聖女候補生①
酒に酔った男が暴れる。そんなことはこの街では当たり前だ。
潮の香がする。街全体に染み付いた匂い。暴力的な喧騒。
港町には荒くれの船乗り達が寄港するのだ。
腕っ節を競い合うような殴り合いの見物は、住人達の娯楽に近い。
だが、それは荒くれ同士のやり合いならではの話だ。男から女への一方的に加えられようとする暴力。しかも斧を持っているとなると話は別だ。
誰もが眉を顰めざるをえない。
それも狭い店内で斧を振り回し大暴れだ。
怒声と悲鳴と器物が破壊される音がたて続けだ。埃がぱらぱら天井から落下する。
死人がいまだ出ていないことこそ奇跡だった。
「 エリカぁ!! 出て来い! 俺と別れるなんて嘘だろ! なあ 」
二階に向かって怒鳴る、この男の酒癖のひどさは界隈でも悪名轟いている。
暴れ上戸とでもいおうか。ちょっとでも気にくわないことがあると女子供にも当り散らすのだ。
しかも荒くれの腕力で、躊躇なく殴りつける。
男がさがしているエリカは、もっとも被害を蒙った一人だった。
夫婦同然にエリカと同棲していた男はその夜とくに虫の居所が悪かった。
もともと彼女が夜の酒場で働いていたのが気に食わなかった。
仕事柄仕方ないのだが、男の客と口をきくことを非難した。
色目を使っているともなじった。
勝気なエリカは反論し、くってかかった。
それがいけなかった。
図星だから怒るのだに違いないと、男は酒で朦朧とした頭で考えた。
ならば自分が正義だ。正当に殴る権利があるとおそろしい勘違いをした。
自分の酒代がエリカの稼ぎで賄われていることは、都合よく忘れていた。
そして、容赦ない暴力の嵐にエリカはさらされた。
このままでは殺されると 怯えたエリカが、顔の半分が腫れ上がらせ、勤め先のこの酒場に助けを求め、駆けこんで来たのは、暴力がふるわれて間もなくだった。
その惨状に仰天したおかみはすぐにエリカを二階にかくまった。
後遺症を心配するほどの暴力の爪痕だった。
そして容態を見てもらうべく、医者に使いを出した。その矢先の出来事だった。
男がこの店の扉を蹴破る勢いで飛び込んできたのは。
握り締められた斧に、客達がぎょっとする。
「 エリカはうちの大事な従業員だ。暴力ふるうあんたなんかに渡せないね 」
酔眼であたりをぎょろぎょろと見回し無遠慮にエリカを探し回る男に、おかみが立ちふさがる。
「 これは俺達の問題だ。しゃしゃり出るな。ひっこんどけ。ババア! 」
鈍い音がした。おかみがもんどりうって吹っ飛ぶ。グラスやビンの割れる音が響く。
男は持っていた斧の柄で、力任せにおかみの横顔を張り飛ばしたのだ。
女に容赦なく男が暴力を振るうのを見るのは、まっとうな男にとって許しがたい。
はたして、がたっと申し合わせたように椅子を蹴り、非難の声をあげて駆け寄ろうとした常連客たちの足を、鼻先をかすめた斧の唸りが止めた。
「 近づいたヤツは顔面ぶち砕くぞ!! 」
男達は凍りついた。脅しではない殺気だった。
「 エリカ!! おまえがこの店ぐらいしか逃げるところがないのはわかっているんだ。早く出て来ないと店中ぶっ潰すぞ! 」
そしておかみの反応から間違いなくここにエリカがいると悟った男は、卑怯にもそれを逆手に取ることを思いついた。酔っていても狡猾な方向だけには頭が回る。根っからの悪党だ。
男が斧を振るうたび、テーブルや椅子が異音を発し壊され、床に転がっていく。
それでも息を潜めているエリカに業を煮やした男はあろうことか、床から立ち上がれず呻いているおかみの髪を乱暴に掴むとそのまま持ち上げ
「 おまえが出て来ないなら、このババアの頭かち割ってやる 」
そのままおかみを振り回し、壁に背中と後頭部を何度も叩き付けた。
「 やめて!! 」
鈍い寒気のするような音は二階にまで伝わった。
すぐに悲鳴をあげてエリカが二階の奥から飛び出し、転がるように階段を駆け下りてきた。
男は失神してぐったりなったおかみを無造作に放り捨てると、ぎらつく笑いをエリカに向けた。無惨にちぎれた髪の毛が、男の広げた掌から、ぱらぱらと床に落ちた。
