初めてのウキオロシ 01
「あの、上着と帽子を」
灰色の男は帽子の縁をわずかに上げてみせた。
「ありがとうございます、お構いなく。これが仕事着なので」
小さなテーブル、先ほどまで楓さんがかけていた椅子を勧めると、「いえ」と小さくかぶりをふって形の良い手で椅子を指した。
「あなたが、座ってください」
彼はかばんの留め金をぱちりと開け、床に拡げて中から両手に収まるほどの小箱を取り出してテーブルに置いた。寄木らしい、細かい幾何学模様がみえていた。
ふたつに割れたかばんの半分側には、何かの機械がぴったりと収まっていた。もしかしたらかばんの一部なのかも知れない。反対側の半分には黒いビロードのような布地で型がついていて、両手で持てる程度の大きさをした何かの器具と、ペンのようなものが別々にはまり込んでいる。彼はふたつとも、そっと取り出した。
次に彼はかばんに収まった機器についている古めかしいスイッチを押し上げた。それはぶぅん、と何かが宿る音を奏で始めた。同時に彼が取り出したペン先に、蛍光色のほのかな灯りがともり、もうひとつの独立した器具の脇に、白いランプが灯った。
器具はぜんたいが黒くて大きなサングラスのような形をしていた。
膝立ちの姿勢で彼がそれを差し出した。
「このゴーグルをかけて頂きます」
ゴーグルと言われれば、確かにレンズの部分が眼鏡より頑丈な感じだった、しかし彼が拡げて耳に掛けてくれた時、それほど重さは感じなかった。
視界が真っ暗になり、縁からも光は漏れてこない。私はあちこち見回そうと少し首を動かした、なぜか音まで少し遠くなったようだ。
「では失礼します」
かち、と何かのスイッチが入ったようだ。少し高い音が近づき、右のこめかみに何かが押し当てられた。
「今当たっているのが、スティックの先です。これであなたの『母屋』の様子を拝見しますので」
「あの」
立ち上がろうとした肩を、大きな手が静かに押しとどめた。
「大丈夫、ゆっくりと息を吸って」
「……」
声音はまるで、静かな水面に拡がる波紋のよう、いえ違う、広がった波が徐々に真ん中に集まり、静まっていく、時を逆に巻き戻しているかのようだ、そして……
気がついたら、薄暗い景色の中、小さな家の前にたたずんでいた。
あたり一面、雪景色のようだ。少し寒さを覚え、そっと息を吐く。白い蒸気がほわりと上がった。
たたずんでいた、というのは確かではない。自分の手も足も見えていないのだから。
しかし脇には、あの灰色の人が立っていた。頭一つ分くらい大きいので、私も立っているのだろう。
彼は訪れて来た時のままの服装、帽子まで同じだった。しかしなぜか、大きなスコップを脇に立てている。
部屋の中よりも、彼の声は生き生きとしているようだった。
「あの家があなたの『母屋』で、屋根に積もっているのが」指さした方を見る。
小屋じみた家の屋根に、雪がふんわりと積もっている。
雪国でよく見るような光景だ。少しだけ違うのは、何となく雪が灰色に淀んでみえたことだろうか。
「あなたの『ウキ』です。今から私が屋根に上って、ウキオロシをします」
そこで、改めて聞かれた。
「半分残しますか? それとも全部?」
サイトの説明を思い出す。落とされたウキは、小箱に詰められていったん持ち主に返される。ウキオロシが帰った後でそれをひとつひとつ手のひらに載せて、反対の人差し指でそれを『溶かして』いくと、完全にウキが消えるのだという。
「あの……とりあえず半分で」
いつの間にか、彼は長梯子まで用意していた。それを軒に立てかけ、彼は片手にスコップを握ったまま、そこを上っていった。
彼は屋根を少しのぼり、てっぺんよりわずかに下あたりに足を拡げて斜め向きに立った。
ひざくらいまで『ウキ』に埋もれた状態で彼は、まずはそっと、目の前の『ウキ』をスコップにすくい上げた。
すくった分を、私の見ている方ではなく、横に向かって投げ捨てる。思ったよりそれは重量があるようで、ばらけることなくそのまま家の横に落下してから、はらりと崩れた。
私は、彼がウキをすくっては投げ捨てる様子をそれからずっと見守っていた。
そして、サイトのことばを思い返していた。
―― 魂は、その『負』が降り積もる『心の母屋』なる底の部分に『住んで』いて、あまりにも『負』が積もり過ぎて重くなると、押しつぶされてしまうのです。
心の中に積もる不安ごとや心配ごと、それは雪のようなもので、そのまま置いておいても溶けて消える方もいれば、なかなか溶けずにずんずんと重なり、やがてその下に住む小さな『たましい』を押しつぶしてしまうという方もいるのです。
私たち『ウキオロシ』は、そんな方々の心の中に入り、心の母屋の屋根から実際に、ウキを下ろすお仕事を…… ――
気がつくと、彼は屋根から下りて私の前に立っていた。
屋根の上はかなりすっきりとしていた。
それでも、と私は暗い空を見上げる。白く細かい、目にみえるかどうかという粒が、絶え間なくこの世界に降り続いている。
「こんなにも細かくて……落ちればすぐに溶けてしまいそう。まるで溶けるためだけに降っているようなのに」
「それでも降り積もってしまうんですね」私のつぶやきに彼は静かにそう答えた。
作業終了です、と彼は私を見て言ってからすらりとしたひとさし指を一本前に立て、こう続けた。
「この指を見てください」
白い指を見つめた。爪もきれいだ、そう思ったとたん……
私はもとの椅子に腰かけていた。
ゴーグルはすでに外されていて、彼はそれらを手慣れた様子でかばんにしまっているところだった。
「ご気分は、いかがですか」
私の前に立て膝で控えていた彼が尋ねた。
「そう、ですね」
信じられないことに、胸の中につかえていたものが、ほとんど消えているようだ。
そう伝えると、
「良かったです」
彼は軽く微笑んだようだ。そして、テーブルにあった寄木細工の小箱をそっと、私の手に握らせた。
「これは?」
「下ろしたウキを収める収納箱です」
こんな小さなものに、収まるのだろうか、不安が顔に表れていたのだろう、灰色の人は優しい口調で再度、ウキオロシの契約について説明を繰り返し、「いつでもまたご質問ください」と付け加え、それからまたひっそり夜の闇の中に帰っていった。




