扉の世界Ⅰ
僕は夢を見ていた。
ここは夢だとはっきりと認識できた。体にはどこか浮遊感があって、頭の中も余計な思考を取り除いたかのように澄んでいた。何よりも現実感のないこの真っ白な世界は夢じゃなきゃ有り得ない。夢は願望の現れだとか、記憶の整理だとか言われているけれど、僕が今まで見てきた夢はそのどれもこれもに当てはまらず、どこか曖昧で、漠然としていて、荒唐無稽な気がする。
この真っ白で何もない世界はそんな今まで見てきた夢たちと同じなのだろうか?
「扉の世界へようこそおいでくださいました。上乃弦二様」
――と、渋い声とともに、突如誰かが現れた。
鼠色の背広とスラックス。そして頭の上に同じ色のシルクハット。白い手袋をした右手にはステッキが握られており、老紳士風に見える格好をしていた。
しかし、その頭はまごうことなき狐だった。
獣の持つ鋭い目と前に飛び出した大きな口。顔中を覆う毛並みは真っ白な世界で金色に輝いていた。
夢の世界だと割り切っていた僕は、その狐の頭をした紳士の出現にさほど驚きもしなかった。あくまで冷静に、狐へと問いかけてみる。
「あんたは誰だ?」
「私に名前はありません。どうぞご自由にお呼びください」
「……じゃあ、『狐の老紳士』。ここは夢であってるんだよな?」
「左様でございます。ここは夢。眠りの果てに存在するご主人様だけの世界です。故に私は、ご主人様が無意識の内に創り出した夢の世界の住人に過ぎません」
僕の質問に狐の老紳士は重厚感のある低い声でそう答えた。夢の中だからだろうか、狐とこうして話しているにも関わらず特に変な感覚もしない。呆ける頭の中でようやく思いついたのは、この夢が僕に何を求めているのか? という疑問だった。
「ふーん。それで? 僕はこんな何もない真っ白な世界で何をすればいいんだ? どうせなら面白い夢を見たいところなんだけど」
「扉を開くのです」
狐の老紳士は右手を支えていた黒いステッキで、あるのかどうかも判然としない真っ白な地面を、二回ノックするように先端で突いた。
白い世界にぼんやりと黒い靄が点々と現れ、次第に木製の扉が形成された。上を見上げても下を見下ろしても、たちまち真っ白な世界に無数の扉が点在し始め、いつしかそこは白い世界ではなくなっていた。
「こ、これは? この扉は何なんだ? なんでこんなに扉が?」
急激な世界の変化に僕は驚きを隠せなかった。そんな僕の反応を面白がっているように、狐の老紳士の大きな口はにんまりと端を上げる。
「この扉の数々は、ご主人様が歩む可能性のある未来への入り口となっております。人生にはきっかけをつくることによって無数の道筋が生まれるのです」
「今の僕にはこれだけの、未来の選択肢があるってことか?」
「ええ。そして私はこの世界の案内人。扉の向こう側を覗き見ることができます。私めがご主人様のこれからの人生を照らして差し上げましょう」
「なるほど」
よくわかっちゃいなかったが、とりあえず納得してみた。扉の世界だかなんだか知らないけど、これは夢――曖昧で、漠然としていて、荒唐無稽な世界。
いずれ夢は覚めるもの。どうせなら自由に扉とやらを選択してみようじゃないか。
「ご主人様は、どんな人生をご所望になりますか?」
「じゃあ……僕は幸せな人生を歩みたい」
これが夢だと割り切って、僕はそんなありきたりな望みを答えた。
「ほう、ご主人様の幸せとは…………なるほど、よきパートナーと共に人生を歩みたいと、そう望んでおられるのですね」
「う……そ、そうだ」
自分の夢の産物であるからか、僕の想像する幸せの形が目の前の狐の紳士にはわかっているらしい。改めてこの場所が夢の世界だと思い知らされる。
「わかりました。……それでは、こちらの扉をご紹介いたしましょう」
熟考するように鋭い目を閉じていた狐の老紳士は、目を開くと再び手に持っていたステッキで足の下を叩く。目の前に一つの扉が現れた。
「南雲詩由、望月玲、そして坂之下夏――この三名がご主人様のよきパートナーとなりうる存在です」
「えっ? ま、マジで?」
「その扉を開けば、その三人の女性の内誰か一人と、幸福な人生を共に歩む未来が待っているでしょう」
聞き覚えのある三人の名前を聞いて、僕はいろんな意味で驚愕した。今名前を呼ばれた三人と人生を添い遂げるなど想像もできない。それともこの扉を開けば、誰かと急接近する現実が待ち受けているのだろうか?
……いやいや、何度も思うがこれは夢。僕の運命が夢ごときに変えられるわけがない。
「そして、この機会を逃せばご主人様は結婚できません」
「はぁっ?」
「さあ、扉の先へと向かいましょう」
「……わかった」
どうせ夢だとするならば……。
「――」
狐の紳士に促されるまま、金属の表面が滑らかなドアノブに手を伸ばした。捻って回すとガチャリという音を立て、僕はそのまま扉を押し開いていく。
地味で、平凡で、くすんでいる僕の人生に誰かが色をつけてくれるのなら。
その誰かがきっと、僕のそばで色鮮やかな人生を輝かせてくれるに違いない。
扉の先には光が見えた。僕は光の中へと飲み込まれていく。
「ご主人様の人生が、よき道程とならん事を――」