「 おかみさん! 」
倒れ伏したおかみに駆け寄ろうとするエリカの前に男が立ちふさがる。
「 二度と男に、こび売れないよう顔をそぎ落としてやる 」
アルコールが脳の抑制を麻痺させていて、男の言動には一貫性が欠け危険極まりなかった。
酒臭い息をはき、重い斧を片手にぶら下げ、ゆっくりとエリカに近づいていく。狂った夢遊病者の足取りだった。
いつもこの酒場を訪れる兵士や腕自慢達がいないのは不運だった。
この場に腕ずくで男を止められる者は誰もいない。
後ずさりするエリカの目に絶望が広がる。それでも、傷ついたおかみを見捨て、遁走するほど、彼女の性根は腐っていなかった。数歩後退しただけで、後は泣き笑いの表情で踏みとどまった。自分の顔はこれからザクロのように砕かれるだろう。エリカは、気絶したおかみをかばうようにしゃがみ、観念し、絶望の光をたたえた目を閉じた。
そのときだった。
「 怪我した方はどこですか 」
場違いな可憐な花が突然現れたようだった。
その少女は楚々としてたおやかであった。美少女すぎて現実離れしていた。
殺伐としたこの場の雰囲気を無視し、あたりを見回す。
凶漢もその手の斧も少女の目には映っていないようだった。
倒れ伏すおかみとエリカの惨状に視線を止めると、躊躇うことなくそこに足を踏み入れてきた。
「 …なんだ おまえは 」
毒気を抜かれていた男が漸く我に返り、喚く。
少女はようやく男に気付いたというふうに振り返った。優しい顔立ちなのに、目の光が尋常ではなかった。鋭いのではない。穏やかなまま、底から輝くような瞳だ。少女の並はずれた精神力が目力に現れていた。
「 申し遅れました。聖女候補生、アンジェラ・ホワイトと申します。みなさまお見知りおきを 」
と優雅にその場にいた全員に向かい挨拶した。
聖女候補生さま? と その場がどよめく。
聖女は聖教会の象徴であり、現状三人しか存在していない雲の上の存在だ。その候補生ともなるとエリート中のエリートだ。
そのような人間がなぜこんな場末の酒場に現れたのか。
広がった戸惑いは少女のほほえみが打ち消した。
「 聖女候補生は医術も嗜みます。今日はリファルジュ医師に急患が入っていたため、たまたま居合わせた私が伺いました 」
つまりは、虐待されたエリカの容態を診てもらうため、おかみが呼んだ医師の代理ということだ。
彼女は、すっとおかみの傍らに膝をつく。
「 おかみさんは私をかばってくれたんです…! おかみさんを助けてください 」
必死に叫ぶエリカに顔をあげ、アンジェラは満足そうに口元をほころばせた。
「 あなたも手傷を負っているのに、まず他人を案じるのですね。そして、そんなあなたをかばったというこの方。その勇気、称賛に値します 」
少女の手が輝きだす。
真っ白を通り越し、土気色になっていたおかみの顔色が、見る間に血色を取り戻していく。
まるで死者に命が吹き込まれたようだった。
その変化はあまりに劇的でその場の全員が息をのんだ。
回復法術。聖教会に伝わる秘術。
癒しの御技だ、と熱をもった囁きが、店内のあちこちで起きる。
聖教会でも使えるものが稀な技。はじめて見るものにはそれは奇跡にしか見えなかった。
「 神は、あなた達のような気高い行いをする方たちを、決して見捨てはしません 」
おかみをそっと床に横たえ、すうっとエリカのほうへ近づき、腫れ上がった頬へ手を伸ばす。
おかみを癒したのと同じあたたかい光に包まれ、エリカは感動で涙をこぼした。
彼女は無教養ではあったが信心深かった。聖女候補生や、癒しの御技が、どれだけ価値あるものか、聖教会に祈りをささげに行くときの信者たちの会話から窺い知っていた。
「 わ、わたし、たくさんお布施できないんです… 」
失礼とは思いながら言わざるをえなかった。
アンジェラ聖女候補生は驚いたように目を見開き、静かに横にかぶりを振った。さらさらと髪の毛が踊る。
「 あなたも、あなたを助けた方も、なにか対価を得るために動いたわけではないでしょう 」
