第二十六話 夕日色の廊下
終業式を明日に控えた木曜日の放課後、
いつもの気だるい雰囲気が漂う美術室に珍しい訪問者が来た。
部長の緑里さんがイーゼルを担いで外から帰って来るなり、いつものクールな口調で由真にこう告げたのだ。
「水澤さん、高宮が呼んでる」
全く理由が思い浮かばない由真は、目を丸くして聞き返した。
「高宮君?何でだろう・・・」
「そこの廊下に居るよ」
振り返って、顎でしゃくる。
窓の外には夏の夕日が浮かび、校庭の運動部も片付けを始めていた。
高宮の所属するバスケ部も、もう終わったのかも知れない。
ともかく、色鉛筆をガチャガチャと筆箱に詰め込んで鞄に放り込み、美術室のドアを開けた。
確かに、体操着姿でスクールバックを背負った高宮が無表情でそこに立っていた。
「どうしたの?なっちゃんに誤解されちゃうよ」
冗談半分、本気半分で笑い、駆け寄った。
「いや、ちょっと気が向いただけだ。聞きたい事もあるし・・・言いたい事もあるし」
「・・・ああ、そうか」
逐一説明しなくても、何の事か全て分かった。
高宮の顔が少しだけ険しくなる。
「やっぱり聞いたんだな?」
「うん・・一応」
「そうか。まあ・・歩け」
言うが早いか、高宮は小走りで美術室前を離れる。いくら口の堅そうな詩織や緑里さんでも、立ち聞きされるのは嫌に違いない。
由真も小走りになりながらスクールバッグを背負込む。
少し離れた人気のない廊下で速度を落とす。日の当たる渡り廊下は、西日で真っ赤に染まっていた。
「修学旅行の時か?」
「うん・・。新幹線の中でなっちゃんが変なこと言ったから・・・誤解を解こうと思って」
高宮の真剣な口調に、もしかして怒られるんじゃないかと由真は少し言い訳をした。
しかし、それを察した高宮は即座に弁解した。
「いや、別にいいんだそれは。俺はそんな事怒ってない。多分・・亜紀が浮かれて話したんだろ?」
一瞬垣間見えた恋人同士の空気に、再び祝福の気持ちが浮かんできた。亜紀が白い顔を真っ赤にして微笑む様子を、自然と想像してしまう。
「それで・・」
「うん?」
「二日目の朝、だけど・・」
「それがどうしたの?」
「・・水澤、お前何時に起きた・・の?」
あの台風襲来(但し局地的)の翌日の事だ。
何時もなにも、朝食のバイキングに遅刻しそうになる所を高宮も見た筈なのだが。
質問の意図が判らないまま、取りあえず素直に答えた。
「結構遅かったよ。朝方一回起きたんだけど、また寝ちゃって」
「そうか」
「何で?」
「いや、別に。部屋では何も無かったか?」
「うん・・まぁ、私となっちゃんは、ちょっとモメたけどね」
ヒヤリとしたが、さすがになっちゃんに言い放ったあの一言だけは言えなかった。
やっぱり心配してたんだなぁ、きっと一晩中。
「一応言っておくけど、言うなよ」
「わかってるよ!誰にも言ってないよ!!」
目を見開いて、”めっそうもない”という様に首を左右に振った。
皆に言って盛大に祝いたいのは山々だが、知れたらマズイのが約一名居るので。
「でも、おめでとう。良かったじゃん」
「止せよ」
「じゃ、そう言うことで。また変な噂になっても困るし・・ははは」
「まぁ待てよ。ミチハルの事、聞きたくねぇのか?」
殆ど走る体制になっていた体を、1、2歩スキップして誤魔化した。
「何それ。どんな話?」
「ミチハルがお前をどう思っているかって話」
「ウソ!そんな事聞いたの??!」
「え?いや・・でも、あいつ結構態度に出るから」
「そうなの?私には全然わからないよ。ミチハルが何を考えてるのか」
それは今の由真にとって最も知りたい事だった。
そして同時に、永久に分かり得ない様な気もしていた。
心に準備も出来ないまま、先を促すように黙って頷いた。
「あいつさ・・お前を良い奴とか言ってたけど、ホントはちょっと違うと思うぞ」
喜ぶべき事なのだが、回りくどくて思わず由真は聞き返した。
「・・・それってつまり良い事なの?」
「お前が"良い奴"止まりで居たいなら、良くないな」
高宮がふざけて、さらに回りくどい言い方をした。
「じゃあな。黙ってろよ、亜紀の事は」
「あ、うん。勿論」
高宮がサッサと行ってしまった後も、一人仄々と喜びを噛み締めていた。
もしも・・万が一付き合う事が出来たなら、どんな生活になっても構わないからミチハルに付いて行きたい。
それがどんなに無謀な願いだとしても。
ああ、神様。こんな時にしかあなたの存在を信じない、その程度の人間のお願いでも聞いてくれるなら、私は今日から毎日祈りを捧げます。
どうか、私がこの先もしも結婚するならば、今までの人生で最も愛した人と結ばれますように。
キリスト教徒の阿部先生の真似をして、胸に十字を切って祈った。
下校時刻を告げるチャイムが、彼方から聞こえるまで。