなに灰色の人が何度もなんどもスコップをふるっていたのに、落とすとこんなに小さな箱に収まってしまうというのが、何とも不思議だった。
説明に聞いた通り、私はその中のひとつをそっとつまみ出し、手のひらに乗せた。
―― 迷惑メール、立て続けに五件。
指でつつくと、手首のあたりにぼんやりと文字が浮かぶ。
―― とかす/はなす
これも説明で聞いていた。溶かすか、溶かさずに放っておくか。
迷いなく、私は『とかす』を指先でたたいた。
その後はずっと、『とかす』作業に専念した。
―― 南さん、また嫌味。先日課長から怒られた件、私のせいだと思っている
―― あそこを辞めて、コンビニのバイトに戻ろうか? 近所のコンビニ、電話番号をメモしたけどどうしても電話できない。以前みたいに失敗したら?
―― 給湯器の調子が悪い。きしむような変な音、神経に触る
―― 自転車、点検に出したくない。あのお店感じ悪いし。
―― 右ひざがまた痛む。歩くと特に痛い。
―― 上の部屋、またおおぜいで騒いでいる。今月で4回目。
―― 疲れが取れない。眠れない。
手のひらに乗せたウキは、どれもこれも文章化されているわけではないが、かたまりを見るだけですぐ何のことか分かった。
そしてたいがい、ちゃんと覚えがあった。
私はひとつずつ、手のひらで転がすように確かめ、おもむろに指先で『とかす』を選んで消していった。
不思議なことに、溶かす前、確認している時からすでに、ウキは私の心をあまり煩わせることがなくなっていた。まるで、他の人の人生の悩みを少し高い所から見下ろしているような、そんな感じだった。
ひざの痛みが、かすかによみがえったくらいだ。
私は軽くため息をついてウキを次々と溶かしていった。
残された最後のひとつ、手のひらに出してみてふと笑みがこぼれた。
―― ウキオロシの人が来た、信用できるのだろうか?
「だいじょうぶ、いい人だったから」
言葉に出して、それから消した。
それから二週間後、楓さんが寄った時、あれ? と私の顔を見直して、少しばかり目を見開いた。
「何だか、すっきりした顔してるね」
「うん……」
正直に言おうかと思ったところに、ああ、と気づいたように声を出した。
「もしかして、頼んでみたの?」
楓さんはウキオロシのことを知っているようだった。知っている者どうし、もう少し離したかったが、そう言えばウキの内容については他に語ってはいけない、と言われていたのを思い出し、私はあいまいに笑っただけだった。
楓さんもそれ以上追及することはなく、少しばかり他愛ない世間話をしてから、いつものように帰っていった。