好きなものを好きと言える僕と君―1
「はっ! ああ……また変な夢を見た気がする」
夢から覚めると、自分の部屋が別の世界のように錯覚してしまう時がある。やがて段々と意識がはっきりしていくと、夢での出来事なんかすっかり忘れ、自分の部屋で寝ていたという当たり前に気づくのだ。
顔を洗い、制服に着替え、朝食を済ませる。部屋から鞄を拾い上げ玄関へと向かった。
「いってきます。父さん」
いつも通り写真の中でニッカリ笑っている亡き父親に挨拶を済ませ、僕はアパートを出た。
今日も桜の木の下で妹の詩由が僕のことを待っていた。春は舞い落ちる桜の花びらに囲まれ、夏は暑い日差しを緑の葉に遮られ――木陰で待つ詩由の立ち姿はいつ見ても妹ながら絵になるな、とそんな感慨を抱く。
「おはよ。兄さん」
「おはよう。っていうか今日もあっついな」
僕と詩由はアパートを出て、いつもと同じように隣同士に並んで歩き始める。
「おまえいつもどれくらい待ってるんだよ」
「ニ十分くらいかな?」
「ニ十分? 毎朝ここで待ってんだったら、僕がどれくらいに出てくるかくらいわかるだろ?」
いくら木陰の中とは言えこんな蒸し暑い日に外で立っていたら熱中症にでもなってしまう。現に詩由の肌はじんわりと汗を掻いているようで、少なくとも楽ではないことは窺えた。僕が詩由の全身を舐めるように見ていると、咄嗟に焦りだした詩由は汗の滲んだ額や腕を持参のハンカチで拭き始めた。
「に、兄さんが早く出てくればいいの。そしたらこんなに私が待つこともないのに」
「これでも結構余裕な時間に出てるつもりなんだけどな。おまえが早すぎるんだ」
僕は別に高校に入って遅刻などしたこともない。朝から慌てるのは嫌いだ。
「なんで呼び鈴鳴らさないんだ?」
「え? だって、朝から押しかけるのも悪いと思うし……」
詩由は意外そうな顔を僕に向けた。
「んじゃ……ほら」
僕はキーホルダーについていた鍵の一つを詩由へと投げ渡した。
「えっ?」
「僕たち家族なんだからさ、家族の家くらい勝手に入ってくればいいじゃないか」
「いいのっ?」
そして今度は暑さも吹き飛びそうな笑顔で僕を見る。そんなに嬉しいのか?
「お母さんたちが離婚してから私たち離れて暮らすようになったってのもあるし、お父さんが死んじゃってから少し遠慮してるところもあったんだけど」
「なに言ってんだ。いくら離れてたって他人になるわけでもないだろ」
「う、うん。そうだね」
詩由の嬉しそうな表情の中に悲し気な感情が混じっていたような気がした。なんとも不思議だが、こいつはよく表情のコロコロ変わる奴だ。何がきっかけでそうなるのか僕にはいまいちよくわかっていない。
笑顔に陰りがあったのは一瞬だった。詩由はまた満面の笑顔で僕を見上げる。
「じゃあ今度から家の中で待たせてもらうね。ありがとう、兄さん」
妹のご機嫌な笑顔を連れて、僕はアパートを出た。
公道が十字に交わる交差点の前で立ち止まった。横断歩道の上方にある信号が示しているのは赤であり、目の前をトラックや乗用車が押し寄せる波のように行き交っている。いつも足止めを食らうこの信号機の赤を見て運の悪さをとことん感じた。
「ところで兄さん……兄さんは誰と付き合うことになったの?」
「…………は? 何言ってんだよ? 僕が付き合う? ホント何言ってんだ」
自然を装いながら髪をかき上げ、朝の新鮮な青空を見上げる。
ふぅ、今日もいい天気だな。こういう日はピクニックにでも行きたい気分だぜ。
隣にいる妹から発せられる温度が、段々と冷たくなっているような気がした。
「兄さん? 告白、したんでしょ? いい加減誰に告白したのか教えてくれてもいいんじゃない?」
ううぅっ! なんか今冷たい風が吹いた気が……やっぱり今日はピクニック日和じゃないなこりゃ。
冷たい冷気は詩由の見せかけだけの笑顔から放たれていた。
「……振られたんだよ。誰に、ってのはあんまり言いたくな――」
「は……? え? 兄さんが……振られた……?」
驚愕の真実を突き付けられたように、目も口も大きく開け、詩由は僕を見ていた。
「ああ。まあそもそもが負け戦に挑むようなもんだったからな。当たって砕けろ! って意気込みで告白したら分子レベルまで分解された気分だよ」
「分子……レベル? それほどまでに兄さんはけなされてしまったというの……?」
別居してるとは言え、僕の人間関係において一番付き合いの長い妹の感情を僕は手に取るように知ることができる。
……なんでそんなにキレてんの?
「誰?」
「はえ?」
「兄さんを振った愚か者が誰かって聞いてるの。私がそいつを原子レベルで分解してあげるから」
嫌な予感しかしない。僕が告白した相手を教えてしまったら――なんでこんなに怒っているのかはわからないが――とんでもない大事件を起こしてしまいそうな気がする。
アスファルトから照り返す熱気からか、それとも地球温暖化の影響か、僕の掌はじんわりと汗が滲み始めていた。
ふと信号を見上げてみると、ちょうど青に変わった瞬間だった。
「…………お、地球外知的生命探査の時間だ――それじゃ」
「あっ! そんな電波じみたことで誤魔化すなっ! 待ちなさい!」
僕は全速力で走りだし、詩由を置いてけぼりにする。詩由があきらめてくれるまでなんとか時間を稼ぐとしよう。僕は一人、そう決心した。