話がわからなく目をぱちくりさせるエリカ。腫れ上がっていた片目の瞼は元通りになっていたが、少女の美しさに引きこまれ、それにさえ気付かなかった。
「 あなたがたは神の御教えを実践されました。私も不甲斐ない身なれど、同じ道を目指すもの。私達はいわば同胞。仲間です。仲間を助けるのに報酬が必要ですか? 」
そう言うと聖女候補生はギシシッと歯をむくようにして笑った。清楚な彼女にはふさわしくない少し……いや、かなり下品な笑い方だったが、清楚な雰囲気が一気に崩れ、親しみやすくなった。エリカの緊張をとくためムリしてそんな態度をとったのだろうと、人々は彼女に好意を抱いた。
アンジェラの話し方は無教養なエリカには少し難解であったが、次の言葉ではっきり意味がわかり、驚きに目が見開かれた。
「 お金はいりません。神の道は誰にでも平等に開かれています。気高い行いをする者には特に 」
エリカは感激に打ち震えた。
無報酬の件もそうだが 彼女を気高いと少女が褒めてくれたことに対してだ。
「 あたし、あたし、なんていったらいいか…」
言葉が詰まって出てこない。
愚図だ顔だけだと男に罵られてきた。そんな自分をこの聖女候補生が認めてくれた…!
その頃になってようやくおかみが小さな呻きをもらし、意識を取り戻した。
きょとんとした表情で上体を起こし、あたりを見回す。
元通りの顔に戻ったエリカ、優しくほほえむアンジェラ聖女候補生を呆然と見る。
「 こりゃあ いったい…あんたは? 」
「 おかみさん! 」
エリカが泣きながらしがみつく
「 聖女候補生様が、聖女候補生様があたし達を助けてくれたの。すごいの。おかみさんの怪我もあっという間に治して… 」
「 聖女候補生!? 」
さすがにおかみはエリカより事情に通じていた。
それだけに信じられないというふうに目を見張る。
「 そんな雲の上の人がなんで… 」
「 聖女様はともかく私はただの候補生ですよ 」
アンジェラ聖女候補生は苦笑した。
「 それに神の平等の前では聖女様と言えど、ただの教え子ですから 」
居合わせた全員がどよめいた。
いずれ聖教会の高位に上り詰めるであろう本人が、まさかそんなことを口にするとは予想していなかったのだ
神を絶対とする聖教会でも人の組織であることに変わりは無い。当然上下関係は発生する。
アンジェラ候補生のような考えを持つ者はいても公然と口にする人間は少ない。
上位にいるものは特にだ。それが組織というものだ。
「 聖女候補生さまだ? 傷治したら気が済んだろ。じゃあとっとと帰りな。エリカこっちに来い! 」
しらけた表情で成り行きを見ていた男が、痺れを切らせて割って入ってきた。
強引にエリカの腕を掴もうとする
だが、突然ぎゃっと喚いて飛びのいた。腕に激痛が走りぬけたのだ。
聖女候補生は静かに立ったまま、一瞥した。
「 …身体の傷は癒せても、心の傷は残っています。怯えた彼女の瞳に気付かないのですか。あなたの目は節穴ですか? 」
聖女候補生は穏やかに語りかけた。だが、その言葉の内容は厳しい。さきほどおかみやエリカに向けたものと違い、抑えた激情が、その優しげな目の奥底に、マグマのように鳴動していることに、男は気づけなかった。
「 こいつは俺の女だ。俺がどう扱おうが、おまえに関係ないだろうが。お高くとまったメスガキが正義漢ぶってんじゃねぇ。おままごとならよそで…ぐッ!? 」
言い終わる前に、見えない手で弾かれたように、男の顎が跳ね上げられた。顔がひしゃげ、足が宙に浮く。
「 俺の女だという台詞は、男が女性を守るときにこそ、相応しい言葉です。傷つけるときに、断じてつかっていい言葉ではない!! 」
アンジェラ聖女候補生の瞳に炎が燃えあがった。
怒りがこらえられる臨界点をこえたのだった。
お読みいただいた皆様に感謝です。
初投稿した作品に手を加えたものですので、いろいろ読みづらかったり、自分自身で恥ずかしくなるような部分もたくさんあります。なんかもう本当にすみません。