扉の世界Ⅱ
僕はまた夢を見ていた。
そこは誰もいない交差点だった。二車線道路が十字に交わり、住宅やアパート、小さなビル群が分け隔てられている。夕暮れ時の太陽が、広く見えるアスファルトをオレンジ色に染め上げていた。
僕は信号待ちをしている歩行者のように、横断歩道の前に立っている。往来する車はなく、歩行者も僕一人しかいない。それなのに見上げた信号は実際に赤を示している。こんな信号機に一体何の意味があるのだろうか、と僕はついつい考えてしまった。
「この場所に見覚えはありませんか?」
「え? うわ――っ! あんたいたのか……」
僕は一人で立っていた訳ではなかった。僕の隣には狐の老紳士が背筋をピンと伸ばし、僕と同じく横断歩道へと向かい立っていた。鼻より上を覆う金色の毛並みが夕陽を反射し、輝きを際立たせていた。
「私は夢の案内人ですので。夢の中でならどこへでもお供致しますよ」
「あっそう。――見覚えならある。だってこの辺家の近所だし」
見覚えという朧気な表現では物足りないほどに、僕はこの場所を鮮明に把握している。通学路でもあるし、なんならこの四方向に伸びる交差点の行き先だってある程度までなら知っていた。
でも、なんで帰り道なんだ?
「昨日の夢じゃ未来への入り口だとかなんとか言ってたけど、この夢が僕の人生にどう影響するって言うんだ? ……というか」
昨日見た夢の内容も、今日の現実での出来事も、今の僕はどちらも憶えていた。
昨日は真っ白な、扉の無数にある世界でこの狐の老紳士にどんな人生を望むのかと、そう聞かれた。僕は誰かと寄り添いあい、幸せな人生を歩む未来を願ったのだ。
そして今日――いや昨日? 僕は狐の老紳士が候補に挙げた三人の内の一人、望月玲に振られてしまったのだった。
「僕は望月に振られたんだが? ……結局はこの夢なんて僕の願望でしかないんだろ? 夢は夢でしかないんだ」
そう車道に向かって吐き捨てると、狐の老紳士は愉快そうに鼻を鳴らした。
「焦ってはいけません。人生とは紆余曲折――曲がりくねった道にはいくつもの障害が待ち受けています。成功と失敗を重ね合わせ、経験を積み上げていく。そういったプロセスがよい結果との邂逅を様に与えてくれるのです」
「振られるのが経験だとでも言うのか? あんな悲しい経験、僕は知りたくもなかったよ」
見上げた信号はいつしか青へと変わっており、横断歩道には結局何も横切らなかった。信号が赤から青に変わるまで待っていた時間がとてつもなく無駄だったのではないかと、夢の中でさえ苛立ってしまう。
イラつきがこみ上げながらも、僕は横断歩道を渡り切った。車の確認なんてしない。車どころか人っ子一人通っていない横断歩道にどんな危険があるっていうんだ。
狐の老紳士は大きな口をニンマリとさせながら、車道沿いの歩道を歩いて行く。僕は渋々と、狐の老紳士の後をついて行った。
いつもの見慣れた風景のはずなのにこうも人の生きている気配がないと、まるで異世界にきてしまったかのように見えてくる。いや、実際に今僕が見ているのは夢であって現実ではないけれども。
車道と住宅の連なる塀に挟まれた歩道を狐の老紳士と共に歩いていると、ひときわ大きな敷地を持つ建物の前で狐の老紳士は立ち止まった。
「ここは……公民館?」
目の前にある建物はここら一帯の地区の公民館であった。公民館とは言っても、ほとんど小学生たちの溜まり場のようになっていて、中高生ともなると全く足を運ばなくなる場所である。
狐の老紳士は夕暮れ色に染まる公民館の敷地内に入り、三段の石段を飛び越えると入り口の横に立った。
「さあご主人様、錠は既に解かれております。扉をお開きください。この扉を開けば夢から目覚めるでしょう」
狐の老紳士は恭しく頭を下げる。ガラス張りとなっている両開きの扉のその奥は真っ暗になっていて、見えるはずの屋内が何も見えなくなっていた。
「なぁ。さっきも聞いたが、この夢には一体どんな意味があるんだよ? 僕には意味があるのかそれともそうでないのかも全くわからないんだが」
夢の仕組みは記憶の整理だとかよく耳にする。確かにこの夢の風景は僕の見たことのあるものだし、馴染みもあってよく思い出せるけど、目の前にある公民館なんて幼い頃に何度か来た記憶があるくらいで別に思い入れがある場所でもない。
「ご主人様はかつて、自分の見た夢に意味を見出せた経験がございますか?」
「いや、ないけど……っていうか夢って起きたらすぐ忘れるし」
僕の初夢精も、結局どんな内容の夢を見てそんな事態になってしまったのか、全く思い出せなかった。……勿体ないことこの上ない。
「今ご覧になっている純粋な夢とはそういうものです。しかしながら、夢と現実――二つの世界は密接な関係にあり、ご主人様の記憶によって繋がれています。もしもこの夢が現実の世界へと影響を及ぼす場合、現実の世界のご主人様に天啓のようなものが降りてくるのかもしれませんね」
「この夢が現実の僕にどんな影響をもたらすのかは、目を覚まさなきゃわからない。例え夢では理屈がわかっていても、現実での僕は第六感が働いたとでも勘違いするわけか。……夢らしいっちゃらしいくらいにめちゃくちゃだな」
僕は両開きの扉に手をかける。向こう側の暗闇に不安を掻き立てられるが、僕の抱くこの感情も夢の中でのもの。恐れることは何もない。
「いってらっしゃいませ。ご主人様」
僕は暗闇へと向かい、扉を開いた。