#116 The other patient①
「水無瀬さん、大丈夫ですか~?」
「だ、大丈夫ぅ……」
「明らかに大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言わないで下さいよ~」
放課後の校内、一年C組担任の堀河桜は菫を小脇に抱えながら廊下をずんずん歩いていく。
菫を抱えていない方の手には、自分の荷物と菫の鞄。一旦菫を応接室において職員室に戻って取ってきたものだ。本当なら今の時間には職員会議をしているはずだったが、緊急事態ということで抜けたのだった。
彼女は菫を抱えたまま器用に昇降口で靴を履き替える。そのついでに菫の上履きと靴も履き替えさせる。
「いったいどこに行くのだ……」
「駐車場ですよ~。水無瀬さんを送っていきます~」
「……ま、まさか、貴様ゆうかi……むぐっ」
「人聞きの悪いことを言わないで下さい~」
二人がそんな会話を繰り広げていると、彼女はポケットから車のキーを取り出し、側面のボタンを押す。
すぐに一番手前にあった黒塗りの車のハザードランプが光った。彼女はまず助手席のドアを開けると、そこに抱えていた菫を『よっこらしょ~』と座らせて、次に反対側に回って運転席に搭乗した。
「シートベルトを締めて下さいね~。出発しますよ~」
彼女は菫がシートベルトを締めたのを確認すると、車を発進させる。スーッと滑らかに車は進んで校門を出て、目の前の広い街道に合流する。
ハンドルを握っている間も、赤信号などで停車している時は菫の顔色を確認する。ただ、その顔色は時間が経つごとにどんどん苦しそうに青ざめていくばかりだった。
「もう少しだから頑張ってくださいね~」
「……」
菫は頷くが、もう声を出す元気はない。
『マズいですね……。なるべく急ぎますか……』
彼女は心の中で焦りを滲ませると、車の運転を、これまでの乗り心地優先から時間優先にシフトする。そして、車線を変更すると、街道を制限速度ギリギリで飛ばし始めた。
「ぅぅ……ぅ」
菫の苦しさに喘ぐ声を隣で聞きながら、彼女はどんどん焦りを募らせていく。
街道を数分走った後、彼女は車を細い道に滑り込ませた。そして、そこでも制限速度ギリギリでかっ飛ばし、ショートカットも最大限に利用しながら車を急がせる。
そして、車の進行方向に目的地が見えた時、彼女は安堵して思わずため息を漏らしてしまった。
車は急ハンドルを切って突き当たりを荒々しく曲がると、目的地の入り口――屋敷の門の前にスライドするようにして急停車。彼女は停車した直後に運転席から降りると、すぐに車の反対側に回って菫と荷物を降ろした。
車が入り口を完全に塞いだのを察知したのか、すぐに門が開いて中から黒服の人物が数名出て来てバッと車を取り囲む。だが、彼女とその脇に抱えられた菫の姿を認めた瞬間、彼らはシュタッと直立不動の姿勢に立ち直った。
「え~っと、保護者様はどちらですか~?」
「現在旦那様がご不在の為、代わりに私が務めましょう」
彼女のそんな呼びかけに、黒服の内の一人が手を挙げて一歩前に出る。
「お嬢様はいかがなされたのですか?」
「咳と熱があります~。……これは推測ですが、おそらくインフルエンザではないかと」
「すぐに病院への手配を」
その一声で、黒服が忙しく動き回る。全員がマスクを着用した後、ある黒服は二人がかりで担架を迅速に運んできて、菫を屋敷の中に運び入れ、ある者は病院への車の手配をするために電話をかけ始め、またある者は屋敷に戻って、菫の保険証やら診察券やら必要な書類を取りに行った。
そして、二分後には、屋敷の中から菫を乗せた白い大きな車が病院に向けて出発していた。
その白い車を見送ると、最後まで現場に残っていた黒服が彼女に向き直る。
「ご協力して頂き、誠にありがとうございました……桜様」
「いえいえ~、教員としての務めですから~。それでは、まだ仕事があるので今日はこれで失礼しますね~」
彼女はあくまでも軽い感じでそう言うと、低頭する黒服に背を向けて自身の車に乗り込む。そして、シートベルトを締めると、彼女は車を発進させて転回し、屋敷の門の前を離れ、再び学校へと向かう。
街道に合流すると、交通量が多いためか、すぐに赤信号に捕まって停まってしまう。
その間、彼女はハンドルを握ったまま、どこかぼんやりと遠くを見つめていた。そして、無意識の間にその口から呟きが漏れる。
「桜様、か~……そう呼ばれるのも、久しぶり、ね」
次回、2022/06/23 19:00頃投稿予定!