周皇太后
「ちっ、思ったより早かったな。お前にも今日話しておこうと思っていたのに間に合わずか。だが春麗、お前も来い。なんとかなるだろう」
そう言って、座ったばかりの席を立ったのだ。
なに……? 何を話そうと思っていたの……?
しかし来いと言われれば着いていく。
白龍の様子から、何かが起こると直感でわかった。
白龍は貴妃宮に向かう間も指示を出していた。
「夏南を呼べ。あと楊太師と呉太保にも至急来いと伝えろ」
なんとこの後宮に、皇宮の官吏を入れる指示を出すとは非常事態である。
この場合、楊太師も呉太保もお年寄りだという話は全く別の話なのだ。
夏南、つまりは李夏さまが、見たこともないほど真面目な顔をして貴妃宮の前で合流した。
なんといつもの天女の微笑みがない。
私は初めて、この人が微笑んでいないときは、とてつもなく美男子なのだと知った。
「夏南、状況は聞いているか?」
「いえ、突然危篤状態に陥ったという報告だけが、今」
「ねえ、ここで立ち止まっている場合なの?」
私は貴妃宮の入り口で立ち話を始めた二人を見て言った。
しかし。
「楊太師と呉太保がまだ来ていない。それに、俺の見通しでは危篤ではないだろう」
「そんなことがどこでわかるの!?」
しかし私が驚いている間に、着の身着のままという感じの楊太師と呉太保、つまりは皇宮のナンバーワンとナンバーツーが宦官たちに囲まれて駆けつけたのだった。二人ともぜいぜいと息をきらしている。
さすが李夏さま、皇宮の官吏二人を後宮に入れるための手はずはしっかり整えてから駆けつけるとは仕事が完璧だ。
「主上、参りました!」
その場で礼をする二人に向かって、白龍が言った。
「おそらく、貴妃の近くには周皇太后がいるだろう。取り乱しているはずだ。楊太師と呉太保は状況を子細に記録せよ」
「御意」
そして二人は、自分についてきた大勢の宦官に指示をして、記録をとる準備を整えたのだった。
「主上、周皇太后さまがお呼びでございます。お早く」
貴妃宮の宦官が口をはさむ。いったいこの宦官は何様なんだ?
どれだけ周貴妃と周皇太后が普段から皇帝を低く見ているのかがうかがい知れる。
「今から行く」
「……ここからは貴妃宮でございます。王淑妃さまはご遠慮ください」
白龍に付いていこうとした私を見とがめて、貴妃宮の宦官がずいと私の行く手を阻んだ。
目が明らかに私を見下している。
思わず足を止めた。しかし。
「朕が許可したのだ。淑妃を入れよ」
いきなり白龍が皇帝然とした迫力で言ったので、宦官はちらりと白龍を見た後に身を引いたのだった。
その結果、白龍、私、李夏さま、楊太師、呉太保で貴妃宮に入る。
貴妃宮の奥、周貴妃の寝室では、周貴妃さまが真っ白な顔をして昏々と眠っていた。
そしてその傍らには周皇太后らしきいかにも高貴とわかる服装の女性。
その人は、私たちを見るなり叫んだ。
「白龍! そなた未来の皇后である桜花の寝室に他の妃嬪を連れてくるとはどういうことだ! 即刻追い出せ! 恥を知るがいい!」
それはヒステリーではなく、純粋に怒りの声だった。しかし。
「周皇太后。あなたも楊太師から聞いたのでしょう。皇后は春麗です。そして今、私に一番必要な存在でもある。追い出すことは私が許しません」
白龍がそれに応じて答えた。
非常に落ち着いた……少しの怒りを威厳に混ぜた口調で。
しかし私は隣で、え? 必要な存在? そんな言葉初めて言われたような気がするよ!?
などとびっくりして白龍の顔をまじまじと見てしまったのだった。
後宮にいると、自分がその他大勢の中の一人なのだと思い知らされることがとても多い。だから、彼の口から直接必要だと言われてちょっと嬉しかった。
しかし周皇太后も、さすがに危篤状態の娘の前で他の女を重んじるような台詞を聞いたら怒るだろう。
「そなたに必要なのは、全てを知っていてなお全てを受け入れてくれる桜花であろう。なのにそのような世迷い言を言うとは、先代主上がお聞きになったらお怒りになるぞ」
周皇太后は、それはそれは悔しそうな顔で白龍を睨んだ。
しかし白龍は涼しい顔だ。
「私に必要な人は私が決めるのですよ。それよりも桜花はどうしたのです。今の容態は?」
白龍がそう言って、周貴妃の枕元で真っ青になっている後宮付きの侍医を見た。
侍医は大量に冷や汗を流しながら言った。
「それが……全く意識が戻る様子がございませんのです。熱も高く、なのにこのまま意識が戻らなければあっという間に水分も栄養もとれずに弱ってしまいます。しかしどのような方法をもってしても意識が戻られないのです!」
最後は悲鳴のように叫んでいた。
「ああ桜花……可哀相な子! 桜花のおかげで皇帝になれたにすぎない男が思い上がって、下賤な女に骨抜きにされてしまったせいでこんなことに! 皇帝が先代のご恩を忘れてしまったせいで、この子はずっと悩んでいた。きっとその心労で倒れてしまったのです。このままこの子は悲しみのあまり死んでしまうかもしれない。いいえ、きっと死んでしまう……!」
周皇太后が悲痛な顔で白龍に訴えた。だが、
「……」
白龍はなぜか黙って冷たい視線で周皇太后を見つめている。
それでも周皇太后は目に涙を浮かべて言葉を続けた。
「白龍、いえ皇帝陛下。今こそ先代さまのご遺志を思い出されませ。このまま桜花がみまかってしまったら、先代さまとの約束を守ることができなくなるのですよ。そうしたらあなたは皇帝位を追われるでしょう。先代さまの勅命がある限り、その運命は変えられない。さあ、間に合う内に、今すぐ桜花を皇后にすると宣言するのです!」